嘘を吐くことは、悪いことでしょうか?
「嘘を吐くことは、悪いことでしょうか?」
川沿いの夜道を揃って歩いていると、彼が独り言のようにそう言った。こちらの表情を窺ってはこなかった。
まただ。いつだって彼は脈略のない問いをふっかけてくる。若干十七の彼に、四十手前の私は揶揄われているのだろうか。
ホームルーム終わり、いつのまにか私の背後に回り込んでいた彼から、「今日、一緒に帰れませんか?」と誘いがあった。
嫌悪感は抱かなかったけれど、彼の心配はした。むさいおじさんと仲良く並んで帰るのが嫌ではないのか、と。
息を吐くと、マスクを通り越して白い息が鼻先に舞ったのが見えた。
「どうしてそんなことを訊いてくるのか、詮索はしない。嘘……か……。嘘、ねえ……。まあ、ケースバイケースじゃないだろうか」
考えながら答えに辿り着くことができたが、いやしかし実に当たり障りがない返答だ。
私は知っている、彼は曖昧を許さない。
ちらと彼を見やると、くしゃくしゃと髪を掻いているところだった。やはり、満足のいく返事ではなかったようで、
「僕は。先生に訊いているんですよ。一般的な解に興味はありません」
と毒を吐いてきた。
まだ時刻は二十時を過ぎた辺りだろうが、目に入る住宅街は暖色が息を潜めていた。
風はない。けれど、等間隔に存在感を示している木々が、時折ざわめいているように映った。
私は、嘘を吐いたことがある。というか、本当のことだけを言って生きるなんてことはできない。
防衛で、中傷で、温情で、嘘は出現する。そして、嘘には喜怒哀楽がある。
つまるところ、過程は違えど、着地点に相違はなかった。
「うん。私も、時と場合によると思うんだ」
「はあ……。先生も退化しましたね」
彼の私への呆れを、直視したくなかった。……なかったが、歩く速度が上がったことで、内心を察してしまった。私としては上手くやったつもりでも、彼は納得していないようだった。
「僕は、嘘を吐くことは悪だと考えます。いや、それだと語弊があるか……。こう言うべきでしたね、嘘が悪であると」
なぞなぞのような発言に、私は足を止めた。
予期していたかのように、ほぼ同じタイミングで、こちらを振り返った。
「嘘を吐くことは仕方がない。生きていく術です。嘘を吐くことを知っている以上、選択肢に入れておくのが合理的です」
「だったら――」
「駄目ですよ。嘘を認めちゃ、駄目なんです。結局一番平和なのは、嘘が存在しないことです」
結論を述べてスッキリしたのか、彼はまた歩き出した。
私は、彼の背中に釘付けになっていたが、我に返って後を追い、
「君の意見には賛同できない」
ときっぱりと切り捨てた。
ムキになっているわけではない。意固地になっているわけでもない。心の奥底から、そう思うのだ。
否定されても、彼は前進することをやめなかった。
「嘘が存在しなければ、本当しか存在しない世界に行けるんですよ? ……さては先生、嘘を吐いていますね」
嘘を吐く理由なんて、どこにもない。彼には教育的指導を施す必要があるだろう。
「嘘が存在しなければ、本当も存在しないんだ。この世界の全ては相対的だから、本当が生きるために、嘘は死ねない。例えるなら……そう、コインの裏と表。一方はもう一方がないと成立しない、そんな不安定な概念だ」
「腑に落ちませんね。それなら、嘘か本当が消えた世界での言葉は、一体何になると言うのですか」
真剣に訊いている彼に申し訳ないが、私は思わず吹き出してしまった。が、すぐにコホンと一つ咳払いをして、夜空を見上げた。思わず息を呑む。都会には珍しい煌めきが、そこにはあった。
「そんなこと、神でもないとわからないさ……」
人の知識を超越する世界があるとしたら、それはもう恐怖でしかない。私はそう言おうとしたが……口を噤んだ。
またもや彼は、音も立てず姿を消したのだった。