地球の人、拾いました。
私は急いでいた。
仕事帰りに友達のサシャと鉢合わせて、立ち止まったのがダメだったよ。ちょーっとだけのおしゃべりのつもりが、気がついたら日が傾きかけていたんだよね。ここから家が近いサシャはともかく、私は少し距離があるから帰り着く頃には暗くなっちゃう。
まぁ、私が住んでいる区域は働いている人が多いから、この時間でも人が途絶えることはあんまりないし、急げばそんな危なくないよね?
野菜やパンを買っちゃったから走るのはつらいけど、早歩きならできるもんね。唸れ、私の足!
そう思って歩くスピードを上げていたら、前方に変な人を発見した。
なんとなく違和感のある服装をした金髪のお兄さんが、道行く人に声をかけては逃げられている。
シャツにズボンでカジュアルなんだけど、形とか、色とか、素材とかが、ちょっと違う。お金持ちの人とか、外国の人なのかもしれない。
でも、お兄さんが話しかけると、女の人は時間が時間だから当然としても、男の人もすぐに去っていく。謝るみたいに軽く手を上げているから、何かを聞かれて、断ったりわからないと返したりしているのかな。
お兄さんはどんなことを聞いているんだろう。気になる。でもこの時間帯に女の私が親切心を発揮して近づくのは、警戒心がなさすぎるよね。保護者代わりのレティアさんにバレたら怒られちゃうよ。
お兄さんを避けて道を変えたほうがいいのかな。でも、この道が一番人通りが多くて安全なんだよね。下手に横道に逸れたほうが危ないかもしれない。
ちょっと悩んだけど、急いでいるし、お兄さんも気になるし、とりあえず早歩きのまま突き進んだ。お兄さんをスルーすることになろうとも、横目でちらりと観察くらいはしたいしね。
「悪いな兄ちゃん、なに言ってるかわかんねぇよ」
近づいていくと、話しかけられたおじさんが困ったように返す声が届いた。
ああ、じゃあ外国の人なのかな。言葉がわからないから、困った顔でみんなが逃げているのかもしれない。この街、外国語がわかるような人は少ないもんなぁ。港町とか観光や商売で栄えている街ってわけでもないから、学ぶ必要性があんまりないんだよね。
私はこの国の人間じゃないから、最初は言葉がわからなくて苦労したよ。ファルマン夫妻が根気よく言葉を教えてくれたから、七年経った今では不自由なく読み書きできるけどね。
――ってかむしろ、母国語の日本語よりできる。
だって生きるためにめちゃくちゃ必死でこっちの言葉を覚えたもん。頭の中で考える時もこっちの言語になった今では、日本語を使うことってめったにない。私は十歳でこっちに落ちてしまったのだ。そもそも日本語の語彙が少なかったし、使うこともなかったから、かなり忘れちゃってるんだよねぇ。
話しかけても通じない、相手の言っていることがわからない。十歳だった私はそのことがとっても怖くて不安で、保護してくれたファルマン夫妻の家から出ることができなかった。
突然見知らぬ場所に落とされて、お母さんもお父さんもお姉ちゃんもいないし、言葉もわからない。何が起こったかこれっぽっちもわからなくて、泣いているところを助けてくれたのが、親切な夫妻で本当によかったと思う。そうじゃなかったら今頃こんな穏やかな生活、できていなかっただろうな。
だから、言葉が通じなくて困っているお兄さんのことが、なんとなく放っておけないんだよね。
私は自分からお兄さんのそばに寄っていく。
危険かもしれないから、何かあれば手にしている野菜を投げつけて逃げよう。野菜がはいった袋をいつでも振り回せるよう握り方を変えて、お兄さんを見ながら早歩きのまま近づく。
そんな私に気付いたお兄さんは、驚いたみたいだけど、すぐに口を開く。
「Excuse me」
……ん? えくすきゅーずみー?
え、それ聞き覚えがある。英語、だよね? ものすっごい不安げに、でも必死に絞り出された言葉は、英語だよね!?
ピタリと立ち止まって間抜け面を晒す私に、お兄さんは縋りつくかのように言葉を重ねた。
「Where am I?」
どうしよう聞き間違いじゃない! 英語だ! これは英語だ! 紛れもなく英語だ! ここで聞くはずのない言語だ! でもどうしようなんて言ったのかわからない……!!
繰り返すけど、私がこっちに来たのは十歳の頃だ。まだ小学生だ。
ESS部に入っていたお姉ちゃんがいたから、英語のアニメは一緒に見たりした。お姉ちゃんが英語の歌を歌ったり、英語を使ったちょっとしたゲームを教えてくれて一緒に遊ぶことはあった。私自身が英語好きだったわけじゃないけど、お姉ちゃんの真似っ子で触れる機会はあるほうだったかもしれない。そういえば、小学校でも外国人の先生が英語の授業をしてくれる日があったな。
でも、だからって英語が話せるわけでも、理解できるわけでもない。日本語すら曖昧になっている私にそんなこと期待しないでほしい。
どうしてお兄さんは英語を話すんだろう。英語に似た外国語が、この世界にもあるんだろうか。私はこの街から出たことがないから、他の国のことはあんまり知らない。知らないけど、もしかしたら、もしかしたら、ね……?
心臓がバクバクしている。止めていた息を意識して吸って、あらためてお兄さんをしっかりと見た。
上は白いTシャツで、大きく犬のキャラクターがプリントされていた。ズボンはジーパンで、靴はスニーカー。うん、プリント技術も、シーパンも、スニーカーも、この世界にはない。――それは、つまり。
「地球の人だ……」
ぽろっと日本語がこぼれた。つぶやきもこっちの言葉になった私にとって、無意識に日本語が出てくるのってけっこう久しぶりだったりする。でも、地球の人だ! 七年ぶりに会う地球の人だよ!! そりゃあ日本語も出てくるよね!?
金髪と青い目だし、この街の人達寄りの顔立ちをしている。ザ・日本人な私よりはまだ馴染んでいる。それでも服装から顔に意識を移してじっくり見れば、やっぱりちょっと違うみたい。
それにしても、英語を喋る人でよかったね。別の言語だったら、聞いても地球の言葉だってわからなかったかもしれないよ。
あれ? お兄さんが途方に暮れた顔で泣きそうになっている。
なんで? って思ったけど、よく考えたら、日本語がわからない人が日本語を聞いたところで、他の人と同じように、言葉が通じない人であることに変わりはないか。じゃあ、なけなしの英語を使ってコミュニケーションを取るしかないか。
「えーっと、ジャパニーズ!」
自分を指さしてそう言えば、お兄さんは「Japanese!?」と叫んでからなんかいろいろ言っていた。
でもあいにく私には聞きとれない。時折聞いたことがあるような単語が聞こえるけど、さっぱりわからない。
「ノー、イングリッシュ」
とりあえず英語はわからないよって主張してみたら、お兄さんは激しく落胆してその場に崩れ落ちる。
ああ、やっぱり状況わかってなさそうだな。英語は通じなくても、同じ世界の人間がここにいるだけで素晴らしい偶然なんだよ。
――だってこの世界は、地球上に存在しない異世界だ。
私だって最初は昔の外国にタイムスリップしたのかと思ったけど、文字はアルファベットじゃないし、見せてくれる地図には聞いたことがある国がひとつもないし形も違う。文化の違い以前の乖離がたくさんあって、ここって地球じゃないんだって半年くらい経ってから理解した。
……そっか、私も半年経たないと理解できなかったっけ。じゃあお兄さんがわかってないのも仕方がないか。見た感じ、落っこちてきてからそんなに時間経ってなさそうだもんね。
うーん、ここは地球じゃないよってどのタイミングで言ったらいいのかな。落ち着いてから? それとも最初に言っておく? ダメージ少ないのはどっちだろう。
私の場合は、異世界から落っこちてきたなんて、私もファルマン夫妻もわかるわけもなかったから、慣れてきてからようやく理解できた。そりゃあ薄々ここは地球じゃないとは感じていたけど、すっごくショックだったなぁ。
ってかそもそも、別の世界とかってどう英語で伝えればいいんだろう。わかんない。
地球かぁ、地球って英語でなんだ。ワールド? ワールドは世界か。なんかアニメや漫画のタイトルで見たことがあるんだけどな。えーっと、えーっと、なんだっけ。
「ノー、アース」
しばらく考えたらアースって言葉が出てきたのがうれしくて、気がつけば口に出していた。もうちょっと地球じゃないってことをこの場で言うべきか考えるつもりだったんだけど、やっちゃった。やっちゃったものは仕方がない。嘘は言ってないからいいだろう。
「Say what?」
お兄さんはものすっごく困惑した顔をした。
ああそっか。地球じゃないよっていきなり言われても、ショックを受ける以前に戸惑うよね。むしろ目の前の私の頭がおかしいんじゃないかと疑うか。でも、英語で細かいことを伝えられないのに、どうやってわかってもらえばいいんだろう。
しばらく見つめ合ったままお互い沈黙したけど、お兄さんのほうが復活早かった。大げさな身振り手振りで何かを怒涛のように訴えて、私に詰め寄る。
ごめんなさい、やっぱり何を言っているかサッパリわからない。
……まさか別の世界にきて七年後に、ここまで切実に英語ができればと思うことになるなんて思わなかった。人生ってホントわからないもんだよね。
***
あのまま道で問答をしていても埒があかないし、暗くなったら私が危ない。だからとりあえず家まで連れてきた。女一人暮らしの家に不用心だとは思うけど、仕方ないよね。
ただの迷子や外国人ってだけなら信頼できる知り合いに頼るけど、お兄さんは地球の人だ。ここに来たばかりの大混乱中の人だ。二人で話をしたいなぁって思うわけよ。少なくとも、お兄さんはわかってなくても、私はお兄さんがどういう状況にいるかわかる。それに、カタコトでも英語を駆使してちょっとはコミュニケーションがとれる。うん、がんばるぞ。
こういう時、ファルマン夫妻がいてくれたらなぁとは思うんだよね。私を拾って、言葉を教え、この世界で生きる術を与えてくれた二人がこの街から出ていって、二年が経った。
旦那のアルさんが教師で、別の街にある学校に赴任することになったから、夫婦で引っ越ししちゃったんだよね。私も一緒に行くかって聞かれたけど、仕事にようやく慣れはじめた頃だったから、丁重にお断りしてここに残った。せっかく二人が生きる術を与えてくれたんだから、いつまでも頼ってちゃ駄目だしね。いちおうは私が住んでいるアパートの大家さんは、アルさんのお姉さんで、私の保護者代わりをしてくれている。困った時に頼れる相手がいるのは本当に心強い。
でも今は、私ががんばってお兄さんに現状を伝えることが大事だよね。ファルマン夫妻は私が異世界の人間だと知っているけど、さすがに大家のレティアさんは私の事情を知らない。孤児を弟夫婦が引き取ったくらいの認識だ。頼れる部分と、頼れない部分があることは理解している。
なら私が責任をもってお兄さんの面倒を見たいよね。私が二人に助けてもらったように、同じ境遇のお兄さんを助けたい。もらった優しさは、困っている人に優しくすることで返すよう教えてくれたファルマン夫妻に教えは守りたいよ。
「どうぞ。入って」
言葉は伝わらなくても、ドアを開いて仕草で促せば伝わる。彼は私と家の中を見比べてから、「Thanks」と言って入ってくれた。
靴のまま入ることへの躊躇いが一切ないところが、文化の違いだな。家の中で靴を脱がないことに慣れるまで、私はしばらく時間かかったんだけど。日本人の私と違って、彼のほうがこっちに馴染むのは早いと思う。
「シット」
椅子を叩いて促してみた。座ってってこれであってるよね? 友達がわんこに向かってそう言っていた記憶がある。ちゃんとわんこもお座りしてたし、きっと座ってねって意味だと思う。
なんだかすごい変な顔をされたから間違っているかもしれないけど、私の仕草で言いたいことは伝わったらしく、大人しく椅子に座ってくれた。ならいっか。
とりあえず飲み物を用意してから、私も向かいに座る。うーんと、やっぱ最初は自己紹介だよね。
「マイネーム、ユカ」
「YUKA?」
「ユー、ネーム」
「CHRIS」
「クリス?」
「YES」
よーし、とりあえず名前はわかった。クリスね。こっちの世界にも普通にある名前だから覚えやすくてよかった!
私の頭は、こっちの言葉を死に物狂いで覚えただけでパンパンなのよ。悪いけどこれ以上の言語が頭に入る余裕はほとんどない。日本語すらぼんやりしてきたからね。だからクリスもがんばってこっちの言葉を覚えてください。知ってる単語くらいなら英語で教えてあげるからさ。十歳だった私と違って、クリスなら知っていることも多いから覚えも早いんじゃないかな。
そういえばクリスは何歳なんだろう。年上っぽく見えるけど、どうなのかしら。聞いてみたいけど、年齢って英語でなんて言うんだ?
わかんないし、紙に17って書いて自分を指さした。これで言いたいことはわかるだろう。紙とペンを差し出すと、クリスは20って書く。やっぱりお兄さんだったか。
名前と年齢がわかったところで、次はどうすればいいかな。私がファルマン夫妻に拾われて保護された時、何をしてもらったっけ?
あの時はお互いに私が別の世界の人間だなんて知らなかったし、単純に外国人の子どもが迷子になっていたと思われて、奥さんのエミリアさんにぎゅっと抱きしめられたはずだ。
じゃあ私もクリスを抱きしめる? いやいやさすがにそれはない。
「えっと、ホーム、ステイ」
しばらくここに住んでいいよって伝えたくてそう言えば、なんとかファミリーメンバーって聞かれた。ファミリーメンバーってことは、他の家族はってことかしら。
「ワン。ノー、ファミリー」
ものすごく困った顔をされた。女一人暮らしのところに住めっていうのが引っかかるのかな? 紳士だなぁ。
確かに男女のことだしそういう心配はあるんだけど、いくらなんでも右も左もわからない状態で保護をしようとしている私を襲ったりしないんじゃないかな? それとも、わけがわからない状況で不安や恐怖がある時のほうが、そういった攻撃性が増したりするのかしら?
まぁ、最低限の対策として寝室に鍵があるし大丈夫じゃないかな。
安い部屋を借りているけど、寝室は必ず独立した一部屋をとる文化があるから、最低でも台所と居間と寝室がきっちりある。あくまで私の住む街が平和で生活水準が安定しているからっていうのもあるけどね。
ファルマン夫妻のおかげで最低限の収入がある仕事に就けたし、困った時にお世話になれる人とも知り合えた。この部屋の大家さんのレティアさんだってアルさんのお姉さんだから、何かと気にかけてくれてありがたいんだよね。
レティアさんには、明日にでもクリスを一時的に住まわせることを報告しておかないとな。……説明どうしよう。拾ったってだけだと、怒られるよね。
ともかく、寝室はちゃんとある。鍵もある。寝室で私が寝て、居間でクリスが寝ればいいよね。ソファーを寝床にしておくれ。だからクリスが状況を把握するまではここに住めばいいよ。もう一部屋借りられるような収入は私にはないしね。
「あ、そうだ地図持ってくるね」
伝わらないとわかっていても、一応声をかけてから席を立つ。私の勉強用でもあった地図と、文字が違うことが伝わるよう本も見せよう。寝室からそれらを持ってくると、テーブルに広げた。
クリスは黙って地図と本を見つめる。そして、戸惑いを浮かべて私を見る。
しばらくテーブルの上と私を見比べてから、ちょっと泣きそうな顔をした。だよね。意味がわからなくて泣きそうになるよね。
「リアル」
これが現実だよって意味で言ってから、そういえばもうひとつわかりやすいものがあったと、クリスを窓に引っ張っていった。
窓を開いて、夜空を指さす。素直に空を見上げたクリスは、「OH MY GOT」と呟いた。
クリスの視線の先には、二つの月がある。
そう、二つなんだよね。同じ大きさの二つの月が寄り添って、闇を照らしている。
こっちの神話では、太陽の姉神と違って、闇を晴らすことができない双子の妹神が、せめて姉が休んでいる間くらいは二神で力を合わせてほのかにでも闇を照らそうとがんばっているということになっている。
二つの月はここが地球じゃないんだと実感させる怖いものであるけど、その神話を聞いてからはちょっと好きになった。がんばり屋さんの双子月には、恐怖よりも微笑ましさを感じちゃうよね。
クリスの視線が、私に戻った。
そして何かを言おうと口を開いて、――グッと閉じた。
きっとクリスは何かを言いたかった。聞きたかった。でも、言葉が通じないからやめたんだろう。私も何度も言葉を飲み込んで、一人で泣いたもんな。伝わらないのに吐き出す言葉は、虚しくてつらい。
だから私はクリスの手を握った。エミリアさんがしてくれたように抱きしめることはできないけど、手を握ることはできる。人の体温って、安心するんだよ。七年前、私はそれを実感した。
私の行動にクリスは驚いたようだけど、ぎゅっと私の手を握り返してくれた。
***
翌日、出勤前にクリスのことを大家であるレティアさんに報告した。さすがに彼女に隠してクリスを部屋に住まわせることはできないもんね。
昔の私と同じ境遇の、言葉もこっちの文化もわからない迷子の外国の人を保護したと、ファルマン夫妻に受けた恩を返すためにもしばらくは私が彼の面倒を見たいのだと、戸惑うクリスを横に座らせて切々と訴えた。
ファルマン夫妻を除けば、私が異世界の人間だと知っている人はいない。だから当然レティアさんも知らないし、どこの誰ともわからない怪しい男を部屋に住まわせようとする十七歳の小娘の話に、素直に頷いてくれるわけはなかった。
「正体不明の男を若い女の子の部屋に住まわせることに許可なんてできないわ。十歳だったあなたとは違うのよ?」
正論だ。私は彼が異世界の人間だと確信できるけど、レティアさんにとっては正体不明の外国人だ。しかももういい年をした青年だもんね。十歳だった私への警戒心はそこまでなかったけど、クリスの場合はそうもいかない。
「私、ほんのちょっとだけど彼の言葉がわかるの! だから、お願いします……!」
「でもねぇ……」
レティアさんは難しい顔をしたけど、私は繰り返しお願いして渋々と認めてもらったよ。やったね!
クリスが行く場所がないのは本当だし、カタコトでも言葉が理解できたり、事情がわかっているらしい私が適任だろう。警備隊に預けても、どういう扱いになるかわからないしね。隠れて保護するんじゃなくて、こうやってちゃんと紹介したから心証がよかったのかもしれない。
とりあえず警備隊に連絡は入れるように言われたので、仕事帰りに詰所に寄らないとね。
「じゃあクリス、アイ ビジネス。ユー ハウス」
微妙な顔をされてしまった。ハウスは失礼だったかな。まぁでも伝わればいいか。
あ、忘れてた。お昼ごはんのことをレティアさんに頼まないと。
「あの、クリスのお昼ごはんを用意してもらっていいですか? まだお手洗いの使い方と飲み物の場所しか教えられていないんです。あさっての休みに細かいことは教えるんで、今日と明日のお昼だけお願いします」
「そのくらいいいわよ」
「ありがとうございます。――クリス、ランチ」
ランチと言いながらレティアさんを指させば、意味がわかったのか頷いてくれた。よし。
「それじゃあいってきまーす」
いつも家を出る時間を少し過ぎちゃったけど、走れば間に合うだろう。
手を振ってくれるクリスの不安げな表情に、今夜は急いで帰ってこようって思った。
***
結論を言おう。
クリスは社交性が半端ない。
私の休みがくる前に、身振り手振りでレティアさんと意思疎通を測り仲良くなるばかりか、アパートの他の住人とも仲良くなっていた。
ようやく明日は休みだーと仕事から帰ってきた私が見たものは、一階の部屋に住むロディスさんとお酒を飲んでいるクリスだった。びっくりだ。お互い自分の言葉でしゃべって話なんて通じてないだろうに楽しそうにしてたよ。
休みの間は、調理場の使い方や、町の案内と一緒に市場での買い方やらなんやといろいろ教えてみたけど、だいたいのことはわかってくれたらしくて、私やアパートの住人と共に何度か出かけた後は一人でも行けるようになっていた。
私が一人で出歩けるようになるまでに一年近くかかったはずなのに、クリスはたったの二週間で達成できていた衝撃は大きい。
言葉だって、一ヶ月が過ぎた頃には単語や挨拶だけながらも話すようになった。通じなくても英語でまくし立てたり、身振り手振りでがんばったり、簡単な英語でなんとか私くらいには伝わるよう工夫してみたりしながらも、こっちの言葉を積極的に覚えて口にしているクリスは、意思疎通も言葉の覚えも格段にはやかった。
当時十歳だった私と二十歳のクリスの違いか、それとも頭の出来の違いなのかと考えたけど、言葉が通じなくてもとりあえず話しかけて体当たりしてみる性格の違いが一番大きな原因なんだろうね。
最初は言葉が通じなくて泣きそうになっていたくせに、立ち直りはやいな。
……と昨日までは思ってました。
クリスとの共同生活にも慣れてきたある日、就寝のあいさつをして寝室に入ってしばらくしたら、突然クリスがドアを乱暴に叩いて私を呼んだ。
ガチャガチャとドアノブを回されて、ちょっと怖かったよ。鍵をかけているとはいえ、あんな乱暴に扱われたら壊れそうじゃん。
というか、私が寝室にこもった後に声をかけてくること自体が珍しいな。こんな乱暴なのは初めて。
「ユカ、photoみた!?」
フォトってなんだろう。なにか探してるのかな。
よくわからないけど、なんだか声が泣きそうだからとりあえず鍵を外してドアを開く。そしたら声通りに、半泣きで焦るクリスがいた。
「どうしたの?」
「ない、photoない!」
「何がないの?」
「ph……、これ!」
単語が通じなかったせいか、クリスは顔の前で何かの仕草をした。顔の前に指で長方形を作って、人差し指が何かを押すような――、ああ、カメラ! フォトってあれか、写真か!
ものがわかったところで、クリスと一緒に部屋の中を捜索しはじめる。
買い物から戻ってきた時は確かに持っていて、それから家から出ていないらしい。なら家のどこかに落ちているはずだ。
台所のあたりをクリスが探しはじめたから、私はクリスが寝床にしているソファーの周辺を探す。床に這いつくばって、ソファーや棚の隙間もじっくりと見た。
だって、あんな必死になっているクリスとか、出会った初日くらいしか見てないんだよ。だから、なくした写真はよっぽど大事なものなんだろうし、這いつくばってでも見つけてあげたい。
「あ、あった! あったよクリス!」
「!?」
棚と床の隙間に滑り落ちていた写真を、台所から飛んできたクリスが、なぜか握りしめていたフォークを隙間につっこんで、引っ張り出す。埃も一緒に引っ張り出しちゃったけどね。
写真から丁寧に埃をはらって無事を確認したクリスは、その場にへたりこんで「ありがとう」と泣いた。
ってか泣いたよ。泣きそうな顔は何度か見たけど、目の前で泣かれたのは初めてだ。今更だけど、人前で泣くの我慢してたんだね。たぶん私が寝室に引っ込んでから、ソファーでひとり泣いたりはしてたんだろうけど。
「その人達は、クリスの家族?」
見つかった安堵で泣いてしまうくらい大切らしい写真には、中年の男女とクリスが映っていた。仲が良さそうに寄り添って、笑っていた。
「そう、かぞく」
泣きながらも、クリスは柔らかく笑う。
家族、か。そうだよね、家族がいるよね。明るく積極的にこっちの生活に馴染もうとしていたから、なんとなく元の世界への未練とか少ないのかなって思うこともあったけど、家族の写真を大切にしているなら、きっと恋しいんだろう。帰りたいんだろう。――そんな当たり前のことを、改めて認識した。
私だってこっちに来た当初は、帰りたい家族に会いたいと泣いてばかりだったけど、今となっては家族の顔すらあいまいにしか思い出せないし、懐かしくはあるけど気持ちはだいぶ遠くなってしまった。
……だから、クリスが家族を恋しがる気持ちが、少しうらやましい。
「よかったら、家族の話をしてくれない?」
ねだったら、うれしそうに写真を指差して家族の話をしてくれる。
お父さんは先生でおもしろい話をたくさんしてくれて、お母さんはテディベア作りが大好きで家には自作のテディベアがたくさんいるらしい。……私が理解できたのはそのくらい。
クリスは、話している途中で完全に英語のみになった。
私がわかるように身振り手振りを加えることもなく、知っている言葉はこっちの言葉にしてくれることもなく、私がわかる英単語を探してくれるわけでもなく、ただペラペラと英語で話し続ける。
たぶん、私が理解できなくてもいいんだろう。自分の言葉で、好きなように話をしたいだけ。
私も昔、そんなことをしていた覚えがある。話を理解してほしいわけじゃなくて、自分の思うことを全部口にしたい衝動に駆られることがあった。不自由な言葉じゃ、伝えようとしても全部思ったままのことは伝えられないし、けっこう負担なんだよね。だからたまに、理解されなくても全部吐き出したいんだよ。
そんな時ファルマン夫妻は黙ってそばにいてくれたなぁと思い出しながら、早口でまったく理解できない英語に耳を傾けているうちに、寝てしまった。……いやごめん、理解できない言葉は子守唄なんだよ。
***
クリスは、英語で日記を書いている。
どうしてそんなことを知っているのかといえば、私の目の前で日記をつけているからだ。まあ、クリスの部屋ないもんね。私が英語読めないことをクリスもわかってるから、遠慮なく目の前で書くんだろう。筆記体だから更にわからないし。
「練習のためにもこっちの言葉で書けばいいんじゃない?」
そう言ってみたら、練習用にもう一冊ノートを用意して愛用するようになったけど、英語の日記は続けていた。
「ユカは日記、Japaneseで書かないの?」
どんどん上達していく言葉に感心しながらも、私は「書かない」と返した。
正直、諦めてこっちの言葉を本気で学びはじめた頃から、日本語で話すこと自体がほとんどないし、書くことはもっとない。日本語を書くくらいならこっちの言葉を書いて覚えていたよ。当たり前じゃん。読み書きできないと、仕事に困るんだよ。日本ほどじゃないけど、そこそこの識字率があるんだよこの街。
そうやって日本語を使わなかった結果、漢字ばかりかひらがなやカタカナすらあやしい。自分の名前くらいはちゃんと書けると思うけど、文章は難しいと思う。そもそも十歳が読み書きできる言葉自体が少なかったんだし、仕方ないよね。
「わすれたら、こまる」
青い目が、私を心配そうに見てくる。そんな目で見られると、なんだか後ろめたい気持ちになってしまう。だってもう、ほとんど忘れているんだよ。忘れているけど、……困らない。だって帰れやしないんだから。
帰れないままでいる私が目の前にいるというのに、クリスは自分の世界に帰れると思っているんだろうか。はやく諦めてしまわないと辛いだけ。それをクリスが思い知るまで、あとどれくらいの時間が必要なんだろう。
「……たしかに、英語をもっと覚えていたらよかったね」
そうしたら、もっとクリスとの意思疎通ができたかもしれないね。文章では喋れなくても、せめて単語が多かったらよかったなぁ。
英語だって思って言ったのも、伝わらないことが多かった。発音の問題か、そもそも英語じゃなかったかすらわからない。あとクリスも日本語っぽい言葉を使ってくれても、私には理解できないものもけっこうあった。七歳の私が知らない言葉だったのか、私が日本からいなくなってから生まれた言葉なのか、クリスが覚え間違いしているのかのどれかだろうな。
とはいっても、クリスのおかげで薄れていた日本語をけっこう思い出したよ。意思疎通のために必要だもんね。お互いが知っている日本語や英語を交えて、ジェスチャーでどうにかこうにかコミュニケーションをとってきたけど、伝わった時の達成感はけっこう気持ちいいもんだよ。
……でもさ、がんばって日本語を使おうとすると、気づいちゃったんだよね。日本語とこっちの言葉じゃ発音の仕方が違うから、なんかすっごく変な感じするんだ。日本語に、違和感がある。変な発音だなって思っちゃう。……どれだけ日本語が遠くなってるんだろうね。
必死だったから、仕方ないんだけど。生きていくためにこっちの言葉を覚えることのほうが大切で、日本語は意識的に口にしなくなったからなぁ。
こっちの言葉を習得した今なら、日本語を話したり書いたりしても困ることはないのかもしれない。だけど、使い道のない日本語を覚え続けることに意味があるのかな。思い出にしがみついたって、悲しいだけだ。私はここで生きていくんだし、過去は埋もれるにまかせて遠ざけてしまったほうがいい。
なのに、クリスは英語で日記を書いている。流れのままに遠ざけたりせず、止めようと抗っている。
そんなクリスを見るのが嫌になって、「もう寝るね」と寝室に引っ込んだ。
***
こっちの生活に慣れて仕事もはじめたクリスは、同じアパートの別の部屋を借りることになった。
いい加減ソファーで寝るのは嫌だろうし、引っ越しの話が出た時は「部屋余っててよかったねぇ」と笑顔で送り出そうとしたけど、なぜか私も一緒に引っ越すことになっていた。
「え、なんで私まで引っ越すの? ここで十分なんだけど」
「俺、一人で部屋借りるのはまだムリ。二人で家賃だしたらユカの負担は今より軽くなって一人一部屋になる」
ああ、家族向けの部屋ね。そっちは確かに寝室がふたつ作れるね。ならクリスもソファーじゃなくてベッドで寝れるし自室もできるからうれしいだろうね。家賃自体は高くなっても、二人で割り勘にしたらたしかに今までより私の負担は軽くなる。
というか、ホント言葉の上達はやくて驚くわ。そんな説明もちゃんとできるんだね。昔の私との違いに嫉妬しちゃうよ。
「ソファーはかわいそうだけど、でもなぁ」
同じアパートだし、環境が大きく変わるわけじゃないからそこまで困るわけじゃないけど、正直引っ越しって面倒くさい。
第一、いつまでも年頃の男女が一緒に暮らしてていいのだろうか。今のところ身の危険を感じたことがないけど、アパートの住人達からは恋人認定されている。このままじゃ好きな人ができた時、お互い困るんじゃないかな。私は今のところ恋の予感はないけど。
「……まだ、ユカが一緒じゃないといやだ」
ちょっと拗ねたように言われてしまった。クリスは甘え上手というか、人の懐に入っていくのがうまい。そしてそれが、自分を守る手段だということもなんとなくわかる。
ともあれ、クリスはまだこっちに来て一年弱だ。事情の知っている私にそばに居てほしいと願うのはわかるし、信頼して甘えられるのも私くらいだろう。一人で眠れなくて二年くらい夫妻の寝室にお邪魔していた私に比べたら、まだかわいいほうかもしれない。……年齢的に恋人でもない男女がこの心理的距離感なのはどうかと思うけど。
「あの部屋しかあいてなかった」
私が微妙な顔をしていたら、観念したようにクリスは言った。いや、そっちが原因かいっ。自分の部屋ほしいけど、空いてる部屋が家族向けで、一人だと借りられない。だから私と一緒に住もうって発想になったのか。
そりゃそうよね。いくら心細いってはいっても、同じアパートでいつでも会えるんだから、同じ部屋に住む必要性は薄い。でも、このまま私の部屋で同居するには自室がなくてソファーがベッド。引っ越したいけど空いている部屋は家族向け。他の場所に引っ越すと私との距離ができてそれはそれで不安。なら一緒に引っ越せばいいじゃない。そういう思考だったのかもしれない。あとレティアさんは私たちが付き合っていると思っているから、特に疑問もなく家族向けの部屋が空いてることを教えたんだろうね。
ちょっと複雑だけど、一緒に寝てと言われるわけじゃないんだし、元の世界のことが思い出になって諦めがつくまで、一緒に暮らすくらいはいっか。
そう思って了承した次の休みの日には、さっそく新しい部屋の掃除と荷物の大移動を行った。最初は二人でしてたけど、気が付いた住人達が手伝ってくれたおかげでけっこうすぐにすんだからありがたい。今度なにかお礼しよっと。
でもまあ今日は疲れたし、お腹すいたからなんかゆっくり食べたいな。
「引っ越し祝いに、なにか食べに行く?」
「俺が作る」
私は作るより外に出て食べるほうが楽だと思うけど、クリスは外に出るより自分で作るほうが楽だと思うらしい。クリスが働けるようになるまで家事はやってもらっていたけど、最初はあんまり上手じゃなかったんだよね。でも毎日作ってたら上達して、今ではけっこうな料理好きだ。ありがたい。いやまあ、今はクリスも働いているから家事は分担しているよ、もちろん。
「作ってくれるならうれしいけど、疲れてない?」
「疲れてない。ユカ、休んでていいよ。できたら呼ぶ」
「そう? じゃあよろしくー」
お言葉に甘えて、少し横になろうかな。同じアパート内でも荷物移動は体力持ってかれたもんなぁ。クリスは元気だね。
自分の部屋でゆっくりしようと思ったけど、居間に鎮座するソファーになんとなく惹かれてごろんと横になった。
今までクリスがベッド代わりにしていたソファーだ。一人の時は私も寝っ転がることはあったけど、クリスが使うようになってからは、なんとなくここで寝たことはない。
でも今はクリスの部屋もできて、クリスの身体がはみ出さないサイズの中古のベッドがやってきたから、これはただのソファーに戻った。だから、私がここでちょっと横になってうたた寝しても、問題ないよね。
――歌が聞こえる。懐かしい旋律に、胸が温かくなる。
脳裏に浮かび上がるのは、舞台で演技するお姉ちゃんの姿。ああ、これは中学生のお姉ちゃんがESS部でやっていた劇の様子だな。たしか、全部英語でやってて意味がわからなかったけど、歌がたくさんで楽しかった記憶がある。
なんて劇だったかな。一家に新しく来た女の人が、子どもたちと楽しく歌っているやつ。日本語の歌詞なら幼稚園や小学校でも歌ったなぁ。
でも、いま聞こえてくるのはお姉ちゃん達が歌ってた歌詞。だから、英語かな。じゃあクリスが歌ってる?
意識が浮上して、目を覚ました。ああそうだ、ソファーでうたた寝していたんだった。
「あ、起きた? そろそろできる」
歌うのをやめて、クリスが声をかけてくる。そういえばいい匂いもしている。ぐぅっとお腹が鳴った。
「その歌、なつかしいね」
「歌? ああ、ユカも知ってるんだ」
「学校で歌ったことあるし、お姉ちゃんがその劇してた」
そういえば家でも練習してたなぁ。そのくせ英語の歌詞はさっぱり覚えてないけど、理解できてなかったらそんなもんか。まだ小さかったしね。
「お姉さんがいた?」
「うん、四つ年上のね」
そういえば、クリスに向こうでの私のことってあんまり話してないな。
こっちに来た十歳から今までのことなら、同じ境遇のクリスの参考になるかと思っていろいろ話したけど、日本で暮らしていた私のことは家族構成すら言ってないのか。……だって、話せることがあんまりないし。
クリスは地球にいた頃のことをいろいろ話してくれたけど、漠然としか理解できていない。十歳まで日本で暮らしただけの私には、他国のことも、発達しまくった技術による生活の変化も、うまくイメージできないんだよね。世界中の人と、手のひらサイズの機械でやりとりできるって、スケールが大きすぎてよくわかんなかった。
だから、クリスが話したいように話をすることは止めないけど、私はそこまで熱心な聞き役じゃない。そもそも、もう帰れやしない世界のことを知っても、意味がないと感じてしまうんだ。
「Japaneseで歌える?」
「少しくらいなら覚えてるかも?」
「じゃあ歌おう!」
「え?」
突然のお誘いに、びっくりした。でもびっくりしている間にクリスは英語で歌いはじめて、私も勢いにのまれて日本語歌詞で一緒に歌いはじめる。
歌詞を忘れてしまったこところは、ラララ~や手拍子で誤魔化しながらも歌いきると、続けて別の歌をクリスは歌う。私も知っている限りは日本語で付き合った。
「ユカは他にJapaneseの歌おぼえてる?」
「童謡や校歌くらいしか覚えてないから、クリスの知らない歌ばかりだよ」
「それでもいいから、歌ってユカ」
笑顔で促されて、そのままのノリで思いついたものをいくつか歌う。クリスマスや歌やチューリップやカエルの歌。女の子やクマの歌もあったな。歌い出すと結構ふつうに出てくる。
あ、テレビの前で、歌のおねえさんの真似っこをして踊りながら歌うと、お父さんがうまいぞって褒めてビデオを回してたな。お母さんはにこにこと手を叩いてくれたし、お姉ちゃんは一緒に踊ってくれた。みんなで笑って、歌って、……たのしかったな。
「え、あれ?」
いつの間にか私は泣いていた。
どうして泣いているかがわからなくて、歌うのをやめて乱暴に涙をぬぐう。
「ちゃんと覚えてるんだね」
優しく言われて、ハッとした。そうだ、私が日本語で歌を歌うなんて、こっちに来てからはじめてかもしれない。
だって日本語で歌ったら恋しくて帰りたくてたまらなくなると幼心にもわかっていたし、こっちの言葉を真剣に覚えはじめた後は、日本語を積極的に使おうなんてこれっぽちも思ってなかった。だから、歌おうなんて思ったことなかった。
なのに、クリスにつられてちょっと歌ってみたら、思ったよりもするする出てきてびっくりした。……そう、びっくりしたんだよ。もう覚えていないと思っていたのに、覚えていたからびっくりした。だからこれは、びっくりしたから出てきた涙だ。
「……そうだね、覚えてるもんなんだね」
遠のいていたその光景を、顔を、声を、私は噛み締めるように脳裏に焼き付ける。
忘れてしまってかまわないと思っていたのに、忘れていなかったことが、うれしかった。
***
クリスと出会ってから、あっという間に三年が経った。
いまだに二人で暮らしているけど、関係は変化した。恋人を飛びこえて、夫婦になってるんだから驚きだよね。ちなみに恋人期間はないに等しかった。告白とプロポーズが一緒だったんだよね。
そう、クリスから結婚しようって言われた。
ずっと一緒にいたから私もクリスのことを好きになっていたけど、今も英語で日記を書いたり、英語の歌を歌ったり、なにかと元の世界のことを話したりしているクリスを見ていたら、まだ帰ることを諦めきれなくて、こっちに腰を据える覚悟はできてないんだろうなぁと思っていた。
だから私は告白しなかった。こっちの世界で恋人とか作るってことは、元の世界との決別ができてないと難しいもんでしょ?
なのにプロポーズ。恋人どころか、夫婦になろうなんて、完全にこっちに腰を据える覚悟がないとできない発言だと思うのに、クリスは堂々と言ってきた。
「もう諦めたの?」
「あきらめる? なにを」
「元の世界へに帰ること」
パチパチと瞬きするクリスに、私はもどかしくなる。
戻りたいと願うことすら遠くなった場所。クリスにとっては、まだ諦めきれない場所だと思っていた。
「方法があるのか?」
「私は見つけてないし、諦めたから探してもない」
「じゃあいい。ないものにしがみつくより、ユカと一緒になりたい」
まっすぐと見つめられて、胸が熱くなる。私を選んでくれたという事実がうれしくて、かなしい。
クリスもついに、諦めてしまったんだね……。
「じゃあ、英語で日記書いたりもやめるの?」
「なぜ?」
「え、未練にならない?」
「ならない。故郷は俺にとって大切だし、忘れるよりは覚えていたいから」
忘れるより覚えていたい。それは私とは違う考え方だった。だって、私はどうせ帰れないなら覚えていても意味ない、つらいって思ってる。でもクリスは、帰ることは諦めたのに、忘れたいとは思っていないのか。……なんだか、不思議な気持ちになる。クリスは私よりずっと、強い人なんだね。
もうとっくにたくさんのことを忘れてしまった私とは大違いだ。失った私はもう、記憶を取り戻すことはできない。
だから、不安だった。夫婦になって寝室が一緒になってからも、クリスはずっと英語の日記を続けてる。そんな姿を見て、忘れてしまった私は、不安になる。忘れないクリスは、いつか元の世界に帰れるんじゃないかって思ってしまう。
……帰れやしないと誰よりもわかっているくせに、馬鹿みたいに怖くなる。
「ユカもなにか書けばいいのに」
「もう忘れちゃったし」
「書いてたら、思い出すかもしれないだろ?」
「でも、」
「俺もユカが生まれた国のこと知りたいんだ」
不安を正直に話したら、クリスはそう言ってちょっとお高いノートとペンをプレゼントしてくれた。
受け取ったところで、すぐに日本語を書いてみることなんてできなかった。
英語で日記を書くクリスの前で、もらったノートを睨み付けることが数日続き、恐る恐るペンを手に取って「あいうえお」とひらがなを書いた時には、思わず泣いたんだから笑っちゃう。
泣いた私をクリスはいい子いい子するみたいに撫でてきて、なんだか非常に情けなかった。
練習でひらがなとカタカナを五十音順に延々と書き続けていたら、ひどく子どもっぽい不格好な字もマシになってきた。カタカナは一部覚えてなかったけど、必死に記憶を漁ったら奇跡的にそれらしい字が書けてホッとした。漢字はほとんど覚えてないというか知らなかったんだけど、自分の名前や山とか川とかの簡単な漢字くらいは思い出せた。
でもそこでショックだったことは、両親の下の名前をさっぱり覚えてないことだ。お姉ちゃんの名前はちゃんと書ける。でも、両親の下の名前なんて気にしたことなかったから覚えてないよ。十歳って、親の名前覚えてるもんなの? 私って親不孝者なのかなってへこんだよ。
二十歳でこっちに来たクリスは、当然のように自分の両親の名前を憶えている。しかも例の家族写真があるから、私みたいに顔すらおぼろげになるわけじゃないし。うらやましいなぁ。
書くだけじゃなくて、言葉も日本語を使う時が増えた。出会った当初はクリスとの意思疎通に必要だからってのもあったけど、夫婦となった今ではちょっと使う場面が変わってきた。
クリスは私に日本語の挨拶を教えてとねだってきた。その日以降、クリスはその日の気分によって、こっちの言葉と英語と日本語を使い分けて挨拶してくるんだよね。
クリスが日本語で「おはよう」って言えば、私も「おはよう」って返したし、「おかえり」って言ったら「ただいま」って返した。それだけでなんだか胸が満たされて、泣いてしまいそうになる。だから私も、クリスに教えてもらった英語であいさつをするんだ。
日本にいた頃していた遊びも、クリスと一緒にやった。じゃんけんとかあっちむいてほいとかそういうのだけど、意外と楽しかった。クリスも簡単なゲームを教えてくれて、二人で遊んで笑いあった。
そうやって、クリスとの生活は日本にいた頃の記憶を呼び戻した。
ここで生きるんだと必死になって、遠ざけて薄れていったものは、もう取り返しがつかないと思っていた。なのにクリスは、まだ大丈夫だとばかりに記憶を引き寄せてくれる。消えてないよって、すくい上げてくれる。
きっとそれは、クリスだって忘れたくないから。国は違えど、同じ地球の人間と話すことで、鮮やかによみがえるものがあるからこそ、私を誘うのだろう。
「……傷を舐めあっているだけな気がする」
「え、ユカは俺のこと好きじゃないのか?」
「いや好きだし居心地いいけど、こんなんでいいのかな」
「いいだろ。ユカがいるから、こっちでがんばろうって思えるんだし」
「そういうもん?」
「そういうもん」
最近聞いたことだけど、クリスがものすごいスピードでこの世界に馴染もうとしたのは、私みたいな年下の女の子に拾われて、いつまでも情けない姿は見せられないとがんばった結果らしい。
十歳の私は泣いて泣いて引きこもってファルマン夫妻に盛大にお世話されていたけど、二十歳のクリスはそんなふうに感情を剥き出しにすることはできなかったんだろうね。
私に迷惑かけないように、なるべくはやく自分で状況を把握して生活できるようになるために、積極的に周囲へとコミュニケーションをとっていたんだって。すごい。
でも不安は不安だったから、同じ境遇らしい私のそばにいたかったという。新しく部屋借りて一緒に引っ越そうと提案した当時は、恋愛感情はまったくなかったと白状した。わかっていたけど、ちょっと複雑。そりゃあ同じ地球の人ってだけでだいぶ心強いって気持ちはわかるから、当時同じように恋愛感情なかった私も了承したんだけどね。
そうこうしているうちに私のこと好きになって、もう帰れないんだと受け入れてここで暮らす決意をしたらしい。どの時期にそんなこと決意したかなんて、私にはさっぱりわからなかったよ。
「でもさ、クリスにはじめて会った時、地球の人を拾ったと思ったけど、正確には未来の旦那さんを拾ったってことだよね。いい拾い物したなぁ」
「じゃあ俺は未来の奥さんに拾われたってことか? こっちの世界に来たのはユカに出会うためとか、運命だな」
「同じ地球に生きてたんだから、どうせ出会うなら地球がよかった」
「国も違うし、あっちじゃ出会ってないだろ」
「そうだけどさぁ」
あのまま日本にいる自分を想像してみるけど、お姉ちゃんはESS部入るくらいに英語に興味持ってたし、たぶん留学とかしてるかもしれないから、それ経由で出会う可能性はあったんじゃないかなぁ。
もうあり得ないたらればな妄想だけど、向こうのことを思い描くことが苦痛じゃなくなった今だからこそできるんだと思えば、暖かな気持ちになれる。
忘れたくないと言ったクリスのおかげで、忘れたいと遠ざけたものに私はもう一度手を伸ばすことができた。取り返しのつかない消えた記憶もあるけれど、思い出せることだって、まだまだ十分たくさんあったんだ。
それが、とてもうれしい。
「あのねクリス」
「ん?」
「ありがとう」
END.
おしゃべり朗読配信で、このお話を自分で朗読しながらおしゃべりしています。
▶YouTubeの配信アーカイブ(https://www.youtube.com/live/nDTtefek-ag?si=4LYyYxmQBL1qTP76)




