おまけのトライフル
「ね? ね? 可愛いでしょう」
「まぁ、うん」
「崇人さん、もしかして私に気をつかっています? やだなぁ。遠慮しないで可愛いって言っていいんですよー。シナモンならいくら褒めても、私、妬きませんから」
「……いやそこまでは」
「シナモンは寝ていても世界一可愛いです」
「栞、うるさい」
三月の La maison en bonbons 定休日。午後三時ごろ。
栞は仁科崇人を自室に招き入れて、ペットのハリネズミを見せていた。
シナモンという名前のヨツユビハリネズミは、今はケージの中で寝息を立てている。丸まったベージュ色の棘が、ゆっくり上下に揺れていた。
「寝ているとタワシみたいだな」
「この時間は寝ていることが多いんです。いずれ起きてくれますよ」
栞はゲージの前から立ちあがった。
「お茶の準備をしてきますね。崇人さん、珈琲と紅茶、どちらがいいですか」
「……紅茶」
「わかりました。いつも通り、ストレートでいいですか?」
「ああ」
栞は仁科とシナモンを置いて、四畳半の部屋を出た。
部屋の戸を閉める前に、中を覗き、栞はひとりほほえんだ。
栞はキッチンに着いた。ダイニングテーブルには、仁科が持ってきた手土産があった。焼き菓子の詰め合わせと、箱入りのホールケーキ。
栞は食器棚からティーセットとシナモンスティックを取り出すと、お湯を沸かさずに、戸棚やテーブルの上を探った。
パイナップルの缶詰、市販のロールケーキ、ネーブルオレンジが見つかった。
栞は少し考えたあとで、冷蔵庫からカスタードクリームを取り出した。カスタードクリームは昨日作ったもので、ひとさじ舐めてみると、そう味は落ちていなかった。
栞は髪をひとつにまとめ、北欧柄のエプロンをつけた。
ひと通り作り終えたところで、玄関の鍵を開ける音がした。
「ただいま」
「おかえり航」
栞は四つ下の弟を、笑顔で出迎えた。弟の航は制服姿で、リビングに入ってくる。彼は子供のときから平均より背が低く、高校にあがってから、姉の背を越えた。
「姉ちゃん、なに作ってるの」
航はエプロン姿の姉と、漂うシロップの香りを気にした。
「トライフルだよ」
栞は作りあげた菓子を航に見せた。ガラスボウルとミニグラス三つに、スポンジと果物を、層状に重ねている。
底にサイコロ状に切ったロールケーキ、その上に洋酒で香りづけたシロップをかける。それから缶詰のパイナップルと皮を剥いたオレンジを入れる。最後にカスタードクリームで表面を覆い、中央にパイナップルとオレンジを飾れば、イギリスの家庭的なデザート『トライフル』が完成する。
トライフルは固くなったスポンジを食べるために生まれた、ありあわせで作るデザートなので、作り方はこの限りではない。栞は「生クリームがあればもっと綺麗に……」と、完成直後にぼやいた。
「味見してくれる?」
栞はミニグラスに入れたトライフルを、弟に勧めた。
航はテーブルに着くと、トライフルが入ったグラスを近くに寄せた。パフェスプーンを使い、底にあるシロップ漬けのロールケーキをすくう。
「美味しい?」
「ん」
航はそっけなく相槌を打ったが、すぐに二口目、三口目を口に運んだ。
「姉ちゃんが作る菓子では、トライフルが一番好き」
栞は満面の笑みを浮かべた。
「よかった」
栞はガラスボウルのトライフルにラップをかけ、冷蔵庫にしまった。
航はふたり分のティーセットと、ミニグラスのトライフルを見て、食べる手を止めた。
「……今日、仁科さん来るって言ってなかった?」
「もう上にいるよ」
栞は天井を指した。そしてテーブルに置いていたケーキ箱を、航に見せた。
「これホワイトデーのケーキ。四号サイズもらったんだけど、航も食べる?」
「いらねぇよ。幸せのお裾分けなんて」
航はやさぐれながら、トライフルをほおばった。
「そう。仁科さんも食べるから、別にいいのに」
栞は電気ケトルに水を入れてセットすると、慎重な手つきで、ケーキ箱を開けた。苺とチョコレートの薔薇が飾られたケーキが、栞の前に現れる。
栞は嬉しそうに目を細めた。
「どうやって切ろうかなぁ」
「……俺、邪魔だったら、外に遊びに行ってこようか?」
「よけいな気を回さないの。航の分のお茶を淹れるから、ちょっと待っていてよ」
栞はティーバッグと、沸きあがった湯を、ポットに入れた。
「大きいトライフルは夜ご飯のあとに、みんなで食べるからね」
「夕飯、なに作るの」
「お鍋」
「鍋なの? レシピ見ながらなら、姉ちゃんもっと料理できるのに」
栞は航に背を向けたまま、紅茶が蒸されるのを待った。
その間に携帯を操作して、ひと月ほど前に撮影した画像を呼び出した。
「航、これを見て」
栞の携帯には、彩り豊かな三種の前菜と、バジルの葉がかかったパスタが映っていた。
「うまそうだな。どこの店?」
「仁科さん家」
「……嘘」
「レシピ見ないで、作ってくれた」
画像の端には、三種類のハリネズミのチョコレートが映っている。画像は、二月中旬のバレンタインの時期に、撮影したものだった。
「話せば長くなるほど、美味しかったよ」
栞は遠くを見てほほえんだ。
「……手を抜いているわけじゃないの。実家住まいの私が親にあれこれ言われないで、一番美味しく作れるのが、お鍋なの」
肩を落としたまま、食器棚に向かう。
「航が褒めてくれたトライフルも、重ねて入れるだけのお菓子だし……」
苦笑いを浮かべたまま、航のマグカップを取り出す。無地の紺色。
「簡単なものばかり得意なお姉ちゃんで、ごめんね。航」
「いや……業界的にはどうか知らないけれど。簡単でうまいなら、最高だろ」
「ありがとう」
栞は感謝を込めて、弟にミルクティーを淹れた。
航はマグカップを受け取り、すぐに口をつけた。
「けど姉ちゃん。彼氏ほうって、こんなに油を売ってていいのかよ」
航がマグカップを置いた。グラス入りのトライフルは、もう食べ終えている。
「そろそろ行くよ」
栞はトレイにふたり分の紅茶と、カットしたケーキを乗せた。小さなトライフルも。
「トライフルは――シナモンとふたりの時間をプレゼントしたくなって。おまけで作ったの」
部屋を出る前、仁科は寝ているシナモンを、じっと見つめていた。栞はそれを思い出し、頬を緩めた。
「仁科さん、素直じゃないから」
栞は上機嫌で、自室がある二階へとあがっていった。
7. ヘキセンハウス (終)




