二年目 舅姑が帰ってきましたわ!
結婚式から一年後。そろそろ結婚二周年。赤ちゃんはまだ生まれない。そういうことだ、察して。
私は今日も朝の五時に目を覚ました。
「今日もいい天気ィ~~~~」
と言ってうんっと伸びをする、この瞬間はいつも気持ちいい。
その日の朝も、いつもと変わらない一日のはずだった。起きてすぐ、綺麗なドレスに着替えて庭を散歩して、朝食を済ませ、執務室へ向かう。涼しいうちにチャッチャと仕事を終わらせちゃう方があとあとだらだらできるので好きだ。
執務机の上、領地から届いた決算書類を前に気合を入れる。家令のジョナサンがあれこれと説明してくれるので、決断に不自由しない。まあ、下から上がってきたものを確認して承認するだけっちゃだけの仕事だもんね。
「こちら、先月分の収支でございます」
「ありがとう。……あら、こちらの支出は少し増えているわね」
「はい。冬に向けての備蓄分かと」
「では昨年と比較してみましょう。必要な増加なら問題ないけれど、そうでないなら見直したいわ」
「かしこまりました」
ふう。私は椅子の背にもたれ、開け放った窓から外の景色を眺めた。今日もいい天気だ。庭からは花々の芳香が漂ってくる。あとでちょっと薔薇園に行こう。最初は迷惑そうにしていた庭師のおじさんたちも、最近は私が顔を見せるとこんにちは奥様、って笑ってくれるようになった。
リンジー家は本当にいいところだ。ここが――私の居場所だ。失いたくない。だから今日も働くのだ。
「奥様、ではこちらを……」
「はいはい」
書類にサインをして、家紋の印鑑を捺して、あれこれしていたときだった。
慌ただしいノックの後にメイドの一人が部屋に飛び込んできて、身を屈める礼もそこそこに叫んだ。
「奥様、奥様、ああ――なんと申し上げたらいいか」
「どうしたの?」
「ご隠居様方がお戻りでございます」
私と家令は顔を見合わせた。
ご隠居様。つまり、夫エディの父親ヒルデン・リンジーと母親アンナマリア・リンジー……私の舅と姑である。
ちょっと心臓が変な音を立てた。あ、あの二人が。
思わず家令に確認しつつ立ち上がる。
「お舅様とお姑様、世界一周旅行中だったわよね?」
「はい」
「帰宅予定日は半年くらい先だったわよね?」
「はい。確かにそう伺っておりました……」
私は窓の外を見た。屋敷の正門の方が何やら騒がしい。ガタゴトと八頭立ての馬車が近づいてくる独特の音と地鳴りがする。それも一台じゃない、何台も何代も。
そうとも、リンジー家は侯爵家だから、旅行するといったって夫婦二人だけでいくわけじゃない。十台くらいの馬車にあれこれと荷物を積み上げ、使用人も三十人くらい引き連れての華やかなご出立だったのだ、うん。
私は額を指先で抑えた。あちゃー。
「……本当に帰ってきたのね」
「そのようでございます」
「まずはお出迎えに上がります」
「かしこまりました」
……知ってたらエディを引き留めて屋敷に置いといたよ!
いや、あいつは逃げたかも。でも一応引き留めた実績は作っといたよ!
しまった、ヤバイ、やらかした。ううう。
でも今更仕方ない。
私たちは玄関ホールへ急いだ。侍従たちは四人がかりになって、自分の身長の二倍以上ある大扉を必死で開く。正門から続くこの玄関は滅多に使われることはない。パーティーでたくさんの客人を迎えるときだとか、今のように――主一家が帰還するときだとかにのみ使用される儀礼上大事な玄関である。
玄関前のステップに私は佇み、続々と車寄せに入ってくる巨大な馬車の群れを見つめた。使用人たちも仕事の手を止めて駆け出してきては、私の左右に別れ整列していく。
そうして最初の馬車の中から、その人たちが降り立った。侍従に先導させ、顎を上げ姿勢も正しく、まさしく貴族然として。
「お帰りなさいませ、お舅様、お姑様。長旅お疲れ様でございました」
私はドレスの裾を持ち上げ、侯爵夫人として頭を下げた。
朝の光がさんさんと差し込んでいる。威風堂々と現れた舅姑は、さながら生きる彫刻のようだった。
「やあ、シャーロット!」
舅が嬉しそうに笑った。もうとっくに壮年なのに背筋はピンと伸びている。銀混じりの髪、いかにも人のよさそうな穏やかな顔。
そしてその後ろに続く女性が一人。私の微笑みもピンと引き攣る。ひ、ひえ。出た。
夫同様白いものが混じっているが、まだ黒に近い艶やかなまとめ髪。少しばかり皺が入った、けれど年齢を感じさせない美貌。きりりとした目元は見るからに気が強そうで、いや、実際気が強い。
二人とも最後に会ったときと、何も変わっていない。
舅はまるで散歩の途中に行き合ったような気安さで私に近づいてきた。ステッキをふりふり、挨拶のため差し出した手に口づける動作は堂に入っている。
「久しぶりだね。元気だったかい?」
「はい。おかげさまでございます」
「それはよかったねえ」
舅は優しく微笑んだ。
で、問題はその隣。私はおずおずと姑に向き直る。ああああこのドレス気に入らないって顔だあ。しまった、緑色お嫌いなんだったわこの人。
彼女の鋭い視線が私をじいっと観察する。頭の先から、つま先まで。
私は必死に微笑みを保った。
姑――アンナマリア侯爵夫人。由緒正しい伯爵家から大人しいばかりのヒルデン・リンジーの元へ嫁いできたという経緯がある女性で、非常に美しく、非常に気が強い。
私は十一歳でエディの婚約者として内定してから、毎日のように彼女の元に参上しては色々なことを教えてもらっていた。領地管理のための経理から歩き方、言葉遣いに至るまで。それはそれは厳しかった、が得るものも多い授業だった。――エディにとっては、自分の母親にやり込められている私の姿を見るのは小さな娯楽だったようだが。
姑は昔から間違ったことを一切言わない。言葉は遠慮がなく痛いところを突いてくるし、悔しい思いもたくさんしたけれど反論できたためしがなかった。
彼女の言うことは、全部正しいからだ。
「……ふうん」
姑はようやくかすかな笑みらしきものを唇の端に浮かべる。ビグッ、と勝手に背骨が反応するのはもう条件反射だ。かんべんしてもらいたい。
「お元気そうね、シャーロット」
「ありがとうございます。お義母様もお元気そうで……」
「太った?」
んぎゅ。
私は黙った。そ、そりゃ。いいもの食べてぐうたらしてるから、うん、もごもご。
「体型管理も貴婦人の務めの内ですよ」
「――はい。申し訳ございません」
舅がわははと笑った。姑にこんな声音で声を掛けられるのはこの世でこの人だけだ。
「アンナマリア、久しぶりに会った嫁に最初に言うことがそれかい?」
「事実でしょうに」
姑は私を見、てっきり怒られると思ったけれど表情を柔和にする。
「健康そうで結構」
「あ、ありがとうございます」
へ、へへ。怒られなかった。ラッキー。
さて、その日の夕食は久しぶりに豪勢なものになった。
舅母は礼儀正しく、食事の間に深刻な話はしない。
代わりに旅の話をしてくれた。北の草原、南の島、砂漠、火山、大きな港。踊り子の娘たち、音楽を奏でる銀の笛。異国の市場、珍しい料理。お土産の大きな果物がデザートに出てきて、年甲斐もなくはしゃいでしまった。すごくおいしかった。
ということで。食事も終わり、私も夜会用のちゃんとしたドレスを脱いで、寝間着を着る前の時間に着用する室内着を着て。
事情聴取が始まった。舅姑が陣取る客間の暖炉の前の椅子で、私はちょっぴりだけブランデーを入れたホットミルクを飲む。舅はコニャック、姑はブランデーを嗜む。お酒が強いのも、エディに遺伝したのだろうなあ。
姑は豪奢な室内着の膝の上に危なげなくお酒のグラスを置いた。青い目に射貫かれ私は緊張する。
「では、シャーロット」
「……はい」
この流れはとうとう怒られる、メアリーの件くらい自力で片付けなさいとかって。と思って身を固くしていると、思ったより穏やかな声が降りかかる。
「この一年、どうしていたの?」
「この一年ですか?」
「ええ」
「普通に暮らしておりました」
「普通?」
「侯爵夫人として仕事を。と言っても現状維持が目的の帳簿仕事が主ですが。あとは社交をして、庭を整えて、お買い物をして……あ、友人たちを招いたり招かれたりなどいたしました」
「……」
「読書も致しました!」
勉強してます、してます。サボッてないですと必死にアピール。
姑はサイドテーブルへグラスを置いた。
「家の手入れはきちんと指示していたようね。埃はどこにも溜まっていなかったわ」
「は、はい。一通り」
「領地の利回りは順調? 困っていること、他人の意見が必要なことはなくて?」
私は少し考え込む。
「最近、少しばかり土の疲れが気にかかります。農夫たちはよくやってくれておりますが、収穫高がやや落ちております。一度徴税の手を緩め、土地を休ませる必要があるかと」
「他には?」
「商人たちが関税の値下げを要求しております。――その、エディ様にご相談申し上げましたが、商売の方がお忙しいとのことで、未だ明確なご返答をいただけておりません」
言っちゃった。エディとうまくいってませんと白状したようなものである。だが姑は怒らなかったし、もうすでに全部知っているのかもしれなかった。この家の若夫婦の現状について。
姑は舅を見やった。
気が付くと舅もこちらを見ていた。彼の目は灰色で、覗くと吸い込まれそうだ。
「シャーロット、君がそこまでリンジー家について考えてくれていたとは知らなかったよ」
「私も、最初はするつもりはありませんでした」
「ふむ。ではなぜ農地の土の状態を知るほどまで領地を見回り、商人の奏上を聞いた?」
「この家をきちんと維持したかったのでございます。――ここは、わたくしのおうちですもの」
にこ。思った以上に柔らかく舅姑は微笑んだ。そうしてみると、二人は長年一緒に過ごしたのだとよくわかる。雰囲気が似ていた。
姑が身を乗り出して尋ねた。
「この家が好きなの?」
「はい」
私はこくこく頷いた。手の中でホットミルクは徐々に冷えていたが、逆に冷静さを促してくれるようだった。
「とても好き。好きでございますわ」
「どうして?」
「快適だからです」
貧乏生活はもういやなのだ! 本音といえばそればかり。
姑はふっと笑って足を組み替えた。もうお年なのに鮮やかな動きである。
「あなたはこの家を守るためなら何でもする?」
「何でも――はできないかもしれません。でも、私にできることなら致しとうございます」
考え考え、言葉を口にする。かつてないほど脳味噌が回転していた。
「ここは本当によいところで、リンジー家に迎えられて幸せだと私は、私は幸せ者です。ですからご恩返しをさせていただきたいです」
はっきりと、二人の顔を見ながら言った。
舅は微笑み、コニャックに口をつける。姑のかたわらでグラスの中の丸い氷がカランと音を立てた。
姑は言った。
「それなら話は早いわ。明日、あなたの仕事を見せてちょうだい」
「私の……でございますか?」
「一年間、この家を任せていたんだもの。どんなふうにやっていたのか、見たいじゃない」
私は瞬きをする。そういうものだろうか。
「かしこまりましたわ」
それで、そういうことになった。
翌朝。
朝食を終えると、姑は執務室へ入ってきた。ここは本来なら当主の部屋である。かつては舅が、今はエディがいなければならない場所だ。しかしエディはこの頃、メアリーと住んでいる家か、リンジー侯爵家が持っているいくつかの会社にいて、この家にはパーティーがあるときくらいしか帰ってこない。
「見せて」
「こちらです」
私は帳簿を並べた。矢継ぎ早の質問が始まった。家令もいないので私は迅速に端的に、自分の言葉で答えなければならなかった。
「これは?」
「庭園の改修費です」
「随分使ったわね」
「はい」
「本当に必要だった?」
「はい」
「理由は?」
「排水が悪くなっておりました。排水管を取り替えましたのです。放っておくと根腐れが増えますから」
「なるほど」
はい次。……こんな調子である。
まるで彼女の生徒だったときに戻ったみたいだった。ううう、相変わらずうるさい。細かい。容赦ない。
けれど小気味良かった。厭味ったらしい口調ではなく、間違ったことも言っていない。彼女は――自分にも私にも厳しい。そのことがわかっていたから。
やがてすべてを調べ終えた姑は珍しくも微笑んだ。整った美貌に往年の麗しさが目覚める、そういう笑顔である。
「ちゃんとやっていたのね」
ちょっと動揺してしまった。こんな声で、こんな顔で、私を見るだなんて。
「あ、ありがとうございます」
「褒めたのよ」
「はい」
「もっと喜びなさい」
「……嬉しゅうございます、お義母様」
姑は大きな鼠を捉えた猫が満足に喉を鳴らすがごとく頷いた。
「エディが囲っている薄汚い雌鼠のことだけれど」
「はえ」
私はぽかんと口を開け、老いても華々しい美貌の人を見つめる。
「そんな下品なお言葉をお口になさるだなんて、びっくり致しました」
「ま、わたくしだって人間ですからね。愚息のやらかしには思うところもありますよ。――ヒルデンが今、あの子が建てた家に行っていますから」
「そ、それはお手数を……」
「父親ですもの。せめて説得くらいはやってもらうわ。わたくしたちはあの子の育て方を間違えました」
「そんな!」
ことは、ない。と思う。
舅は確かに穏やかでいつもニコニコした、いかにも坊ちゃん育ちの人である。それでも息子の教育には厳しかった、と思う。
姑は見掛けの通り苛烈な人だが、それでもエディのことを愛していた。
二人の間にはエディ以外子供がいない。一人息子が生まれてくるとき、とても難産で……エディは母親のお腹の中をぐちゃぐちゃにしてしまったのだという。けれど親だもの、息子のそんなところを責めたことなんて一度もないだろう。
勝手にひしゃげ、勝手に曲がり、そしてメアリーを愛し私を憎むことにしたのも、エディ自身の選択だ。
思わず立ち上がって執務机を周り、姑の手を握った。記憶にあるものより一回り小さく、冷たく、皺がれた感触だと思った。
「お義母様、私の実家コナー家はあまり裕福ではありません」
「知っているわ」
「この家を出たら、今の生活はなくなります。ですから私はここにいたいんです。そのために、できることはなんでもします。私――リンジー家の裕福さを愛しています。このおうちがいつまでもつつがなく続いてくれることを、利己的な理由で願っています。だから、」
はあっと肩で息をする。
「なんでも、します。そう決めました」
姑は青い目を揺らがせながら長いこと黙り、けれど私の手を振り払うことはなかった。
やがて目を逸らしながらぽつりと、いつになく弱々しい声で彼女は言う。
「それは何も悪いことじゃないわ、シャーロット」
私はほっとする。手と手はゆっくり離れた。
「たとえ愛のない夫婦でも、私はエディに仕えます。別に珍しいことじゃありませんし。私は彼の邪魔をしません。だから――」
言え。言うのよシャーロット。
私は勇気をかき集める。
――もしエディがメアリーの産んだ子供を跡取りにしようとして大暴れしたとき、私の味方してくれませんかって。
姑が味方についてくれれば百人力である。舅もいてくれればもう、私の意見が全部通ると思っていい。
だが私が何か言う前に姑は言った。
「愛だけで家は維持できないわ」
私は黙り込む。
「貴族の夫婦というのは、生活を一緒に作る関係であり、共に手を取って世間と戦う間柄であり、一つの貴族家を共に成立させる共同経営者でもあります。わかっているわね、シャーロット?」
「……はい」
「あなたがその役割を果たしているなら、何も恥じる必要はないわ。――恥じ入るべきは、エディです」
毅然としたもの言いだった。私はふいに目頭が熱くなるのを感じる。別にエディの『真実の愛』とやらに興味はないけれど、その結果踏みつけられることに何も感じないわけじゃない。
貴婦人の中にはメアリーの件を露骨にあてこすってくる人もいるし、夫に愛されないなら妻に問題があるとごく自然に信じている人もいる。一人で肩肘張って踏ん張ることに、ちょっと疲れてしまうときだって、この一年の間に何度もあった。
「リンジー家の家政はあなたに任せますわ、シャーロット」
と姑は言う。きっぱりと、すでに決定事項だと告げるときの声音だった。
私は深々と頭を下げて、彼女に最敬礼した。
「ありがとうございます……」
「そして、その他の業務についても覚えてもらいます」
「はい?」
「当然でしょ。息子が役に立たないんだから。今は商売の方が楽しくて稼いでいるようだけど、あのやり方じゃいずれ破綻が来ます。そのときにあなたには家を守ってもらわないと」
「ひ、ひええ」
「何がひえーですか。厳しくいきますわよ。ついてこられるわね?」
う、うわーん。やっぱりこの人怖いー。
私は泣き笑いしながら、それでもなんとか頷いたのだった。
その夜遅くなって戻ってきた舅は、客間にいる私たちの元へやってきてしみじみと言った。
「あの子はもうダメだな」
「そうですか」
姑は頷き、舅は悲しそうな顔で使用人に帽子とステッキを預け、コートを脱がせてもらい、のたのたと椅子に座る。
「あんな風にならないように育てたつもりだったのだが……」
ひたり、二人ぶんの視線が私に集まった。ぎゅ、と緊張して私は両手を握り込む。
「……わ、かりました。私が。私が、なんとか、このリンジー家を支えますわ」
そういうしかなかった。気負いと動揺でおかしくなりそうでも。
舅姑は同じ表情で冷徹に微笑む。あ。この顔。エディがよくしていた顔だわ……。
「よろしくね、シャーロット」
「頼んだよ、シャーロット」
そして、なにがどうしてこうなったのやら。
その日から、私の侯爵家当主代理を目指した修行が始まった。




