ターゲット
仁科は客がいないのを確認すると、休憩室から椅子を持ってきた。栞は椅子に座り、額の汗をぬぐった。
「そんなに緊張しなくてもいいのに」
仁科は気づかっているものの、栞の緊張の理由はわからないようだった。
「だから、発表は苦手なんですってば」
「そうあがるな。伝わればいいんだ」
「……はい」
栞は肩をすぼめた。側のオーブンから、シュー皮の焼ける香りが漂ってくる。
「ノートを貸してくれ」
仁科は栞からノートを渡されると、デザイン画に視線を落とした。
「コンセプトは、本命用、兼、女性の自分用であっているか?」
栞はこくりと頷いた。
「だったら、三種類の味はどれもいい。アーモンド入りが少し甘すぎると思ったけれど、子供や女性には喜ばれるだろう」
「……仁科さんは、どの味が好みでしたか?」
「オレンジピール」
ミント入りは、もう少し風味を抑えたほうが広く受けるかもしれない。仁科はそう言ったあとで、栞の創意工夫を褒めた。
「――ここからは、俺の見解が大きくなるから、話半分に聞いてくれ。こうしたほうが売れると思うって話だが……それが確実にわかれば、職人は苦労しない」
「は、はい」
平日の昼過ぎ。客がいない店内では、説得力が増した。
「三種類全部、同じスイートチョコレートを使ったよな」
「はい」
「ビターチョコレートや、あとホワイトチョコレートも使用したほうがいい。見栄えも良くなる」
「ホワイトチョコレートですか……」
栞は小さく溜息をついた。
「実は最初、ホワイトチョコレートでも作ろうとしたんです。だけど舌触りが、すごく悪くなって」
「ああ、テンパリングか」
「はい」
チョコレートを溶かす作業――テンパリングの段階で失敗した、と栞は話した。
カカオマスが入っていないホワイトチョコレートは、茶色いチョコレートよりも溶ける温度が低い。栞はチョコレートを扱い慣れていないので、そこを見落とした。
必要以上に高い温度で溶かしたチョコレートは、ぼそぼそした食感に仕上がり、艶もない。
「仁科さん。食べてもらったチョコレートは、舌触りはどうでした?」
「……商品としては並べられない」
「駄目でしたか」
栞はうつむいた。仁科は少し考えてから、栞に聞いた。
「テンパリングのとき、温度計で計ってるか?」
「はい」
「多分そこで、もたついている。慣れれば……下唇だけでチョコレートの温度がわかるようにもなる。技術は改善するから、今は気にやまなくていい」
「難しそう」
「面倒くさがりの東山なら必ず、温度計を使わないテンパリングを会得できる」
「あまり褒めてないですよね?」
栞は小数点以下の温度やグラムにこだわれず、製菓の実習で失敗したことがある。
『大らか』ともいえる性格は、仁科に把握されていた。
「まあ、バレンタインで売る商品ならって話だ。そう舌触りも悪くなかった」
仁科は栞の膝に、ハリネズミのページを開いたままの、ノートを置いた。
「このチョコレート自体、上出来だ。美味しかったよ」
栞はノートを膝に乗せたまま、顔を輝かせた。
「本当ですか?」
「ああ。こっちも刺激になったよ」
「どのくらい美味しかったですか?」
「また試作を食べたいくらいには」
「嬉しい! 仁科さんから、こんなに褒めてもらえるなんて」
「……どういうイメージなんだ。お前の中の俺は」
「刺がある人」
そのとき、店に女性客が入ってきた。栞は椅子から立ちあがり、そつなく接客をこなした。
ケーキの小箱を抱えて出ていく女性を、笑顔で見送る。
「渡されたときから、よく作ったと思っていた」
自動ドアが閉まると、仁科が話を戻した。今はレジ台の近くに来ている。
「ここのシフトと学校で、夜まで忙しかったろうに」
「忙しくても平気でしたよ。私、ここのケーキ大好きですから。それに……」
栞はバックヤードのほうに耳をすませた。まだ店長は帰ってきていない。
「……ターゲットのことを考えたら、頑張れました」
栞はしばらく店に客が来ないよう、心で祈った。店長には申し訳ないが。
大学で製菓の実習があったときの帰宅時間は、夜の八時過ぎ。洋菓子店でアルバイトをしたときの帰宅時間は夜の九時過ぎ。そんな毎日の中で、バレンタインにチョコレートを手作りした理由は、しっかり伝えておきたい。
「仁科さん。私がバレンタインに、ここのチョコレートを贈ったら、どう思いました?」
「……お買い上げに感謝する」
「では他店のチョコレートなら」
「研究材料だな」
「ですよね。仁科さんがそんな人だから」
栞は一度、深く息を吸った。
「私の気持ちを伝えるには、自分で作るしかなかったんです。技術が甘くても。……『試作』なんて、食べてもらうためのコーティングですよ」
コンセプトという言葉が頭に浮かぶ。そうだ。発表だと思えばいい。伝わればいい。
相手の目を見て話す。目がいやだったら、眉間のあたりを。
栞は仁科の目を見て話した。
「あのチョコレートの真のターゲットは、仕事熱心なパティシエです」
仁科の表情が変わった。
「仁科さんのこと……面倒だなって思うこともありますけど。きちんと指導してくれますし。と、時々、いいなって、思っています」
栞は顔を赤らめて、声を小さくした。仁科は何も言わない。
栞はいっそう思い切って、聞けなかった言葉を相手にぶつけた。
「い、今、付き合っている人はいますか?」
「いや」仁科は抑揚のない口調だった。
「今はいない」
「……そう、ですか」
栞は言葉に詰まった。拒絶されている気がして、視線を床に落とした。
会話が途切れた室内で、焼きあがりを知らせる音がオーブンから響く。
仁科は黙ってバックヤードへと戻った。栞はいたたまれなくなり、胸を押さえた。
……早まったかもしれない。
彼と気まずくなったら、ここのアルバイトを続けていけるだろうか……。
「……東山。三月十四日は、なにか予定があるのか?」
「え?」栞は顔をあげて、仁科のほうを見た。
仁科はバックヤードの壁にかけられた、ホワイトボードのシフト表を見ている。
シフト表の三月十四日の欄には『ホワイトデー』と書かれてあり、栞の名前はない。
栞は店を思ってスケジュールを空けていたが、たまたまシフトが入らなかった。
「暇ですけれど」
「なら、店に寄ってもらっていいか」
「わかりました」
仁科がオーブンを開けて、焼きあがったシュー生地を取り出す。
「……十四日。人出が足りてないんですか? 私、ラストまで入れますよ」
栞はしどろもどろに言う。仁科は横目で、栞を見た。
「そうじゃない。ケーキの試作品を作ってくるから、もらって帰ってくれ」
膨らんだシュー生地の甘い香りが、ショーケース側にいる栞にまで届く。
栞ははにかみながら、はい、と返事をした。
「……ここの商品じゃ、余りものを渡すみたいだから」
「ありがとうございます!」
手作りのお返しを用意してくれる。自分と同じように手間暇をかけて。
そう思うだけで、栞は胸がいっぱいになった。
遅れ毛を耳の後ろに直して、仁科に笑いかける。
二月十四日に渡したチョコレートのように。
こんな自分の不器用さも、相手を喜ばせる魅力になればいい。
1. 洋菓子店のハリネズミ(終)