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洋菓子店のハリネズミ ~ La maison en bonbons ~  作者: 繭美
2. 午後三時のシナモン
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お返し

 栞の中のもどかしい気持ちは、ケーキ箱を開けたとき、だいぶどこかへ消えた。焦る気持ちはシナモンの香りと共に、紅茶に溶けた。

 幼い頃から馴染みの洋菓子店だった『La maison(ラメゾン) en bonbons(アンボンボン)』。その店に勤めている有望なパティシエの一点物を、自分だけが食べられる。お気に入りのシナモンティーまである。なんて良い日なんだろう。

 弟が家にいなくて良かった。ひと口だって渡したくない。


「い、いただきます」

 栞はそう言って、そっとケーキにフォークを入れた。表面をコーティングしている白いチョコレートは思いのほか柔らかい。端の部分をフォークで切ると、二層仕立てのスポンジが出てきた。どちらの層にもたっぷりとクリームが塗られている。一層目は生クリームで二層目はカスタードクリーム。

 頬張ると、クリームの甘味と柔らかいスポンジが、口の中に広がった。美味しかった。

 栞はひと口ひと口、ゆっくり味わった。生クリームに使われているレモンの風味が心地よい。

 ……仁科さんは果物をお菓子に使うのが、とても上手だ。オレンジピール入りのチョコレートを気に入ってくれていたし、好物な分、得意なのだろう。

 ……私も好物のお菓子たちを、もっと上手く作りたい。そう。一番好きなケーキとか。特別な感じがたまらない、あのパイ生地の……。


「ん」

 三号のケーキを半分ほど食べたとき、栞はその手を止めた。

 中央に刺したフォークに、スポンジとクリーム以外のものがぶつかったからだ。やや固い。二層目のカスタードクリームの断面に、その固いものの、角の部分がちらりと見えていた。

 直感が働いた。栞はケーキからフォークを抜くと、今度は横から――ケーキの断面からフォークを入れた。水平にフォークを動かして、スポンジケーキの断面からあるものを取り出した。

 白いアイシングが塗られた一枚のクッキー。

 栞はしばらく微動だにせず、口を開けたまま、フォークの上のクッキーを見つめた。

 それから、速くなった鼓動を落ちつかせようと、シナモンの香りがする紅茶に口をつけた。栞はシナモンティーを飲みながら、皿の上にあるケーキと、中から出てきたアイシングクッキーを眺めた。

 そして二杯目の紅茶がなくなる前に、栞はケーキ皿を空にした。

 呆けた顔で、ハリネズミがいるケージの戸を開ける。

「おいで、シナモン」

 ケージから出てきたハリネズミ……シナモンは、栞にその背中を撫でさせた。背中の棘はすべて後ろにさがっていて、触れてもあまり痛くなかった。


 栞は夕飯の時間まで、ペットと遊んだり、ペットの世話をしたりして過ごした。少しだけ学校の勉強もした。

 ときおり手を止め、午後三時に食べたケーキの味を思い出した。そのたびに友人に連絡しようかと考えたが、結局、携帯電話には触らなかった。

 家族で夕飯を食べたあとは、皿の片づけをした。そして入浴をすませた。風呂からあがって自室へと戻ったのは午後の九時前。ケージに戻したハリネズミは夜行性なので、まだ元気よく回し車で遊んでいる。

 栞はベッドに腰かけると、枕を膝に置いた。それから充電していた携帯電話を手にした。

『仁科さん』と登録した連絡先を表示させると、ためらいがちに、発信ボタンに触れる。

 五回ほど呼び出し音が響いたあとで、彼が電話に出た。


《――どうした》

「遅い時間にすみません。どうしても、今日中にケーキの感想を言いたくて」

 栞は片手で枕を抱きしめた。視線は回し車のシナモンに置いた。

「その……。とっても美味しかったです」

《具体的には》

「えっと、スポンジもふわふわで。それから、チョコレート細工がきれいなだけじゃなくて、味も舌触りも最高でした。今度やり方を教えてください」

《あれは慣れの部分が大きいって》

「はい……」

 会話に間が空く。栞は電話口の向こうから、駅前のざわめきを聞いた。仁科は帰宅前だ。

 自分は風呂あがりで、肌が火照っている。


「仁科さん、確認いいですか」

《ああ》

「今ひとりですか」

《まぁな》

「ではもうひとつ確認を」

 栞は頬を染めて、固く目を閉じた。

「ケーキに挟んであった、ハート型のアイシングクッキー。……嬉しかったです。あれは『ガレット・デ・ロワ』ですよね」

《良かった。割れてなかったか》

「はい。前に私が一番好きだって言ったこと、覚えてくれていたんですね」

《季節はずれだから、趣向だけな》

 ガレット・デ・ロワは、フランスで一月六日に食べられている伝統のパイ菓子。

 中にはフェーブと呼ばれる陶器人形が入っていて、切り分けて食べるときにフェーブに当たった者は、祝福を受ける。

「フェーブの人形のかわりに――その、ハートのクッキーを選んだのは」

《………》

「仁科さん。……私で、いいってことですか?」

 シナモンの回し車の音、夜の駅のざわめき、固唾をのむ音を、栞は聞いた。

 長い間が空いてから、息を吐いただけのような《ああ》という声も。

《まぁ、今は時間ないから。……俺でいいなら》

 今度の定休日、どこかへ行かないか。

 そう誘われた栞は、はい、と裏返った声で返事をすると、勢いよく枕に顔をうずめた。


 2. 午後三時のシナモン(終)

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