二人の警察官
焦げた臭いが、まだ鼻の奥にこびりついていた。
黒田慎吾は、ジャケットの襟を立て、規制線の外側から煙の燻る三階建ての雑居ビルを見上げた。深夜の住宅街に、けたたましいサイレンの音と、野次馬のひそひそ話だけが響いている。
「またか……」
忌々しげに呟き、吸いかけの煙草を足元に落として踏み消した。これで今月に入って三件目だ。すべて半径二キロ以内で起きている。管轄の城西署管内で、明らかに「そいつ」は火遊びを楽しんでいた。
非番だったが、無線を聞いて駆けつけた。もうもうと上がる煙が、黒田を現場に引き寄せた。だが、現場はすでに、彼の入り込む隙間がないほど「整然」としていた。
規制線の内側で、鑑識の白い作業着が慌ただしく動き、制服警官が野次馬を下がらせている。その中心に、長身の男が立っていた。
伊勢崎隼人。
同じ城西署刑事課強行犯係の係長であり、黒田の上司。そして、警察学校の同期だった男。
伊勢崎は、手元のタブレット端末と現場を冷静に見比べながら、部下に短く指示を飛ばしている。その横顔には、焦燥も興奮もない。まるで精密機械がデータを処理しているかのように、冷徹な光だけが宿っていた。
黒田は、その背中に向かって舌打ちを一つした。
翌朝の捜査会議は、重苦しい空気から始まった。
「同一犯による連続放火事件と見て間違いない」。
伊勢崎が、会議室のモニターに映し出された地図をレーザーポインターで示しながら、抑揚のない声で説明を始めた。
「三件の現場はいずれも深夜、古い雑居ビルを狙った犯行だ。火元は建物の裏手、ゴミ集積所。ガソリンなどの促進剤は使われていない。犯人は、ゴミに直接ライターなどで火をつけている」
「プロファイリングの結果は?」
捜査一課から来た管理官が腕を組んで尋ねる。
「愉快犯、もしくは社会への不満を抱えた者の犯行。計画性は低いが、土地勘はある。徐々に犯行がエスカレートする可能性が高い」
伊勢崎の淡々とした説明に、黒田は苛立ちを募らせていた。
「……で、具体的にどう動くんだ、伊勢崎係長」
黒田が、わざとらしく階級で呼んだ。会議室の空気がわずかに凍る。
伊勢崎は視線を黒田に向けた。その目は、何も映していないかのようだ。
「防犯カメラの洗い出しを徹底する。三件の現場周辺、半径五百メートルのカメラをすべて。不審な人物、車両のリストアップを急がせろ」
「カメラ、カメラか。そんなもんで映るような間抜けが、三回も成功させるかよ」
黒田は貧乏ゆすりをしながら吐き捨てる。
「おい黒田。会議中だぞ」
隣に座る先輩刑事が肘で小突くが、黒田は止まらない。
「俺は、前科持ちを洗うべきだと思うね。この管内には、五年前と七年前に放火でパクられた奴がいる。そいつらの足取りを洗うのが先決だ。特に『マツケン』……松木謙介。こいつは火を見ると興奮するタチだ。最近、職を失ったって情報もある」
黒田の言葉に、何人かのベテラン刑事が頷いた。刑事の勘、というやつだ。
しかし、伊勢崎は首を静かに横に振った。
「黒田巡査部長。その松木謙介は、昨夜の時点で我々が任意で事情を聴いている。彼は昨夜、終始、行きつけの居酒屋にいた。アリバイは完璧だ」
「なに……」
黒田は言葉に詰まった。自分の動きが先読みされていたことに、プライドを傷つけられた。
「勘に頼った捜査は、時に大きな時間のロスを生む。データと証拠を積み重ねる。それ以外に犯人を挙げる方法はない」
伊勢崎はそう言って、黒田から視線を外し、再びモニターに向き直った。
「全員、持ち場に戻れ。カメラだ。すべてのカメラを洗え」
黒田は、拳を握りしめたまま会議室を出た。廊下の突き当たり、自動販売機の前で、缶コーヒーのボタンを乱暴に押す。
「相変わらず食えねえ野郎だ。なあ、伊勢崎」
独りごちた時、背後に気配がした。
その伊勢崎だった。
「黒田」
「……係長殿に、何かご用で」
「お前のその古いやり方は、時として冤罪を生む。忘れたとは言わせんぞ」
伊勢崎の低い声が、黒田の背中に突き刺さる。
黒田はゆっくりと振り返った。伊勢崎の冷たい目と、真正面からぶつかる。
「冤罪、ね。……お前のその、データだか規則だか知らねえが、そのやり方が、人を死なせたことを、俺は忘れちゃいねえよ」
「……何が言いたい」
「あんたが大層大事にしてる『規則』ってやつが、守るべき命を、目の前で見殺しにしたんだ」
二人の間に流れる空気は、単なる上司と部下の対立ではなかった。
それは、十年前の、あの雨の日にまで遡る、深い断絶だった。
十年前。黒田と伊勢崎は、まだ同じ交番で「相勤」を組む、ただの巡査だった。
年齢は同じ。警察学校も同期。だが、その頃から二人の性格は正反対だった。黒田は直情径行で、困っている人間を見れば規則を曲げてでも助けようとする。伊勢崎は冷静で、常に警察官職務執行法(警職法)の条文を暗唱できるほど、規則と論理を重んじた。
だが、その違いは、若さゆえのぎこちない友情で包まれていた。非番の日には二人で飲み、互いの未熟さを笑い合った。
あの日までは。
「お願いします! あの人に殺されます!」
土砂降りの雨の中、交番に駆け込んできたのは、二十代半ばの、小柄な女性だった。名前は、高田律子。
顔は青ざめ、傘も差さずに濡れそぼっていた。
「落ち着いて。どうしたんですか」
伊勢崎が冷静に対応し、黒田がタオルを渡す。
話の内容は、典型的なストーカー被害だった。別れた男が、毎日マンションの前で待ち伏せし、無言電話をかけてくる。今日は、郵便受けに、カッターナイフが入っていた、と。
「証拠はあるんですか? 男が待ち伏せしている写真とか、電話の録音とか」
伊勢崎が尋ねる。
「そんな……撮る余裕なんて……」
律子は震えながら首を振る。
「黒田、すぐそいつのところに行こう! こんなの、脅迫でしょっぴける!」
黒田が腰を上げかけた時、伊勢崎がそれを制した。
「待て、黒田。警職法第三条、保護。彼女は今、交番にいれば安全だ。だが、男の自宅に行ったところで、何を根拠に踏み込む? カッターナイフに指紋が残っているとも限らん。現行犯でなければ、下手に動けない」
「馬鹿野郎! 彼女は殺されるって言ってんだぞ!」
「だから、男に警告に行く。それが現時点で我々ができる最善だ」
伊勢崎の判断は、当時の上司にも支持された。黒田は納得がいかないまま、二人で男のアパートへ向かい、「警告」を行った。男は、「もう連絡しない」と殊勝な顔で頷いた。
その三日後。高田律子は、自宅マンションのエレベーターホールで、その男に腹部を滅多刺しにされて死亡した。
通夜の後、黒田は伊勢崎を殴り飛ばしていた。
「お前のせいだ! お前が……俺たちが、彼女を見殺しにしたんだ!」
「……規則に従ったまでだ。我々に、それ以上の権限はなかった」
雨に打たれながら、血の滲む口元を拭い、伊勢崎はそう答えた。
その目には、後悔も、悲しみも浮かんでいなかった。少なくとも、黒田にはそう見えた。
あの日を境に、二人の道は完全に分かれた。
黒田は、規則よりも「今、目の前で助けを求める命」を守ることを、自らの正義とした。時には強引な捜査も辞さず、危ない橋も渡ってきた。
伊勢崎は、二度とあのような悲劇を繰り返さないために、より完璧な捜査手順と、揺るぎない証拠の積み重ねこそが、市民を守る唯一の盾だと信じるようになった。彼は猛勉強の末に昇進試験を突破し、エリートコースを歩み始めた。
そして今、二人は、同じ強行犯係の、上司と部下として再び出会ってしまったのだ。
「……過去の話だ」
自動販売機の前で、伊勢崎は静かに言った。
「俺は、俺のやり方でホシを挙げる。お前は、俺の指示に従え。それだけだ」
伊勢崎は踵を返し、刑事課の喧騒の中へ消えていった。
黒田は、ぬるくなった缶コーヒーを、一気に喉に流し込んだ。苦い味が、口の中に広がった。
放火事件の捜査は、伊勢崎の指示通り、防犯カメラの解析が中心となった。だが、犯人は巧妙だった。カメラの死角を熟知しているかのように、決定的な姿はどこにも映っていない。
黒田が主張した前歴者たちも、全員のアリバイが確認され、捜査は行き詰まりつつあった。
焦りだけが、捜査本部に充満していく。
そんな中、黒田は独自の捜査を続けていた。
十年前の、あの事件。高田律子が亡くなった後、黒田は自暴自棄になりかけた。そんな彼を立ち直らせたのは、律子の母親からかけられた言葉だった。
「あの子を守れなかった警察を、私は今も許せません。……でも、黒田さん。あなただけは、ずっとあの子のために怒ってくれた。……どうか、あなたの信じるお巡りさんでいてください」
あの言葉が、黒田の刑事としての背骨になっている。
黒田は、伊勢崎がシロだと断定した「マツケン」こと松木謙介の周辺を、非番の時間を使って嗅ぎ回っていた。
松木のアリバイを証言した居酒屋。店主は、「ああ、マツケンならあの晩、ずっとカウンターで飲んでたよ」と証言した。
だが、黒田は違和感を覚えていた。松木は、そんなに金払いがいい男ではない。一晩中、居酒屋で飲めるような金はないはずだ。
「店主。あんた、マツケンに何か借りでもあるのか?」
黒田がカマをかけると、店主は一瞬、目を泳がせた。
「な、何のことだよ……」
「とぼけんな。マツケンは、あんたの店でツケが溜まってただろ。そのツケ、チャラにする代わりに、偽証したんじゃないのか?」
黒田の恫喝まじりの追求に、店主はついに顔を伏せた。
「……マツケンは、確かに店にいた。でも、九時頃に『ちょっと野暮用だ』って言って、一時間くらい出て行ったんだ。戻ってきた時、あいつ……なんだか、楽しそうに笑ってて……それに、汗びっしょりだった」
九時過ぎ。それは、三件目の火災が発生した推定時刻と一致する。
アリバイが崩れた。
黒田は、すぐには本部に報告しなかった。伊勢崎の顔が浮かんだからだ。
「データと証拠を積み重ねる」
あの男に、自分の足で掴んだこの情報を渡すのが、癪だった。
(俺が、俺の手で、マツケンを挙げる)
黒田は、松木が寝床にしているという、管轄境界近くの廃ビルへ、一人で向かうことを決意した。
その頃、伊勢崎は捜査本部の自席で、膨大な防犯カメラの映像リストを睨みつけていた。
黒田が会議室で放った言葉が、頭から離れない。
「お前のそのやり方が、人を死なせた」
伊勢崎は、誰にも見えないように、固く目を閉じた。
十年前の記憶。雨の音。彼女の最後の悲鳴。そして、黒田の怒りに満ちた拳。
(俺は、間違っていたのか?)
伊勢崎は、あの日以来、感情を殺すことで自分を守ってきた。悲しみも、後悔も、すべて規則と論理の鎧の下に封じ込めた。二度と判断を誤らないために、完璧なデータを求めた。
だが、その結果、黒田という最も信頼していたはずの「相勤」を失った。
伊勢崎は、黒田が提出した捜査報告書の中に、松木謙介のファイルが抜き取られていることに気がついた。
そして、別の刑事からの内線が、伊勢崎の嫌な予感を確信に変えた。
「係長、今しがた黒田さんが、松木のアリバイ証言をした居酒屋の店主から、『偽証だった』って証言取ったみたいです。なんか、一人で息巻いてましたよ。『俺がやる』って」
伊勢崎は受話器を叩きつけるように置いた。
(あの馬鹿……単独行動か!)
規則違反。それは、現在の警察組織において、最も重いタブーの一つだ。
伊勢崎はデスクの引き出しから、拳銃の入ったホルスターを取り出した。
「おい、どこ行くんだ係長!」
部下の声を背中で聞きながら、伊勢崎は捜査本部を飛び出した。
規則を破る。それは、伊勢崎が最も嫌う行為のはずだった。
だが、今は、規則よりも優先すべきものがあった。
十年前、動けなかった自分への後悔。
そして、あの雨の日以来、ずっと背中を向け続けてきた、同期の男の姿だった。
廃ビルの内部は、カビと埃の臭いが充満していた。
割れた窓ガラスから差し込む月明かりだけを頼りに、黒田は慎重に階段を上る。
三階。フロアの奥で、微かな物音がした。
黒田は、ゆっくりと腰のホルスターに手をかける。
「……マツケンか。松木謙介だな。城西署の黒田だ」
物音は止まった。
黒田が、懐中電灯で奥を照らす。
瓦礫の山に隠れるようにして、一人の男がうずくまっていた。痩せた体に、焦点の定まらない目。松木謙介だった。
彼の足元には、赤いポリタンクが転がっている。
「……ガソリン、か」
黒田の声が低くなる。
「ち、違う! 俺じゃねえ!」
松木は叫びながら、後ずさる。
「全部お前なんだろ。三件とも。火をつけて、高台から眺めてた。そうだろ」
「うるさい! 俺は悪くねえ! 社会が、世の中が、俺を馬鹿にするから!」
松木は錯乱したように叫び、懐からライターを取り出した。
「来るな! 来たら、ここも火の海にしてやる!」
松木はポリタンクの蓋を開け、床にガソリンを撒き散らし始めた。強烈な揮発臭が、黒田の鼻を突く。
「馬鹿! やめろ! お前も死ぬぞ!」
黒田は説得を試みる。だが、松木は耳を貸さない。
「みんな燃えちまえばいいんだ!」
松木が、ライターのホイールを回そうとした、その瞬間。
「伏せろっ! 黒田!」
背後から、聞き慣れた声が響いた。
伊勢崎だった。
伊勢崎は、黒田の体に全体重をかけてタックルし、二人同時に床に転がった。
その直後、松木の手元で火花が散り、撒かれたガソリンに引火した。
「ゴウッ」という音とともに、青白い炎の壁が、一気に立ち上がる。
「うわあああっ!」
松木は、迫り来る炎に怯え、後退しようとする。
「逃がすか!」
黒田が立ち上がろうとした時、炎に巻かれた天井の鉄骨が、火花を散らして落下してきた。
「黒田、危ない!」
伊勢崎が、黒田の襟首を掴み、強引に手前へ引き倒す。黒田がさっきまでいた場所に、灼熱の鉄骨が突き刺さった。
「……伊勢崎!」
黒田は息を呑んだ。
「ホシを追え! 俺は応援を呼ぶ!」
伊勢崎は、無線機を取り出しながら叫ぶ。
「お前……なんでここに……」
「お喋りは後だ! 行け!」
伊勢崎の怒鳴り声に、黒田は我に返った。炎を避け、ビルの奥へ逃げようとする松木の背中を追う。
黒田は、燃え盛る瓦礫を飛び越え、松木に飛びかかった。
もみ合いになる二人。松木は、なおもライターで抵抗しようとする。
「いい加減にしやがれ!」
黒田の渾身の右ストレートが、松木の顎を捉えた。松木は白目を剥き、その場に崩れ落ちる。
黒田が松木に手錠をかけ終えた時、背後で伊勢崎が呻く声が聞こえた。
振り返ると、伊勢崎が左腕を押さえてうずくまっていた。
「伊勢崎! どうした!」
駆け寄ると、伊勢崎のジャケットの左腕部分が、焼け焦げて皮膚に張り付いていた。
「……さっきの鉄骨だ。少し、火の粉がかかっただけだ」
「馬鹿野郎! 火傷じゃねえか!」
黒田は自分のジャケットを脱ぎ、伊勢崎の肩にかけた。
遠くから、ようやくパトカーと消防車のサイレンが聞こえ始めていた。
燃え盛る炎を背に、二人の刑事は、互いに肩を貸すでもなく、ただ並んで床に座り込んでいた。
「……単独行動。始末書じゃ済まんぞ、黒田」
伊勢崎が、苦痛に顔を歪めながら言った。
「……お前こそ。なんで、俺を追ってきた。あんたのやり方じゃないだろう」
伊勢崎は、黒田の視線を避け、揺らめく炎を見つめていた。
「……十年前」
伊勢崎が、絞り出すように言った。
「あの時……俺は、お前を止めるべきだった。そして……俺も、動くべきだった。規則がどうだろうと、動くべきだったんだ」
「……伊勢崎」
「だが、俺は動けなかった。そのせいで、彼女は死に、俺はお前を失った。……俺は、ずっと後悔していた」
伊勢崎の目から、一筋の涙がこぼれ落ちるのを、黒田は初めて見た。
あの、感情を見せなかった鉄仮面のような男が、泣いていた。
「……今回は、ただ……」
伊勢崎は、焼けた腕の痛みとは別の苦痛に耐えるように、言葉を続けた。
「……同期を、死なせるわけには、いかなかった。それだけだ」
サイレンの音が、すぐそこまで迫っていた。
事件は解決した。
松木謙介は現行犯逮捕され、過去の三件の放火も自供した。
伊勢崎は、左腕に全治三週間の火傷を負い、入院することになった。黒田は、単独行動の責を問われ、一週間の自宅謹慎処分となった。
謹慎が明けた日、黒田は病院の屋上庭園にいた。
ベンチに座り、窓の外を眺めている伊勢崎の背中を見つける。左腕には、痛々しい包帯が巻かれている。
黒田は、無言で伊勢崎の隣に腰を下ろした。
気まずい沈黙が流れる。
「……処分、決まったか」
伊勢崎が、先に口を開いた。
「ああ。謹慎一週間。もう明けた。お前こそ、腕、どうなんだ」
「大したことない。若い看護師がやたら心配してくれて、役得だ」
軽口を叩くが、その顔色はまだ青白い。
黒田は、持ってきた紙袋から、リンゴと果物ナイフを取り出した。
そして、無言で、リンゴの皮をむき始めた。
その手つきは、およそ刑事とは思えないほど不器用だった。皮は途切れ途切れになり、分厚くむかれていく。
伊勢崎は、それを黙って見ていた。
「……お前、昔から不器用だったな。警察学校の時、装備品の手入れ、いつも俺にやらせてた」
「うるせえ。怪我人に食わせてやろうってんだ」
黒田は、歪な形になったリンゴを、伊勢崎に突き出した。
伊勢崎は、ため息を一つついて、それを受け取った。
「……まずそうだな」
そう言いながら、伊勢崎はリンゴを一口かじった。シャリ、と乾いた音が響く。
「……甘えよ」
黒田は、ぶっきらぼうに答えた。
二人は、それ以上、何も話さなかった。
十年前の事件が、許されたわけではない。高田律子が生き返ることもない。
明日から署に戻れば、また二人は、捜査方針でぶつかり合うだろう。黒田は勘で走り、伊勢崎はデータでそれを制する。
だが、何かが決定的に変わっていた。
十年間、互いに背を向けて見ていた空が、今は同じ方向にある。
守りたいものは、同じなのだと。
「……相勤、だったからな」
伊勢崎が、リンゴをかじりながら、ぽつりと言った。
「ああ?」
「交番で、二人でパトロールしてた頃だ。あの頃、お前と見てた空は、悪くなかった」
黒田は、ナイフをしまいながら、空を見上げた。
都会の、ビルの谷間に切り取られた、狭い四角い空。
「……ああ。そうだな」
黒田は、短くそう答えた。
二人の間に、十年の時を経て、ようやく、ぎこちない空気が戻ってきていた。
それは、かつて「相勤」だった二人が、再び同じ空を見上げた瞬間だった。




