最近はどうなの?
4. 閑散期のシロップ
甘い香りの洋菓子店で、固定電話の呼び出し音が響く。
三回目の呼び出し音が終わる前に、従業員の東山栞は、受話器を取った。
「お電話ありがとうございます。洋菓子店『La maison 、 en bonbons』です」
舌を噛まないよう、フランス語の店名はゆっくり言った。
七月下旬。午後四時を過ぎても外は明るく、蒸し暑い。
「……仁科ですか? 仁科は本日、留守にしております」
栞は今日、いつもより化粧に気が入っていない。アイカラーは単色で済ませ、デートならかかさないマスカラは、塗らなかった。
上司の仁科――恋人がシフトに入っていないので、つい手を抜いた。
明るい茶色に染めた髪をまとめるのは、バッグに常備している、デニム地のシュシュだ。
「はい……はい……。オーダーケーキでしたら、店長が承っております」
栞は電話を保留にすると、調理場にいる男性のもとへ歩いた。
「店長、かわってください。オーダーのお電話です」
「あいよ」
店長の男は、ミントを選別する手を止めて、電話の子機を受け取った。
彼は四十歳を超えていて子供もいるが、従業員の誰よりも髪色が派手だった。現在は短い髪を『白髪染めのついでに』と、アッシュブロンドに染めている。
「はい。『La maison en bonbons』、私、店長の安藤と申します」
安藤はフランス語の店名をよどみなく言いながら、メモ帳を持った。
栞は安藤が電話応対している間、調理場を覗き見た。
調理場には焼きたてのクッキー。……そして薄切りのレモンと、新鮮な香りのスペアミントがある。夏に歓迎される、爽やかな組み合わせだ。
……あのふたつを使って、なにを作るつもりなのだろう。ショーケースには、レモンとミントの両方が乗っているお菓子はないけれど……。
栞が考えていると、通話を切る音がした。安藤がショーケース側にやって来る。
「店長。オーダー、通りそうですか?」
「うん」
店長の安藤は、メモを片手に答えた。彼は穏やかな顔つきだが、考えごとをしているときは鋭い印象になる。
「先の話だけど。十一月にウェディングケーキのオーダー」
「ウェディング!」
栞は声を弾ませた。
「いいですね。店長、どんなケーキを作るんですか?」
「さあ……。このお客さん、時間がかかりそうなんだよね」
安藤はカフェエプロンから携帯電話を取り出すと、手早くメッセージを送った。
「仁科くんの知り合いらしいから、任せてみるか」
「そう言えばお客さん、仁科さんをご指名でしたよね」
栞は壁にかかったホワイトボードに、視線をやった。ホワイトボードには、各従業員の予定が書かれてある。
今日の予定には『仁科 講習』とあった。
「仁科さん、そろそろ講習が終わるころかな」
栞はやわらかく笑った。
安藤は思案顔で、十年物の壁時計を見た。まもなく五時。
「東山さん。ちょっと、話をしようか」
「はい? なんでしょう」
栞は安藤と向かい合った。
「込み入ったことを聞くけれど……きみ、最近はどうなの?」
「えっと」
栞は頬を緩めた。
「仁科さんとは、順調だと思います。付き合って四ヵ月になりますが、一回も喧嘩していませんし。次の定休日はデートの約束もしてますし」
「……そう」
「先月は全然、デートしてなかったんですよ」
栞ははにかみながらも、つらつらと語った。
片思いが実って交際をはじめたので、まだ浮かれ気分だった。
「仁科さん、私の試験が終わるまでは駄目だって。……製菓衛生士試験」
「国家資格だしね」
「そですね」
「受かった?」
栞は頬を緩めたまま「はい」と返事をした。
製菓衛生士の資格は、衛生面の管理に関わる国家資格で、パティシエの多くが持つものだ。栞が通う短期大学では、資格取得が二年生の教育過程として、組み込まれている。
「無事、合格です。昨日発表があって」
「おめでとう」
「はい。これでデートに行けます」
栞は笑っていたが、ふと黙った。
相手からの反応が、薄いように感じる。
「……あの、どうかしましたか?」
「うん」
安藤は天井を見ていた。
栞も天井を見てみた。エアコンの風が吹いている。
安藤が視線を上にしたまま、言った。
「僕、のろけを聞こうとしたわけじゃないんだ」
「……はい?」
「今って七月下旬だよね。きみ、製菓コースの短大、二年生だよね」
「……はい」
「……つまり最終学年の夏だよね」
「……ええ、まぁ」
栞は、外で鳴く蝉の声を聞いた。日暮の声。
「『最近どう?』ってたずねたら、ほら就職とか? 実習の感想とか、それこそ製菓衛生士試験の結果とか」
「……あ」
「そういうものが、まっさきに聞けると思っていたんだ……」
安藤も蝉の鳴き声を聞いた。視線は遠い空にやった。まだ空は青い。
「……夏はほんと売れなくてさ。暑さで食欲が落ちるからね。材料面でも、チョコレートとかもたないし」
製菓業界にとって、夏は閑散期だった。パティシエたちはこの時期に、講習やコンテストに出かけて、スキルアップを目指す。
この店の若手のパティシエも、今日は講習会に出かけていた。
「店が暇なら……せめて、東山さんと今後のこととか。色々な話をしたかったなぁ……」
安藤は大げさにうつむいた。栞は背中に寒気を感じた。
「……店長。私」
「うん」
「とても気にさわることを言ったのなら、おわびしま」
「いやいやいや」
安藤が目尻をさげて笑った。栞はまだ寒気を感じている。
さっきは言葉をかぶせられた。取り合ってもらえていない。
「僕も、聞き方が悪かったからね。……え? でも東山さんってもう二十歳? 僕がフランス修行を決めた年齢と同じ?」
「………」
「ま、もういいか」
「店長」
栞はめいっぱい、落ち着いた声を出した。
「わ、私だって、就職や将来のことは考えています。だいたい私はここのバイト、就職を前提に、採用されているじゃないですか」
「甘くなりすぎないように『採用するかわりに必ず四年で出る』も条件だったね」
「そうそう!」
短大在学中に二年、就職してから二年。そういう約束も交わした。三年から五年で転職が推奨されるパティシエならではの、条件といえた。
「やっぱ今すぐ出てってくれる?」
「勘弁してください」
栞は雇用主に、深く頭をさげた。
「冗談だよ」
「笑えません」
安藤は口笛を鳴らした。栞は安藤の口笛が、海外のコメディー番組のものだと気づいた。……どうやら上司の機嫌は、そう悪くないらしい。
だけれど今うかつなことを言えば、本当に就職口が消える。