約束
2. 午後三時のシナモン
日差しが春めいてきた三月の、十四日のこと。
短期大学もアルバイトも休みである東山栞は、午後二時十分に、新しいシフォンスカートを履いて家を出ていった。そして午後三時前に帰宅した。
靴を脱ぎながら「ただいま」と言って、二階へとあがってゆく。「おかえり」という母親の声は階段の途中で聞いた。
高校受験を終えた弟はまだ帰っていないようで、二階に人の気配はない。栞は自室のドアを開けて、歌うような声で「ただいまぁ」と言った。
四畳半のひとり部屋から、ぴぃ、と返事があった。
「あとで遊ぼうね。シナモン」
栞はケージの中にいる小動物――薄茶色のヨツユビハリネズミに、優しく話しかけた。
それから外出先でもらった小さなケーキ箱を、折りたたみ机に置いた。続いてトートバッグとトレンチコートを、ポールハンガーにかける。
そこで栞はセミロングの髪とシフォンスカートを揺らし、自室を出た。部屋にハリネズミ一匹を残して。
約五分後。栞はトレイを持って部屋に戻った。トレイの上にはケーキ皿とフォークと、ティーセットがある。ティーカップの皿には、シナモンスティックが添えられていた。セイロン産のシナモンスティックは栞の『とっておき』だった。
栞はトレイを机に置くと、鑑定士のような手つきで、正方形のケーキ箱の蓋を開けた。
栞の前に、繊細な飾りをつけた白いケーキが現れる。
表面がホワイトチョコレートでコーティングされた、小さな三号サイズのホールケーキ。ごく少量の金粉と、スパイラル状のホワイトチョコレート細工が、白い土台に飾られていた。
直径九センチであるこの三号サイズを、普段から並べている店は少ない。ケーキからは甘い、チョコレートとクリームの香りが漂う。そしてほんのりとレモンの香りもした。たぶんクリームの風味づけに使われている。
栞はケーキに見とれるあまり、紅茶を蒸らしているのを忘れそうになった。
「シナモン、どうしよう」
紅茶を注ぎながら、ペットのハリネズミに呼びかける。
「こんなケーキが、ホワイトデーにもらえるなんて!」
彼女のハリネズミは返事がわりに、鼻を少しだけ上にあげた。
栞は紅茶をシナモンスティックでかき回しながら、ケーキを受け取ったときのことを振り返った。
ほんの数十分前のことだ。
◇◇◇
三月十四日。ホワイトデーの午後二時半頃。
以前から約束していたので、栞はアルバイト先の洋菓子店『La maison en bonbons』へ行った。従業員用の裏口で、上司のパティシエと落ち合った。
上司のパティシエは仁科崇人といい、いつも身なりが正しい二十二歳の男性だ。接客中の愛想は最低限。
栞はバレンタインデー当日、この仁科に、手作りのチョコレートを渡していた。精一杯の告白も、すませていた。
「ごめんな東山」
仁科は神妙な面持ちだった。
「これだけ受け取ってくれ」
そう言うと、仁科は小ぶりなケーキ箱を差し出した。箱は無地で白い。
栞は青ざめた顔で、ホワイトデーの贈り物を受け取る羽目になった。
「どうした」仁科が栞の顔色をうかがった。
「……今、ごめんなって、どういう」
「ラッピングできなかったから」
栞は無地のケーキ箱と、残念そうな仁科を見て、溜息をついた。
「それくらいで謝らないでください。このタイミングでごめんって言われたら……私、断られるのかと」
「ああ」
仁科は口を開け――視線を地面に落としてから、また口を閉ざした。なにか大切なことを言いかけたように見えたが、次に仁科の口から出てきたのは、平常どおりの言葉だった。
「まぁ、今は時間ないから。それ持って帰れ」
「はい。ありがとうございます」
栞は両手でケーキ箱を抱えた。そして仁科を見あげた。
「仁科さん、確認いいですか」
勤務中のような言葉を選ぶ。
「なんだ」
「私……即お断り、ではないんですよね? 仁科さんにとって」
仁科はすぐに「ああ」と頷いた。
「そうだったら、ちゃんと一か月前にふってるよ」
「言い方」
「ロスは最小限に抑えないとな」
「ひとの気持ちを時間が経ったケーキみたいに言わないで」
そんなやりとりをしていると、店から仁科を呼ぶ声がした。別のバイト員の声だった。
仁科は裏口を開けて、大きく返事をした。
「じゃあな東山。食べたら感想、聞かせてくれよ」
仁科は軽く笑って、店に戻っていった。
栞はもどかしい気持ちとケーキ箱を抱えて、帰り道を歩いた。空は厚い雲で覆われていた。
『そうだったら、ちゃんと一か月前にふってるよ』
……この言葉からして、にぶそうな彼にも、自分の気持ちは伝わっているはず。
ホワイトデーに手作りのケーキをくれたことが、何よりの返事。
そう思っていいのだろうか? うぬぼれではないのだろうか?
生真面目なひとだから、相応のお返しになるよう手作りしてくれただけ。返事は先延ばしにされているだけで、やっぱりお断り。そんな可能性も否定できない。
バレンタインデーのときに告白したものの、ふたりの間の話題は好きなケーキは何かとか。製菓コースの課題だとか。休日に何をしていたかとか。以前と変わらない。
二十二歳の社会人にとって、十九歳の短大生は、恋愛対象に映らないのかもしれない。