お返し
栞の中のもどかしい気持ちは、ケーキ箱を開けたとき、だいぶどこかへ消えた。焦る気持ちはシナモンの香りと共に、紅茶に溶けた。
幼い頃から馴染みの洋菓子店だった『La maison en bonbons』。その店に勤めている有望なパティシエの一点物を、自分だけが食べられる。お気に入りのシナモンティーまである。なんて良い日なんだろう。
弟が家にいなくて良かった。ひと口だって渡したくない。
「い、いただきます」
栞はそう言って、そっとケーキにフォークを入れた。表面をコーティングしている白いチョコレートは思いのほか柔らかい。端の部分をフォークで切ると、二層仕立てのスポンジが出てきた。どちらの層にもたっぷりとクリームが塗られている。一層目は生クリームで二層目はカスタードクリーム。
頬張ると、クリームの甘味と柔らかいスポンジが、口の中に広がった。美味しかった。
栞はひと口ひと口、ゆっくり味わった。生クリームに使われているレモンの風味が心地よい。
……仁科さんは果物をお菓子に使うのが、とても上手だ。オレンジピール入りのチョコレートを気に入ってくれていたし、好物な分、得意なのだろう。
……私も好物のお菓子たちを、もっと上手く作りたい。そう。一番好きなケーキとか。特別な感じがたまらない、あのパイ生地の……。
「ん」
三号のケーキを半分ほど食べたとき、栞はその手を止めた。
中央に刺したフォークに、スポンジとクリーム以外のものがぶつかったからだ。やや固い。二層目のカスタードクリームの断面に、その固いものの、角の部分がちらりと見えていた。
直感が働いた。栞はケーキからフォークを抜くと、今度は横から――ケーキの断面からフォークを入れた。水平にフォークを動かして、スポンジケーキの断面からあるものを取り出した。
白いアイシングが塗られた一枚のクッキー。
栞はしばらく微動だにせず、口を開けたまま、フォークの上のクッキーを見つめた。
それから、速くなった鼓動を落ちつかせようと、シナモンの香りがする紅茶に口をつけた。栞はシナモンティーを飲みながら、皿の上にあるケーキと、中から出てきたアイシングクッキーを眺めた。
そして二杯目の紅茶がなくなる前に、栞はケーキ皿を空にした。
呆けた顔で、ハリネズミがいるケージの戸を開ける。
「おいで、シナモン」
ケージから出てきたハリネズミ……シナモンは、栞にその背中を撫でさせた。背中の棘はすべて後ろにさがっていて、触れてもあまり痛くなかった。
栞は夕飯の時間まで、ペットと遊んだり、ペットの世話をしたりして過ごした。少しだけ学校の勉強もした。
ときおり手を止め、午後三時に食べたケーキの味を思い出した。そのたびに友人に連絡しようかと考えたが、結局、携帯電話には触らなかった。
家族で夕飯を食べたあとは、皿の片づけをした。そして入浴をすませた。風呂からあがって自室へと戻ったのは午後の九時前。ケージに戻したハリネズミは夜行性なので、まだ元気よく回し車で遊んでいる。
栞はベッドに腰かけると、枕を膝に置いた。それから充電していた携帯電話を手にした。
『仁科さん』と登録した連絡先を表示させると、ためらいがちに、発信ボタンに触れる。
五回ほど呼び出し音が響いたあとで、彼が電話に出た。
《――どうした》
「遅い時間にすみません。どうしても、今日中にケーキの感想を言いたくて」
栞は片手で枕を抱きしめた。視線は回し車のシナモンに置いた。
「その……。とっても美味しかったです」
《具体的には》
「えっと、スポンジもふわふわで。それから、チョコレート細工がきれいなだけじゃなくて、味も舌触りも最高でした。今度やり方を教えてください」
《あれは慣れの部分が大きいって》
「はい……」
会話に間が空く。栞は電話口の向こうから、駅前のざわめきを聞いた。仁科は帰宅前だ。
自分は風呂あがりで、肌が火照っている。
「仁科さん、確認いいですか」
《ああ》
「今ひとりですか」
《まぁな》
「ではもうひとつ確認を」
栞は頬を染めて、固く目を閉じた。
「ケーキに挟んであった、ハート型のアイシングクッキー。……嬉しかったです。あれは『ガレット・デ・ロワ』ですよね」
《良かった。割れてなかったか》
「はい。前に私が一番好きだって言ったこと、覚えてくれていたんですね」
《季節はずれだから、趣向だけな》
ガレット・デ・ロワは、フランスで一月六日に食べられている伝統のパイ菓子。
中にはフェーブと呼ばれる陶器人形が入っていて、切り分けて食べるときにフェーブに当たった者は、祝福を受ける。
「フェーブの人形のかわりに――その、ハートのクッキーを選んだのは」
《………》
「仁科さん。……私で、いいってことですか?」
シナモンの回し車の音、夜の駅のざわめき、固唾をのむ音を、栞は聞いた。
長い間が空いてから、息を吐いただけのような《ああ》という声も。
《まぁ、今は時間ないから。……俺でいいなら》
今度の定休日、どこかへ行かないか。
そう誘われた栞は、はい、と裏返った声で返事をすると、勢いよく枕に顔をうずめた。
2. 午後三時のシナモン(終)