傘
夕夏は航にレーズンパンを取られたときより、刺々しい声を出した。
「なんの話? 私、雨降る前に、駅に着きたいんだけど」
「感じ悪いのも大概にしろよ。あれじゃ佐々木が可哀想だろうが」
「ちゃんと謝ったし……。ほんと、なんの話」
夕夏は下駄箱から、黒のローファーを取り出した。タイルの床に置くとき、靴底を強く当てて、大きな音を出した。
「はぐらかすな」
「うるさい。パン泥棒のくせに」
「なんだ。昼飯のこと、根に持ってんのか? 食い意地はってんだな」
「あんたにだけは言われたくない」
夕夏は急いでローファーを履いた。航も夕夏を追うように、青いスニーカーを履く。夕夏が早足で歩くと、航も早足でついてきた。
「ついてこないで」
「無茶言うなよ。俺とまっつーは、帰る方向が同じだろうが」
「あんた自転車通学でしょ」
「雨が降りそうだから今日は電車!」
「あっそ!」
いつまでも航がついてくるので、夕夏は溜息をついた。
正門を出たところで、雨がぽつぽつと、降り出した。
「……あんた、傘は」
「これくらいならいらね」
「そう」
夕夏は鞄から折りたたみ傘を出した。雨傘として使われてばかりの、晴れ雨兼用傘を広げると、航から顔を隠した。
「東山」
ぽつり、近くの相手に呼びかける。
「……私、別に三宅くんのこと、好きじゃなかったし」
冷たい空気の中。夕夏は紺色の傘の下で、話をはじめた。
中学校三年のとき、夕夏には航とは別に、よく話す男子がいた。
三宅柊太。夕夏と同じように、数学が得意な同級生。出席番号が近いことと、数学の成績が近いことが、話すきっかけになった。
一度だけ、土曜日のコンビニで偶然に出会い、一緒に珈琲を飲んだ。夕夏はそのとき、強い親近感を覚えた。
同じ高等学校に進むと知ったときは、とても嬉しかった。
「なんか話が合ったから。ほかの男子より大人びてるし。……一緒にいてて、ちょっと楽しかっただけ」
「……いやいや。まっつー、そういうのが好きっていうんだろ」
傘の向こうの相手は、呆れているようだった。
「俺、近くで見ていたから。わかるよ」
「……好きじゃなかったって、私が言ってるの」
夕夏は、どうして自分が航に苛立っているのか、わかっていた。
ただ認めたくなかった。
「そういうことにしといてよ。あんたなんて、デリカシーがないから嫌いよ」
「松田」
「もう放っておいて。だって、黙って憧れて――何も悪くない子に当たるとか、ひどいじゃない。……私は、そんなみじめで、最低なことしないから!」
夕夏は駅に向かって駆け出した。雨は強くなっていった。
航は追ってこなかった。
夕夏はひとりで帰りの電車に乗った。席には座れたが、車内は雨の湿気で息苦しく、気分が回復しなかった。
三宅柊太。彼に、夕夏は憧れていた。
同じ学校に進学できると知って、嬉しかった。
これで、登校時や下校時に、一緒にいられる。またコンビニにも寄れる。
だけれどそんな妄想を楽しんでいるうちに、手遅れになった。
高校入学してから、ひと月あまり過ぎたころ。彼は同じ天文部の佐々木彩音と、付き合いだした。
……その事実は堪えた。ひとりで夢を見ていたと、彼が特別に好きだったと、思い知らされた。
そしてそんな気持ちを、他人に見透かされていたのも、夕夏には辛かった。
憧れた三宅と付き合っている彩音と、夕夏の気持ちを知っている航と。
ふたりと一年間、同じ教室だなんて。気まずい。
夕夏は目を閉じて、雨音と電車が揺れる音を聞いた。
そうしている内に、うたた寝をした。
最寄り駅のアナウンスで目が覚めて、慌てて電車を降りる。
ホームに降りたそのとき、スカートのポケットで、携帯電話が震えた。
夕夏は液晶画面を見て、つい、うんざりした声を出した。
「……なんで」
母親からの用件が、絵文字と文章で表示されていた。
それは、また「来客用にお菓子を買ってきて」というものだった。
……こんな天気でこんな心情なのに、どうして買い物に行かなきゃいけないんだろう。
……もう「いやだ」と言ってやろうか。娘をこき使う母親なんて、嫌いだ。
夕夏は雨空を見上げた。いっそ雷雨にならないかと思った。雷が落ちる悪天候なら、母親も心を入れ替えて、おつかいの指示を取りさげるかもしれない。
「………」
すぐに、そんな考えは馬鹿らしいと、思い直した。
――心を入れ替えなきゃいけないのは、母親じゃない。
夕夏はくすんだ景色の中、傘を差して歩き出した。
◇◇◇
最寄り駅から徒歩十分。主要道路が通らない場所にある洋菓子店に着いたころには、雨は小雨になっていた。
夕夏はずぶ濡れのローズマリーの横を通って、店内へと入った。ローズマリーの強い香りが、かすかにした。
自動ドアが開くと同時に、いらっしゃいませ、と、明るい女性の声がした。
夕夏はその女性従業員を見て、顔をしかめた。
ココア色の帽子を被った従業員は、おそらく大学生くらい。背丈は標準。化粧をとれば、きっと夕夏より幼い顔立ちをしている。
たぶん前にも、この店で会っているだろうが……今日になって、普段は気にしないネームプレートに目がいった。
胸についたネームプレートには『東山』と書かれていた。
それだけでつい夕夏は、目の前の従業員を、嫌いそうになった。気まずいやりとりをした航と、同じ苗字というだけで。
『坊主憎けりゃ袈裟まで憎い』なんて。昔のひとはうまく言ったものだ。
「お客様、雨、大変でしたよね」
従業員は肩を濡らした夕夏を見て、心配そうな顔をした。
夕夏は「ええ、まぁ」と曖昧に言って、ショーケースに視線を落とした。
ミルクムースの上に、青紫色のクラッシュゼリー。アクセントに乗せられた銀色のアラザン。ショーケースの中にある紫陽花を模したジュレは、表面が虹色に輝き、手が届かない宝石のように見えた。
……答えは出ている。時間は戻せないんだから、次は間違えないように気をつけるだけ。
ひねくれ続けたって、八つ当たりしたって、仕方ない……。
「レアチーズケーキを、ホールでひとつ」
夕夏は頼まれた品を指差した。そして軽く、深呼吸。
視点も変えていかなきゃ。
「……それからこの、紫陽花のジュレをひとつ、ください」
「かしこまりました」
従業員の女性は、朗らかにほほえんだ。
「レアチーズケーキを四号のホールでおひとつ、紫陽花のジュレおひとつですね。それでは商品お包みしますので、もうしばらくお待ちくださいませ」
「はい」
夕夏は背筋を伸ばして、店内で待った。
東山という女性従業員は、夕夏に品物を手渡すときに「これ、試食品です」と。バニラ味のフィナンシェをひとつ、ケーキ箱の上に乗せた。
夕夏は従業員の彼女に見送られるときに、ぺこりと頭をさげた。
店から外に出たとき、雨はもうあがっていた。夕暮れの空は、明るかった。
日差しは強くなかったが、夕夏は折りたたみ傘を広げた。雫が散る。
紺地の布に、白で草花の模様が描かれた、折りたたみの晴れ雨兼用傘。
……雨傘としてばかり使ってきたけれど、やっと日傘として使えた。
紺地の傘に描かれた、白い花が、大きく咲いたように見えた。




