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洋菓子店のハリネズミ ~ La maison en bonbons ~  作者: 繭美
1. 洋菓子店のハリネズミ
3/39

ターゲット

 仁科は客がいないのを確認すると、休憩室から椅子を持ってきた。栞は椅子に座り、額の汗をぬぐった。

「そんなに緊張しなくてもいいのに」

 仁科は気づかっているものの、栞の緊張の理由はわからないようだった。

「だから、発表は苦手なんですってば」

「そうあがるな。伝わればいいんだ」

「……はい」

 栞は肩をすぼめた。側のオーブンから、シュー皮の焼ける香りが漂ってくる。

「ノートを貸してくれ」

 仁科は栞からノートを渡されると、デザイン画に視線を落とした。

「コンセプトは、本命用、兼、女性の自分用であっているか?」

 栞はこくりと頷いた。

「だったら、三種類の味はどれもいい。アーモンド入りが少し甘すぎると思ったけれど、子供や女性には喜ばれるだろう」

「……仁科さんは、どの味が好みでしたか?」

「オレンジピール」

 ミント入りは、もう少し風味を抑えたほうが広く受けるかもしれない。仁科はそう言ったあとで、栞の創意工夫を褒めた。


「――ここからは、俺の見解が大きくなるから、話半分に聞いてくれ。こうしたほうが売れると思うって話だが……それが確実にわかれば、職人は苦労しない」

「は、はい」

 平日の昼過ぎ。客がいない店内では、説得力が増した。

「三種類全部、同じスイートチョコレートを使ったよな」

「はい」

「ビターチョコレートや、あとホワイトチョコレートも使用したほうがいい。見栄えも良くなる」

「ホワイトチョコレートですか……」

 栞は小さく溜息をついた。

「実は最初、ホワイトチョコレートでも作ろうとしたんです。だけど舌触りが、すごく悪くなって」

「ああ、テンパリングか」

「はい」

 チョコレートを溶かす作業――テンパリングの段階で失敗した、と栞は話した。

 カカオマスが入っていないホワイトチョコレートは、茶色いチョコレートよりも溶ける温度が低い。栞はチョコレートを扱い慣れていないので、そこを見落とした。

 必要以上に高い温度で溶かしたチョコレートは、ぼそぼそした食感に仕上がり、艶もない。


「仁科さん。食べてもらったチョコレートは、舌触りはどうでした?」

「……商品としては並べられない」

「駄目でしたか」

 栞はうつむいた。仁科は少し考えてから、栞に聞いた。

「テンパリングのとき、温度計で計ってるか?」

「はい」

「多分そこで、もたついている。慣れれば……下唇だけでチョコレートの温度がわかるようにもなる。技術は改善するから、今は気にやまなくていい」

「難しそう」

「面倒くさがりの東山なら必ず、温度計を使わないテンパリングを会得できる」

「あまり褒めてないですよね?」

 栞は小数点以下の温度やグラムにこだわれず、製菓の実習で失敗したことがある。

『大らか』ともいえる性格は、仁科に把握されていた。


「まあ、バレンタインで売る商品ならって話だ。そう舌触りも悪くなかった」

 仁科は栞の膝に、ハリネズミのページを開いたままの、ノートを置いた。

「このチョコレート自体、上出来だ。美味しかったよ」

 栞はノートを膝に乗せたまま、顔を輝かせた。

「本当ですか?」

「ああ。こっちも刺激になったよ」

「どのくらい美味しかったですか?」

「また試作を食べたいくらいには」

「嬉しい! 仁科さんから、こんなに褒めてもらえるなんて」

「……どういうイメージなんだ。お前の中の俺は」

「刺がある人」

 そのとき、店に女性客が入ってきた。栞は椅子から立ちあがり、そつなく接客をこなした。

 ケーキの小箱を抱えて出ていく女性を、笑顔で見送る。

「渡されたときから、よく作ったと思っていた」

 自動ドアが閉まると、仁科が話を戻した。今はレジ台の近くに来ている。

「ここのシフトと学校で、夜まで忙しかったろうに」

「忙しくても平気でしたよ。私、ここのケーキ大好きですから。それに……」

 栞はバックヤードのほうに耳をすませた。まだ店長は帰ってきていない。

「……ターゲットのことを考えたら、頑張れました」

 栞はしばらく店に客が来ないよう、心で祈った。店長には申し訳ないが。


 大学で製菓の実習があったときの帰宅時間は、夜の八時過ぎ。洋菓子店でアルバイトをしたときの帰宅時間は夜の九時過ぎ。そんな毎日の中で、バレンタインにチョコレートを手作りした理由は、しっかり伝えておきたい。


「仁科さん。私がバレンタインに、ここのチョコレートを贈ったら、どう思いました?」

「……お買い上げに感謝する」

「では他店のチョコレートなら」

「研究材料だな」

「ですよね。仁科さんがそんな人だから」

 栞は一度、深く息を吸った。

「私の気持ちを伝えるには、自分で作るしかなかったんです。技術が甘くても。……『試作』なんて、食べてもらうためのコーティングですよ」

 コンセプトという言葉が頭に浮かぶ。そうだ。発表だと思えばいい。伝わればいい。

 相手の目を見て話す。目がいやだったら、眉間のあたりを。

 栞は仁科の目を見て話した。

「あのチョコレートの真のターゲットは、仕事熱心なパティシエです」

 仁科の表情が変わった。

「仁科さんのこと……面倒だなって思うこともありますけど。きちんと指導してくれますし。と、時々、いいなって、思っています」

 栞は顔を赤らめて、声を小さくした。仁科は何も言わない。

 栞はいっそう思い切って、聞けなかった言葉を相手にぶつけた。

「い、今、付き合っている人はいますか?」

「いや」仁科は抑揚のない口調だった。

「今はいない」

「……そう、ですか」

 栞は言葉に詰まった。拒絶されている気がして、視線を床に落とした。

 会話が途切れた室内で、焼きあがりを知らせる音がオーブンから響く。

 仁科は黙ってバックヤードへと戻った。栞はいたたまれなくなり、胸を押さえた。


 ……早まったかもしれない。

 彼と気まずくなったら、ここのアルバイトを続けていけるだろうか……。


「……東山。三月十四日は、なにか予定があるのか?」

「え?」栞は顔をあげて、仁科のほうを見た。

 仁科はバックヤードの壁にかけられた、ホワイトボードのシフト表を見ている。

 シフト表の三月十四日の欄には『ホワイトデー』と書かれてあり、栞の名前はない。

 栞は店を思ってスケジュールを空けていたが、たまたまシフトが入らなかった。

「暇ですけれど」

「なら、店に寄ってもらっていいか」

「わかりました」

 仁科がオーブンを開けて、焼きあがったシュー生地を取り出す。

「……十四日。人出が足りてないんですか? 私、ラストまで入れますよ」

 栞はしどろもどろに言う。仁科は横目で、栞を見た。

「そうじゃない。ケーキの試作品を作ってくるから、もらって帰ってくれ」

 膨らんだシュー生地の甘い香りが、ショーケース側にいる栞にまで届く。

 栞ははにかみながら、はい、と返事をした。

「……ここの商品じゃ、余りものを渡すみたいだから」

「ありがとうございます!」

 手作りのお返しを用意してくれる。自分と同じように手間暇をかけて。

 そう思うだけで、栞は胸がいっぱいになった。


 遅れ毛を耳の後ろに直して、仁科に笑いかける。

 二月十四日に渡したチョコレートのように。

 こんな自分の不器用さも、相手を喜ばせる魅力になればいい。


 1. 洋菓子店のハリネズミ(終)

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