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日々の泡

作者: 西川裕美

                意識のなかで膝を抱えて静かに瞳を閉じる



 家に帰ると、とりあえずという感じでクーラーをつけた。暑い。暑い。暑い。身体に必要以上に湿度を持った暑い空気がまとわりついてくる感じがある。たまらずわたしはシャワーを浴びることにした。シャワーを浴びているあいだに少しはクーラーで部屋も涼しくなっているだろう。


 お風呂から上がると、昨日買っておいたコーヒー牛乳を取り出して、それをグラスに注いで一息に飲み干す。美味しい。やっぱりお風呂上りはこれに限るなぁとしみじみ思う。もうちょっと歳をとったらビールの方がいいと思うようになるのだろうか。わからないな。


 部屋の時計に目をやると、時刻は夜の八時十五分を回ったところだった。いつもだと明日は仕事だと思って憂鬱な気分になるところだけれど、幸い、明日は休みなので開放感がある。

 

 わたしは近くの飲食店で週4回から5回アルバイトをしている。所謂フリーターというやつだ。就職はしなかった。短大の卒業間近にちょっと就職活動をしたこともあったけれど、結局なかなか決まらなくて、最後は面倒になってやめてしまった。ダメダメ人生のはじまり。はじまり。


 ときどきこの先自分はどうなっちゃうんだろうとか、先々のことを考えると、不安な気持ちになることもあるのだけれど、かといって今は必死に就職しようという気持ちにもなれない。そもそもだいたいは毎日の生活に追われて将来のことなんて忘れてしまっている。それにだいたい正社員のひとって楽しいのかなと疑問に思ってしまう。それは経済的な面とか保障とかの面ではいいんだろうけど、でも、義務と目標と終わりのサービス残業にかんじがらめになっててすごく大変そうに見える。


 それだったらフリーターでいた方が気楽でいいな、なんて、考えが甘いのだろうけど、思ってしまう。今のところ金銭的な面では困っていない。わたしはどちらかというと質素な生活をしているし、僅かずつではあるけれど、ちゃんと貯金だってしている。


 だけど、ずっとこのままっていうわけにもいかないよなぁ、と、将来のことを真剣に考えると、結論としてはどうしてもやはりそういうことになる。わたしもいつもまで若いわけじゃないんだし。というか、もう二十四歳だ。アルバイト先の周りの娘たちはみんな二十歳とかそれくらいで、パートで働いているおばちゃんを除けば、わたしが一番の年長者ということになる。これはヤバイなぁ、と、焦る。今はまだ二十四歳だからいいけれど、これがもっと歳をとって、たとえば二十九歳とかになっても今のままだったとしたら、目も当てられない気がする。


 やっぱりなんとかしなきゃなぁと思う。思うし、落ち込むんだけど、でも、良い解決策が思いつかない。というのも、このままじゃ駄目だなとはわかっているんだけど、かといって正社員になって義務と目標に追われて息を切らして生活をするのも嫌だからだ。なんとか中間みたいなところってないものだろうか。将来もちゃんと保障されていて安心できて、なかかつ過度な労働に追われなくてすむような環境。でも、ないよなぁ、そんなの。


 と、わたしがそこまで思考を推し進めたところで、机の上においてあったケータイ電話のバイブがうなった。ケータイを手に取って着信を見てみると、それは短大の時代の友人である江川雪江だった。彼女もわたしと同じでフリーターをしている。確か彼女は池袋からどこかそのへんのスターバックスで働いていたはずだ。


「もしもし」

 と、わたしはケータイに出ると言った。

「もしもし」

 と、江川雪江も言った。

「どうしたの?」

 と、わたしは用件を尋ねた。


「べつになにも」

「べつになにもって?」

 と、わたしは雪江の言っていることが上手く理解できなくて尋ね返した。

「だから、べつに用事はなにもないの。なんとなく暇だったから電話してみただけ」


「あのさぁ」

 用事もないのに電話してこないでよねとわたしが文句を言おうすると、それを遮るように、

「べつにいいでしょ?用事がなくて電話したって。電話代はわたしがもつんだし」

「そういう問題じゃないの。わたしだって忙しいんだからさ」


「忙しいってうそばっかり」

 雪江はわたしの言葉を全く信じていない、というか、むしろバカにしたように笑って言った。

「じゃあ、今何してたの?」

「色々考えごとしてたのよ。これからのこととか」

「やっぱり暇なんじゃん」

 雪江は笑って言った。

 

 だから、と、わたしは抗議しようとしたけれど、でも、結局面倒になって口にしようとした科白を飲み込んだ。

「で、何考えてたの?」

 と、雪江は気を取り直したように尋ねて来た。

「何って?」

 と、わたしが訊きかえすと、

「だから、考え事って何を考えてたの?」

 と、雪江はなんでそんなこともわかないのだというように言った。


「うん?それはまあ、あれだよ。色々だよ」

 わたしはさっきまで考えていたことを正直に話すのが格好悪い気がしたので、というか、照れ臭かったので、返事を濁した。

「なによ。色々って」

 でも、雪江はなぜかしつこく食い下がってきた。わたしはちょっと躊躇ってから、さっきまで考えていたことを話してきかせた。すると、雪江はわたしの言葉に愉快そうにクスクス笑った。


「やっぱりあんたなんかに話さなきゃよかった」

 わたしは大いに気分を害して言った。

「ごめん。ごめん」

 雪江はいまひとつ誠実さに欠ける口調で言うと、

「でも、あんたがそんなこと考えたりするなんてちょっと意外だったからさぁ」

 と、弁解するように続けて言った。


 わたしはケータイを手にしていた右手が疲れてきたので、左手に持ちかえた。


「うん、でもさぁ、やっぱりそうこと考えるよね」

 と、雪江は数秒黙っていてから、口を開くと言った。

「将来のこと考えると、どうしたらいいんだろうって暗い気持ちになっちゃう」


「雪江もやっぱそういうこと考えたりするんだ」

 わたしは感心して言った。雪江は昔からカフェとかコーヒーが好きな娘だったので、今の仕事に満足していて、特に不安とかそういうものもないのだろうと勝手に思い込んでいたのだ。

「そりゃあ、考えるよ。わたしだって。ずっとフリーターっていうわけにもいかないなぁって」

 雪江はわたしの科白に心外だというように少し声を尖らせて言った。


「スターバックの社員になっちゃえば?」

 わたしは適当に思いついたことを言った。

「それも考えたんだけどね」

 と、雪江はため息交じりに言った。


「でも、正社員のひとは大変そうなのよねぇ。やっぱり。義務とか目標とかあって。売り上げのこと常に気にしてなくちゃいけないし。そういうの見てるとねぇ、ただコーヒーが好きっていう気持ちだけじゃ働けないなぁって思っちゃって」

「なるほどねぇ」

 わたしは相槌を打った。雪江が口にした言葉が黒くて重い液体になって心のなかに沈んでくるような感覚があった。


「いっそ、自分でお店開くか」

 雪江はふざけたような口調で言った。

「それだったら、自分のペースで働けるし、義務とか目標もないし、楽しいかも」

「って、そう上手くいくわけもないか」

 雪江は自分で言っておいて自分の意見を否定した。


「まず、そのお店を開くお金はどうするんだって話よね?」

「うーん、とりあえずどっか就職してそれでボーナスとかでお金貯めてそれを頭金とかにして借金してとか」

「考えただけでも、気が遠くなるね」

 雪江はうんざりとしたように言った。


 少しの沈黙があって、行き場のない想いが沈黙のなかを綿ボコリのような塊になって宙を漂っている気がした。


「でもさ、そういうのっていいかもね」

 わたしはいくらかの沈黙のあとで気を取り直して言った。

「そういう自分でお店開くみたいなの。きっと大変だろうけど、誰かに命令とかされるわけじゃないから、なんか頑張れそうな気がする」

 わたしは自分でお店を経営しているところを想像して楽しい気分になって言った。


「じゃあ、わたしと一緒にお店やる?」

 と、雪江は悪戯っぽい口調で言った。

「わたしが店長で、あんたは従業員」

「なんで雪江が店長なのよ」

 と、わたしは文句を言った。すると、雪江は可笑しそうに小さく笑って、それから、

「まあ、でも、なかなか難しいよね」

 と、急に落ち込んだような声で言った。

「まあね」

 と、わたしは認めた。


「少なくともそのためには色々準備しなくちゃね。生半可な気持ちじゃできないことだと思う。ちゃんとそれなりの計画とかそういうのがないと」

「うん」

 と、雪江はわかっているというふうにただ頷いた。


 またいくらかの沈黙があった。会話が出口を見失って壁にぶつかってしまっている感じ。それはわたしたちの現実みたいだ。


「ねえ、明日暇?」

 と、雪江は出口を見出すことを放棄しように、沈黙のあとで口を開くと言った。

「うん、明日は休みだよ」

 と、わたしは簡単に答えた。


「残念ながら、デートに誘ってくれるひともいないしね」

 わたしはふざけて言った。そしてふざけて言ったのに、少し、寂しい気持ちにもなった。心に冷たい水の雫が染みこんでいくような感じ。今見えている視界に重なるよう昔好きだったひとの顔が浮かんで、でも、すぐ消えた。


「仕方ないな。じゃあ、わたしがデートに誘ってあげる」

「なによ。それ?」

「わたしとデートじゃ不満なわけ?」

 雪江は言ってから小さく笑った。


「わかった。しょうがないな。雪江で我慢しとくか」

 わたしも笑って言った。

「我慢ってどういう意味よ?」

 わたしは雪江の不満そうな声が可笑しかったのでまた少し笑った。つられるようにして雪江も軽く笑った。


「でも、ほんとうに良かったら明日どこかに行かない?」

 雪江は笑い終えると、改まった口調で言った。

「映画とか観て、そのあとご飯でも行こうよ」

「うん。いいよ。でも、今何か面白そうな映画あったけ?」

「わかんないけど、何か探しとく」

「うん」

 と、わたしは頷いた。


「じゃあ、そうだな、明日十時に新宿待ち合わせで」

「了解」

「じゃあ、また明日ね」

「はーい」

 電話を切ったあと、わたしはなんとなく真っ暗になったケータイのディスプレイを眺めた。





 次の日、雪江と新宿で待ち合わせて観にいった映画は、ミニシアター系の映画だった。わたしはどちらかというとハリウッド系のわかりやすい映画が好きなのだけれど、雪江はあんまりそういうのが好きじゃないので、雪江と観にいくときはだいたいミニシアター系の映画を観に行くことになる。


 観た映画は淡々とした静かな映画で、ところどころ眠くなったりもするのだけれど、でも、総体としての感想は悪くなかった。面白かった!というような爽快感はないのだけれど、映画を観たなぁというどこかじんわりとした達成感がある。意識のなかに映画の内容が淡く溶けていつまでも余韻を持って留まり続けている、そんな感覚がある。水気を帯びたような色彩のせいか、観終わったあと、なんとなくもの哀しい印象が残った。


 映画館を出ると、デパートの屋上に上って、適当なレストランに入った。入ったレストランは時間帯のせいか、比較的空いていて、わたしたちは窓際の席に向かい合わせに腰かけた。窓からは新宿の街並みを臨むことができた。夏で調子に乗った太陽がいやがらせのように街をその派手な光で照りつけていた。


 レストランではわたしも雪江もオムライスを注文した。空いているせいか、注文した料理はすぐに運ばれてきて、わたしたちは料理を口に運びながら、映画の感想を思いつくままに語った。雪江はさっき観た映画が気に入ったようで、DVDが出たら絶対買うと興奮気味に語っていた。


「もう夏も終わりだね」

 一通り映画について語りつくしたあとで、雪江は頬杖をついて窓の外に視線を向けると、ポツリと言った。そう言った彼女の声はどことなく寂しそうにも響いた。わたしは雪江の声に誘われるようにして窓の外に視線を向けてみた。


「でも、まだまだ暑そうだけど」

 わたしは思ったことを口に出した。


「うん、そうだけど、でも、ちょっとね、光の色が違うなぁって思う」

 雪江は頬杖をついたまま、どこかもぞもぞとした声で言った。


「夏がはじまったばかりの頃ってね、光に勢いがあって、すごく透き通ってるの。でも、今ぐらいの時期になってくると、その光に陰りがでてきて、そうだなぁ、光の色がどこか黄色ぽくなってきて、ああ、もうすぐ夏が終わっちゃうんだなぁって思う」


 言われてみると、町を照らす太陽の光の色は微かに黄色の色素を帯びて見える気がした。なんとなく喪失感を感じさせる色彩。


「雅子は季節のなかでどの季節が一番好き?」

 雪江は窓の外に向けていた視線をわたしの顔に戻すと言った。

「うーん。どうだろう。秋も嫌いじゃないけど」

 わたしは返答に困って言った。


「秋は一年のなかで一番美しい季節よね」

 と、雪江は記憶のなかの秋の情景を思い起こしているのか、微かに目を細めて言った。それから、

「でも、わたしは夏が一番好きだなぁ」

 と、雪江はこれから訪れようとしている秋に対して不満を抱いているように軽く唇を膨らませて言った。


「夏って暑くって過ごしにくいんだけど、子供の頃の夏休みのイメージのせいかな、これから楽しいことがたくさんありそうってわくわくする。だからわたしは夏が好き」


「そういう感じはわかるな」

 わたしは雪江の科白に小さく笑って言った。

「花火とかお祭りとか海水浴とか」

「うん」

 と、雪江はわたしの言葉に楽しそうな表情で頷いた。


「雪江は今年はどこか行った?花火とか、お祭りとか、そういうの」

 雪江はわたしの問に、頬杖をつくのをやめると、小さく首を左右に振った。それから、テーブルの上のお冷を手に取って一口飲んだ。


「ほんとうはお盆に友達と泊りがけで海水浴に行こうって話してたんだけど、でも、急に友達に予定がはいっちゃって、それで流れちゃったの」

 雪江は手にしていたお冷をテーブルのうえに戻すと、軽く顔を俯けて、しょんぼりした表情で言った。


「そっか。それは残念だったね」

 わたしは返答に困って曖昧な笑顔で言った。


「雅子は?今年はなにかやった?」

 雪江は俯けていた顔をあげてわたしの顔を見ると、尋ねてきた。

「わたしも似たようなもんだよ」

 わたしは苦笑して言った。


「強いていえば、お盆で実家に帰ったときに、地元の友達と海行ったくらいかな」

 言いながら、わたしは加藤くんの顔を思い浮かべていた。加藤くんというのは、わたしの高校時代の友達で、高校を卒業してからも、地元に帰ったときに他の友達と一緒に遊んでいる。実を言うと、わたしは高校の頃から密かに加藤くんに憧れている。


 でも、自分の気持ちを伝えたことはない。というのも、加藤くんがわたしに興味を持っていないことがわかっているからだ。それもわかりすぎるくらいはっきりと。加藤くんのことを忘れようと思って、告白してくれた他の男の子と付き合ってみたりしたこともあるけど、でも、だめだった。いつも頭の片隅に加藤くんのことがひっかかっていて、そのとき自分に好意を寄せてくれたひとの気持ちにちゃんと応えることができないのだ。


 そのせいか、わたしの恋愛は必ずといっていいほど短命に終わる。わたしの方から別れを切り出すこともあるけれど、でも大抵は相手の方から離れていく。わたしの気持ちがどこか他の場所にあることを察したように。いつか、もし、奇跡みたいなことがあって、加藤くんと付き合えるようなことがあったらいいなと夢想するけれど、でも、そんなことは決して起こらないだろうとちゃんと理解している。


「もしかして例の片思いのひとのことを考えてた?」

 わたしが黙っていると、雪江はわたしの顔を見て、悪戯っぽく笑って言った。

「どうしてわかったの?」

 わたしは驚いて言った。いつだったか、確か短大の頃だったと思うのだけれど、恋愛の話をしたことがあって、そのときに加藤くんのことは雪江には話してあった。


「あんたの考えてそうなことはだいたいわかるよ」

 雪江は笑って言った。

「考えてることが表情にでるからわかりやすい」


「そうなかなぁ」

 わたしは軽く首を傾げて言った。


「地元に帰ったときにその片思いしているひとにあったんだ?」

 雪江はニヤニヤしながら話しの続きを促した。

 わたしはそうだというように頷いてみせた。


「それで?今回はちゃんと自分の気持ちを伝えたの?」

「そんなことできるわけないじゃない」

 わたしは軽く頬をふくらませて言った。

わたしは知ってると思うけど、小心者なんだから、そんなことできわけないでしょ。第一、相手にされてないってわかってるのに、そんなこと言えないし」


「でも、いつまでもずっと片思いしてるってわけにもいかないでしょ?だめもと告白してみればいいじゃない?そうすればどちらにしてもすっきりすると思うし」


「それはそうなんだけどさぁ」

 わたしは逃げるように返事を濁してから、テーブルの上のお冷を手に取って一口飲んだ。


 わたしは怖かった。振られてしまうのが。現実を突きつられるのが。そしてなにより、告白することで気まずくなって、これからもう加藤くんに会えなくなってしまうことが、辛かった。それだったらずっとこのまま友達で、それで地元に帰ったときにたまに会って話ができればいいのかな、なんて、そんなふうにも思う。


「わたしはやっぱりちゃんと気持ちを伝えた方がいいと思うけどね」

 雪江はわたしに言い聞かせるように言った。

「そうじゃないと、なかなか前に進めないんじゃない?」


「・・・うん」

 と、わたしはテーブルの上に視線を落として、ただ頷いた。


「・・・まあ、でも、なかなかほんとうに好きなひととは付き合えないものよねぇ」

 雪江はわたしを説得することを諦めたのか、嘆息するように言った。

 わたしは伏せていた顔をあげて、雪江の顔を見た。

「わたしもほんとうに心の底から好きだっていうひとと付き合えたことはないもんなぁ」

 と、雪江はうんざりした表情で言った。


「じゃあ、雪江は今の彼氏のこと好きじゃないの?」

 雪江には付き合っている同い年の恋人がいる。わたしも一度会ったことがあるけれど、背が高くて、なかなかハンサムなひとだった。


「隆志のことは好きだよ。ちゃんと」

 雪江はなんとなく難しい表情で言った。

「ちゃんと好きだけど、でも、ほんとうの意味で好きっていうのは違うのよね」

 と、雪江は付け足して言った。


「どういうこと?」

 わたしは雪江の言っていることの意味がよくわからなかったので質問した。すると、雪江は眉間に軽く皺を寄せて、


「つまり、わたしも昔あんたと同じようにすごく好きで片思いのひとがいたんだけど、でも、そういう心の底から好きで好きでたまらないっていうひととはなかなか両想いにはなれないってこと。


 隆志みたいになんとなくフィーリングがあっていいなぁって思うひとと両想いになれることはあっても、心の底から求めているひとにはなかなか手が届かないなぁって思って」


「なるほどね」

 わたしは感心して頷いた。確かにそういうことはあるのかもしれない。わたしは過去に付き合った恋人の顔を思い浮かべた。わたしは彼等のことが決して嫌いだったわけじゃない。というか、好きだった。ただ熱烈に好きというところまでいかなかっただけだ。


「もしかして人生ってさ」

 雪江はわたしが考え事をしていると、口を開いて続けて言った。わたしは雪江の顔に注意を戻した。

「自分がほんとうに求めているものは遠泳に手に入らないようにできてるのかもね」


「つまりね」

 と、雪江は続けて言った。

「二番目とか三番目くらいに求めているものって頑張れば手にすることができるんだけど、でも、自分がほんとうに心の底から求めているものは絶対に手に入らないようにできてるんじゃないかって」


「なんだかそれって何かの呪いみたいで怖いね」

 わたしは笑って茶化して言った。でも、雪江は

「でも、そうなんだよ。きっと」

 と、いたって真剣な口調で言った。何か人生の恐ろしい真実でも発見してしまったとでもいうようなちょっと深刻な表情で。


「だって、考えてみると、そうだもん。わたしがほんとうに好きなひとはいつもわたしのことを見てくれないし、ほんとうに行きたい大学には入れないし。だから、そうなんだよ」

 雪江は自分で言って自分で納得した。


「・・・まあ、確かにそういう部分もなくはないのかな」

 わたしは自分の人生を振り返ってみた。そしてそうかもしれないなぁと心のなかでため息をついた。過去の、人生の叶わなかったり、諦めたり、手放したりしたりした記憶が心のなかに苦い液体のように染み出してきた。そしてまた加藤くんのことを思い出した。


「人生って基本的には大変なことだったり、上手くいかないことの連続でできてる気がする」

 雪江は再び頬杖をつくと、何か考え込んでいる表情で言った。

「そしてそればっかりじゃ辛いから、ときどき楽しいこととか、嬉しいことがあったするんだけど、でも、それはフェイクで、人生の真実は実はそういう辛いことの連続だという気がするな」


「今日の雪江はなんだか理屈ぽくてネガティブだね」

 わたしはちょっと笑ってからかうように言った。すると、雪江は苦笑するように口元を綻ばせて、それから、

「あの映画のせいかなぁ」

 と、いいわけするように言った。

「今日観た映画」


「まあ、確かにあの映画はちょっと暗かったかな」

 わたしは小さく笑って相槌を打った。

 

 映画の主人公は四十代の男のひとで、画家としてそれなりに成功している。彼は結婚していて、奥さんとふたりきりで生活している。子供はいない。一度だけ子供を授かったこともあるのだけれど、でも、その子供は先天的な病気のせいで生まれてすぐに亡くなってしまった。


 それから何度か子供を作ろうしたけれど、結局上手くいかなかった。子供を病気で亡くしてから、徐々に夫婦間の関係は崩れはじめる。妻はいつまでたっても失くした子供のことをひきずっていて、主人公の男のひとはそんな妻の姿が見ていられなくて、そんな妻のことを忘れようとするように、仕事に没頭するようになる。


 そして、ある日、彼の奥さんは何も言わずに、置手紙だけを残して、家を出て行ってしまう。長い夫とのすれ違いの生活のなかで、奥さんには他に好きなひとができてしまったのだ。


 主人公の男のひとは奥さんを失ってみてはじめて気がつく。自分が奥さんを心の底から愛していたということに。彼は奥さんに戻ってきて欲しいと思う。けれど、でも、自分が妻にしてきたことを考えて、そのままにしておく。悪いのは自分なのだと彼は自分を責める。子供を亡くして落ち込んでいる奥さんとちゃんと向き合ってこなかったのだから、と。だから、せめてもの償いとして、奥さんのしたいようにさせるべきなんじゃないのか、と。


 そしてそれから彼は考える。奥さんとはじめて知り合ったときのことを。


 奥さんと知り合ったのは大学だった。奥さんも彼と同じように若い頃は画家になることを志していた。奥さんの自分を見つめる、あの優しい表情。彼はふと思いつく。奥さんを絵に描いてみよう、と。彼はこれまで奥さんを絵に描いたことはなかった。


 それから、彼は寝食も忘れて妻の絵を描くことに集中するようになる。

 

 絵を描くことは思ったほど簡単ではなかった。


 どうしても奥さんの顔を思うように描くことができないのだ。奥さんの笑った顔を描きたいと思うのに、どうしてもそれは泣き出しそうな表情か、もしくは悲しみを堪えているような表情になってしまう。絵を描きはじめから一年が経ち、二年が経っても、絵は完成しなかった。


 絵を完成させることを半ば諦めた彼はある日町を歩いていて、偶然奥さんの姿を見かける。その日は日曜日で町は混雑していて、奥さんは彼の進行方向とは反対方向から歩いてきた。奥さんは彼の姿には全く気がついていない様子だった。でも、彼にはちゃんとわかった。それが奥さんであるというが。奥さんは彼の知らない男のひとと腕を組んで歩いていた。その奥さんの表情はくつろいだ、とても楽しそうな表情をしていた。それはまさしく彼が絵のなかに描きたいと思っていた奥さんの表情だった。


 その日、家に帰った彼はやっと絵を完成させることができる。絵のなかで、奥さんはかつてのように優しく微笑みかけていて、そのことが、彼にとってはどうしようもなく哀しく感じられた。




雪江と別れて家に帰ると、もう時刻は夜の七時を過ぎていた。家に帰ると、すぐにお風呂に入った。それから、夕食を作る。夕食は昨日炊いたご飯の残りがあったので、それでチャーハンを作った。そしてその出来上がったチャーハンを食べながらテレビのバラエティ番組を観た。どうしてもその番組が観たいというよりかはなんだかひとの話声を聞いていたいから点けているという感じ。


 ご飯を食べ終わって片付けを終えると、時刻は九時を過ぎていて、すぐそこまで明日が迫ってきているんだという圧迫感を感じて、嫌になる。明日はまた朝からバイトだ。面倒臭いなぁと憂鬱になる。行ってしまえばそうでもないのだけれど。


 寝るにはまだ早いし、何をしようかなと思って、本棚おいてある漫画の本を手にとって少し読んだ。その漫画の本はかなりお気に入りでもう何度も読み返している。でも、さすがに何度も読み返し過ぎたのか、今日は退屈に感じてしまった。というより、明日は仕事なんだと思うとなんだか落ちかなくて、漫画に気持ちを集中させることができない。


 カーテンをあけて外を覗いてみると、月が空の高い場所に見えた。半透明の淡い黄色の光を放つ、静かで優しい感じのする三日月だった。雪江は今頃何をしているのかな、と、ふと思った。そしてそれから、今日観にいった映画のことを少し考えた。男のひとが描いた奥さんの絵。そして男のひとが失ってしまったもの。


 映画のことを考えると、一滴の青灰色の絵の具を混ぜたように心が淡く曇った。心のなかにできた淡い靄はたちまち姿を変えて加藤くんの形を取った。加藤くん、か、と、心のなかでため息をついた。


 わたしがもしももっと美人で魅力的だったら、加藤くんはわたしのことを好きになってくれただろうか。なんだか、わたしがわたしであることが哀しかった。わたしがわたしじゃなかったら良かったのに。心に微かに甘さを含んだ、でも、鋭い痛みが走る。わたしは机のうえにおいてあったケータイを手に取った。


 突発的に加藤くんに対する未練の気持ちが強まって、一瞬このまま電話をかけてしまおうかと考えた。でも、電話してなんといえばいいのだろう?いや、そんなことはどうでも良い。電話してしまえばなんとかなるじゃないか。そう考えて、アドレス帳から加藤くん電話番号を呼び出して、あとは電話をかけるだけ、というところまでいって、でも、できなかった。怖くて、どうしても、発信のボタンを押すことができなかった。


 真っ暗なディスプレを眺めて、だめだな、わたしは、と、今更のように痛感した。そして痛感したところにケータイ電話の着信音が鳴った。加藤くんのことを考えていたので、もしかしたら加藤くんから電話がかかってきたのかもしれないと期待したけれど、でも、それは違って、雪江からの電話だった。


「もしもし」

 わたしは電話に出ると言った。

「なんたが浮かない声ね」

 雪江はわたしが電話に出ると何かが可笑しいという口調で言った。


「どうしたの?」

 わたしは用件を尋ねた。

「いや、べつに用ってほどのことでもないんだけどね」

 と、雪江は答えた。

「今日会ったときに前借りてたCD返そうと思ってたんだけど、でも、忘れちゃって、今度必ず返すから、ごめんね」

「ああ、それならいつでもいいよ」


「でも、このCDに入ってる曲、すごくいいよね」

 雪江はほんとうにそう思っているようにしみじみとした口調で言った。雪江に貸したそのCDはわたしのお気に入りのCDで、昔加藤くんにも貸したことがあった。今日はやたらと加藤くんのことを考えてしまうなぁと心のなかで苦笑した。加藤くんもいい曲だねと褒めてくれて、それが嬉しかったことを思い出した。


「すごく優しい歌だよね」

 と、雪江はわたしが考え事をしていると続けて言った。

「そうだね」

 と、わたしは同意した。


 歌を歌っているのは、メアリー・ロレンスというイギリス人の歌手だ。彼女は幼い頃に父親を病気で失っている。それから彼女は母親に女手ひとつで育てられる。彼女の母親はピアノの先生をしていて、その母親の影響を受けて彼女は音楽に興味を持つようになる。


 彼女には五つ年上の兄がいて、高校を卒業してからはその兄と一緒に音楽活動をするようになる。でもその兄は、彼女が二十二歳のときに交通事故で亡くなってしまう。兄が亡くなってからも彼女はひとりで音楽活動を続ける。そして二十六歳のときに、CDデビューを果たす。現在、彼女は三十二歳で、自分をデビューさせてくれたプロデューサーと結婚して、一女をもうけている。


 彼女の歌声は透明感があって綺麗だ。まるで海の青を連想をさせるかのような声。彼女の歌う歌は静かで繊細で、どちらかという哀しい感じのものが多い。それはきっと彼女がその人生において色んなものを失ってきたからだろう。


 彼女の歌声を聞いていると、過去の色んな日々のことを思い出す。そしてそれらは大抵何かを失ったり、諦めたり、傷ついたりした記憶であることが多い。でも、彼女の歌声はそんな傷を負った記憶たちを優しく慰撫してくれる。たとえば木々の葉の隙間をすり抜けて届くやわらな木漏れ日の光のようにそっと。波打ち際に穏やかに広がっていく淡いブルーの水みたいに。


「この曲を聞いてて、ちょっと思い出したことがあって」

 と、雪江は言った。

「うん」

 と、わたしは相槌を打った。

「中学校のときのことなんだけど」

「うん」


「友達がいたの。すごく仲良しの。たぶん親友って呼んでもいいくらいの」

「そうなんだ」

「で、その娘がね、ギターを弾いてたの。将来はミュージシャンになりたいって」


「へー。すごいね」

 わたしの周りの友達には今までミュージシャンを目指したりするような娘はいなかったので珍しく感じた。


「その娘、歌もすごく上手いのよ。その娘と一緒によくカラオケ行ったんだけど、わたし自分で歌うよりもその娘が歌のを聞いている方が好きだったな」

「そんなに上手なんだ」

 わたしは感心して言った。

「まあ、シンガーソングライター目指すくらいだからね」

 雪江は小さく笑って言った。


「で、あるときね」

 雪江は真面目な口調に戻って言った。

「その娘に頼まれたの。歌詞を書いてくれないかって。今度の学園祭で自分で作った曲を披露しようと思ってるんだけど、その歌詞を書いて欲しいって」


「雪江、歌詞なんて書けるんだ」

 わたしは軽く驚いて言った。

「書けるわけないじゃない」

 雪江は苦笑して言った。


「書けるわけないし、実際にわたしには無理だってその娘にも言ったんだけどね、でも、その娘がそんなに難しく考えなくてもいいからって言って。わたしと一緒に何かがやりたいっていうから」


「それで引き受けることにしたんだ?」

「うん」 

 と、雪江はわたしが先を促すと頷いた。でも、その頷いた彼女の声は気のせいか、どこかぎこちなく響いた。


「その娘に歌詞を書いてきてって頼まれたのが確か七月の終わり頃だったと思う。夏休みに入る前くらい。文化祭が九月にあるから、それまで完成させようっていう話になって」

「で、その曲はなんとか完成したの?」

 わたしは気になって訊ねてみた。すると、電話の向こう側で雪江が微かに首を振った気配が伝わってきた。


「一応ね、曲は完成することはしたの。友達がギターで曲を作って、わたしが歌詞を書いて。でも、結局、その曲を文化祭で披露することはできなかったの」

 と、雪江は小さな声で言った。なんとなく哀しそうな声だった。

「どうして?」

 と、わたしは訊ねてみた。


「その娘がね、友達が、急に転校することになっちゃったのよ。その娘の両親が離婚することになって、その娘はお母さんの実家に行くことになって・・・だから」


「そっか」 

 わたしは答えようがなくてただ相槌を打った。


「引っ越しにする前にね、わたしその娘に会ったの。その娘はすごくわたしに謝ってくれた。約束守れなくてごめんねって。わたしの方から誘っておいてこんなことになってごめんって。べつにその娘は何も悪くないんだけどね」


 雪江はそこで言葉を区切ると、少しのあいだ黙っていた。わたしも彼女の言葉の続きを待って黙っていた。


「それで、最後、わたしたち、記念みたいな形で、近くのカラオケに行って、そこで自分たちが作った歌を歌ってMDに録音したの」

 いくらのか沈黙のあとあで雪江は再び口を開くと言った。

「録音が終わったときには夕方になってて、夏の終わりの夕暮れの空がすごく綺麗で、それでふたりで自転車に乗って家まて一緒に帰ったの」


「そっか」 

 と、わたしはただ頷いた。目を閉じると、そのとき雪江が目にしただろう風景が瞼の裏側に浮かぶような気がした。


「そのとき、すごく寂しかったなぁ」

 雪江はほんのたった今その友人と別れてきたかのような口ぶりで言った。

「そのとき録音したMDは今でも持ってるの?」

 わたしはふと思いついて訊ねてみた。すると、

「持ってるけど、どうして?」

 と、雪江はわたしの問いに怪訝そうな声を出した。


「今度貸してよ。わたしが今貸してるCD返すときにでも。雪江が書いた歌詞がどんなのか聞いてみたいし」

「えー。嫌だよ」

 雪江はわたしの科白に笑って答えた。

「だって恥ずかしいし」

「いいじゃない。どうせ最初から期待してないし」

 わたしは悪戯ぽく笑って言った。

「はあ?なによそれ?」

 と、雪江もふざけて言って少し笑った。



 雪江と電話を終えてケータイを机の上に置くと、時刻はもう既に夜の十時半を回っていた。

 

 明日は朝早いし、今日はもう寝てしまおう、と、決めた。

 

 洗面所に行って歯を磨く。そして部屋の電気を消してベッドに横になる。


 閉めたはずのカーテンがちゃんと閉まり切れていなくて、カーテンの隙間から夜空が見えた。月の光が明るくて夜空は黒というよりは内側からぼんやりと光るような濃い青色をしていた。


 わたしはしばらくのあいだそんな月の光に照らされた夜空を眺めていた。その夜の空を見ていると、心なかにいつくもの想いが泡のように生まれてはひとつの形になるまえにはじけて消えていった。透き通った月の光が心にひりひりと染みるような感覚があった。


 目を閉じても、思うように眠りは訪れなかった。瞼の内側に見える暗闇のなかに思考は様々な模様を描いていった。それは将来に対する漠然とした不安であったり、加藤くんに対するどうしようもない想いだったりした。


 やがて加藤くんに対する未練の気持ちに吸い寄せられるように頭のなかにひとつの音楽が流れはじめて、わたしは思考のなかに聞こえる歌声に耳を澄ませた。それはわたしが好きで何度も聞いているメアリー・ロレンスの歌だった。メアリー・ロレンスはその秋の最初に吹き渡る風のような透明な歌声で再会を願う歌を歌っていた。


 目を閉じて耳を澄ませると聞こえてくるの

 そのあなたの優しい歌声が

 あなたの姿を目で見て確認することはできないけれど

 でもちゃんとわたしは感じることができる

 あなたの暖かい眼差しや明るい笑い声を

 ちょっとした風の動きや木々の葉のやわらかなざわめきのなかに

 夜空を照らす明るい月の光やなんでもない町の喧噪のなかに



 そういえば、雪江の友達は今頃どうしているのだろうな、と、わたしはふと考えた。雪江と一緒に文化祭で歌を歌うはずだった友達。そして雪江と友達が最後に自転車に乗って帰るときに見たという夕暮れの空。


 なんとなく、彼女は今もどこかで歌を歌い続けているんじゃないかという気がした。そしてそれは恐らく、恋とか愛の曲ではなくて、友達のことを思う歌なんじゃないかという気がした。昼間の明るい太陽の光のような。


 どこからともなく日の光に暖められたような優しい声が聞こえてくるような気がした。わたしは意識のなかで膝を抱え、聞こえてくるその心地良い歌声に耳を澄ませた。すると、わたしの意識はその朗らかな歌声のなかに溶けるように消えていった。






 







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