雨続き
3. 梅雨明けジュレ
買い物に行く途中で降りだした雨は、しだいに強くなっていった。
夕夏は湿気でまとまらない短髪を、耳の後ろにかけた。ショートカットを好んでいるけれど、雨の時期だけは髪をくくれる長さまで、伸ばしたくなる。
夕夏は、傘を叩く雨の音を、うるさいと感じた。
差しているのは、紺色の地に白で草花の模様が描かれた、折りたたみ傘。
この模様なら長身の自分が持っていても、可愛すぎないんじゃないか――そう思って購入した、晴れ雨兼用傘だ。だけど五月中旬に買ってからずっと、雨傘として使っている。
今は五月下旬。まだ梅雨入り前だというのに、最近は雨続きだ。
……こんな天気なのに、どうして買い物に行かなきゃいけないんだろう。
……母親なんて嫌いだ。『お釣りはあげるから』で、十五歳の娘が喜んで動くと思っているんだから。
夕夏は傘の下で、溜息をついた。
雨でくすんだ景色の中、目的地である洋菓子店の、明かりが見えてきた。
最寄り駅から徒歩十分。主要道路が通らないところにある洋菓子店『La maison en bonbons』は、プロバンス風の店構えだ。白い漆喰壁にオレンジ色の瓦屋根を合わせた建物で、レンガ作りの花壇にはローズマリーが植わっている。
地元民に愛用されているものの『La maison en bonbons』というフランス語の店名は、なかなか正しく呼ばれていない。略称で『メゾン』あるいは日本語訳の『お菓子の家』と、呼ばれることが多い。
松田夕夏もその家族も、この洋菓子店を『メゾン』と呼んでいた。
もうすぐお客さんが来るからゼリーを買ってきて――。そう母親に言いつけられたので、夕夏は仕方なく、家を出てきた。
傘立てに傘を置き、自動ドアを通る。いらっしゃいませ、という、若い男性従業員の声。続いて「あ、松田さん。こんにちは」という、軽やかな少女の声がした。
夕夏はぴくりと眉をあげた。あまり会いたくない同級生が、店内にいたからだ。
佐々木彩音。ひとあたりがいい性格の同級生。さらさらの髪は肩にかかる長さで、ショートカットの夕夏よりも、男子からの受けが良い。
背丈は夕夏のほうが、ずっと高かった。夕夏の身長は百六十センチメートル後半だが、彩音はそれよりも頭ひとつ分は低い。
「土曜日に同級生に会えるなんて。なんか嬉しい」
彩音は両手を合わせて、ほほえんだ。
「……佐々木さん、こんなところで何してるの?」
「えっとね。これから友達の家に、中間の勉強をしに行くの。だから、お土産にケーキ」
「ふぅん」
「松田さん、おうちこの辺?」
「そうよ」
あなたのおうちは四駅向こうだよね。そう夕夏は心の中でつぶやいた。
喧嘩するつもりはないので、作り笑いを浮かべてみる。
「……私は、親から買い物を頼まれたとこ。ここのケーキ、どれも美味しいよ」
「松田さんは、何がおすすめ?」
「タルトとか。私が好きなのは、珈琲ゼリーだけど」
「そうなんだ。ありがとう!」
彩音は期間限定の白桃のタルトと、苺のムース、そしてロールケーキを買った。またね、と夕夏に手を振って、雨の中に消えていく。
彩音がこれから訪問する家は、夕夏には検討がついていた。
……友達の家に行くんじゃない。恋人の家に行くんだ。
……結局、苺のムースが似合うような女の子が、好かれるんだ。
夕夏は浮かない表情のまま、店の従業員と向かい合った。
「ご注文お決まりでしたら、お伺いします」
ココア色の帽子を被った男性従業員は、姿勢正しく、あまり愛想はない。
「フルーツジュレ五個入りをひとつ……と」
夕夏は頼まれた品を注文したあとで、口をつぐんだ。
白桃のタルトの横には、紫陽花を模したジュレ。その横にはレモンの輪切りが乗ったレアチーズケーキ。ショーケースの中に並んだ、初夏にふさわしい涼しげな菓子は、夕夏の頬を緩めた。
夕夏はまず紫陽花のジュレ、次にグラスに入った珈琲ゼリーから、目が離せなくなった。定番の珈琲ゼリーは見るだけで、ほろ苦い味が思い出せる。
「……それと、珈琲ゼリーもひとつ。以上で」
「かしこまりました」
注文を静かに待っていた従業員は「紫陽花のジュレは七月末までの予定です」と、さりげなく夕夏に告げた。
◇◇◇
六月はじめ。高等学校の中間テストが終わり、結果も返ってきた。
夕夏の中間テストの結果は、悪くなかった。どの教科も問題ない点数で、数学にいたっては、学年上位に入ろう成績だ。昼食時にそれを言うと、夕夏の友人は、感嘆の声をあげた。
「なんで? 私はさっそく、赤点すれすれだったよ! なんでそんなに点数取れるの!」
「なんでって言われても」
夕夏は浮かない顔で、レーズンパンの袋を開けた。今日の昼食は一袋二個入りのレーズンパンと、カフェオレだ。
「数学、得意なだけだし」
「数学が得意とか。言ってみたいなぁ!」
友人の少女は大げさにはしゃいだ。その声に反応して、ほかのクラスメイトたちも寄ってくる。
「なに、テスト結果の話?」
「聞いてよー。この子ってばさぁ……」
友人は具体的な点数を言った。
夕夏と馴染みが薄い男子のほうが、女子より驚いていた。
夕夏は話の中心であるのに、自分が場違いな場所にいる気がした。木の椅子が固い。
「すげえ。松田、頭いい」
点数を聞かれたから、それに答えただけだった。褒められても反応に困る。
「まっつー、中学からすげえから」
同じ中学校だった男子が隣に来て、夕夏の肩に手を置いた。そして「一個もらうな」と言うなり、夕夏のレーズンパンをひとつ、袋から取った。
「ちょっと、東山」
夕夏が文句を言おうとしたときには、パンはもう、その男子生徒にかじられていた。
「なに」
「……もういい」
夕夏は教室の外に目をやった。今にも振り出しそうな空模様。
「てか、女子じゃクラス一番なんじゃね?」
「彩音も数学、良かったけどねえ」
彩音。
その名前を聞いた夕夏は、制服スカートのひだを握った。
クラスメイトたちの関心は、夕夏から、教室前方の彩音へと、移っていった。さらさらの長い髪で、ひとあたりのいい佐々木彩音に。
「私なんて、全然良くないって。もとが悪いから、あがったように見えるだけだよ」
彩音は身を縮め、小さな声で話した。
「謙遜しちゃって」
「いいなぁ、彼氏もできて、成績もあがって」
他の女子が騒ぐ。夕夏の胸がざわめく。
「ねえ、一緒にテスト勉強とかした?」
「べ、別に」
「別にって――一緒に勉強、したでしょ?」夕夏は声をかぶせた。
自分でも、はっとするほどの、強い調子の声が出ていた。
夕夏はおそるおそる、彩音を見た。顔を赤くしてうつむいている。
「……ごめん」
夕夏は言葉を絞り出した。小声になってしまい、彩音には届いていない。
夕夏の友人が、明るく解散を促した。
「あー。騒ぎすぎたね。やめやめ」
「だな。……あ、おい東山、ひとの唐揚げを勝手に食うな」
クラスメイトたちも軽い調子で、席を離れていく。
夕夏はわだかまりを抱えたまま、午後の授業を過ごした。そうして下校時間を迎えた。
夕夏は部活動に行く友人と別れて、下駄箱へと向かった。そこで、同級生の男子が、下駄箱にもたれているのを見つけた。思案顔で、軽く立てた自分の短髪を触っている。
東山航。夕夏と同じ中学校出身の、男子生徒。
夕夏が知り合ったのは、中学校二年生のときだ。そのとき、航は夕夏が見おろせるくらいに背丈が低かった。けれど三年生になってから伸びてきて、今は夕夏と航は、視線が合う。
別の男子が通りがかり、航の頭を上から撫でる。航はだるそうにその手を払った。
「先に帰れ。俺は用事あるから」
そう言って友人と別れた航は、夕夏を見るなり、下駄箱にもたれるのをやめた。
「ちょっといいか?」
「良くない」
夕夏はすげなく答えた。
「まっつー。お前、佐々木に当たるなよ――いくら好きな男を、取られたからって」
夕夏は航を睨んだ。彼の視線も、冷めていた。
「好きだったろ。三宅のこと」