頼むから
洋菓子店を出たあと、雅臣はもう一度、若葉に電話した。今度は電話が繋がったので、部屋の前で待っているとだけ伝えた。
午後九時過ぎ。雅臣は若葉の住む賃貸に到着した。そしてスーツポケットに手を入れながら、彼女を待っていた。
午後九時半。低いヒールの音がした。
「……まだ会いたくないって、言ったのに」
気まずそうな表情の若葉が、のぼり階段から現れた。目をそらしながら、雅臣の近くまで歩いてくる。
「家に行く以外、思いつかなかった」
「困る」
「……ごめん」
雅臣は若葉に、合鍵を差し出した。
「これ、返す」
「………。……待ってよ」
若葉は鍵を前に、立ちすくんだ。顔をゆがめると、両手で雅臣の腕を掴んだ。
「雅臣、待って。別れたくない」
「え? ああ、違う。俺も別れたくない」
雅臣の表情は、若葉より明るかった。キーホルダーもついていない鍵を、手で軽く振っている。
若葉は呆然として、雅臣を見つめた。
「……別れたくないの?」
「……無理」
「あ……良かった」
若葉は呆けたまま、床に視線を落とした。間を置いてから、雅臣に視線を戻す。
「……じゃ、鍵、なんで」
「甘えていたし、自分がやばいって気づいたから」
雅臣は若葉の手を取ると、強引に合鍵を握らせた。
「だから鍵はいったん返す。オーケーだったら、またくれ」
「……ちょっと、雅臣」
若葉は雅臣の言葉より、彼の体温に気を取られた。触れた手は、外の空気で冷えていた。
「若葉」
雅臣は若葉のことを、強く呼んだ。
「その……好きだし、結婚してほしい」
「……え?」
若葉はまた、呆けた顔をした。
「結婚して」
二回言われたときに、若葉は顔を赤らめた。
「こないだは俺が悪かった。いくらでも謝るから予定どおり」
「待って、待ってよ」
若葉はとっさに、両手を使って、雅臣の口をふさいだ。
「黙って」
ちゃりんと音を立て、合鍵が床に落ちる。若葉は赤い顔のまま、雅臣を睨みつけた。
「部屋はいろ。ここじゃ恥ずかしい」
雅臣が頷くと、若葉は急いで鍵を開けた。慌ただしく部屋に入っていく。
雅臣はすぐに続かず、コンクリートに落ちた合鍵を見ていた。
「早く来てってば」
若葉はパンプスを脱ぎながら、雅臣を呼んだ。
「……鍵は」
「拾え」
そのまま返さなくていいと、吐き捨てるように言われた。
若葉は部屋に帰ると、雅臣をリビングにとおした。しばらくしてから、ふたり分の珈琲を淹れて戻ってくる。
「これでも飲んで、落ち着いて」
そう言うなり、若葉が珈琲に口をつけた。すぐにマグカップを離す。
「………」
若葉は黙って、砂糖とミルクを珈琲に入れた。
「で、急にどうしたの」
「仁科と話してきた」
「……ああ、後輩の子」
「今日は打ち合わせ日だったんだ。ケーキは大まかに決めてきたけど、若葉の意見も取り入れるから」
「待って」
若葉がとん、と、机を左手の指で鳴らした。
「さっきの話は、もう終わりなの」
指を机に滑らせ、そのままマグカップを握る。
「さっきって」
「どうして急に、結婚してほしい、なんて」
若葉の左手には、雅臣が渡した婚約指輪が光っていた。
「こう、別々で暮らすのももったいない……とか。そういう、流れだったような」
「……もう一回やり直す気でいかなきゃ、駄目だと思って。俺が間違っていたから」
「……ううん」
「この間は……怒鳴ってごめん」
雅臣は熱い珈琲を飲みながら、言葉を探った。
三口飲み、マグカップを置いた。
「仁科と話してわかったんだ。俺……」
「………」
若葉は両手を膝に置いて、言葉を待った。
雅臣が言いよどんだので、冷蔵庫のモーター音が、ふたりの耳に入る。
「……若葉が付き合った人数じゃなくて、若葉が好きになった人数が、もう問題なんだって」
「……え」
「若葉は付き合ったほかにも、俺と同じように、いろんな恋をしたんだろうなって。そう思うだけで」
雅臣は片手で額を押さえた。
「いらいらする」
「雅臣……?」
「危ない考えだとは思うけど、もうどんな男か、全員、聞き出したい」
「あ、うん。落ち着いて。ほんとに危ないひとは、合鍵を返してくれないから」
若葉はそっと、うつむいている雅臣の頭を撫でた。
「あと……雅臣だけ、好きだよ」
「本当だな」
「はい」
「……若葉が、好きなんだ」
雅臣は自分を撫でている、若葉の手を止めた。そのまま両手で握る。
「……結婚式のことで怒ったけど、本当は、あれこれやってくれる若葉が好きだ。俺もなにかしてやりたいって、思えるから」
若葉はどう答えていいかわからず、つい下を向いた。
「……もっといい女、いるよ」
「星の数だけいる。でももっといい女は、俺にまったく惚れないから、願いさげだ」
「うん雅臣。その言葉、そっくりそのまま返すね」
「だから……うまくいかなくても、諦めたくない」
繋いだ手が、温かくなっていく。
「俺だけを見てくれなんて、無茶苦茶だとはわかっている。だけど嫉妬も抑えるから」
雅臣はつい、少し大きな声を出した。
「頼むから完全に愛想がつきるまで、側にいてくれ!」
「わかった。わかったから!」
若葉はまず「手を離して」と言った。そして残りの珈琲を飲むように薦める。
雅臣も若葉も、ただ黙って珈琲を飲んだ。
雅臣はブラック珈琲を飲みながら、若葉の様子をうかがった。若葉は赤い顔で、砂糖とミルク入りの珈琲を飲んでいる。いつになくおとなしい。
やがて雅臣が自分を見ていると気づくと、マグカップを置いた。
「そんなに妬くんなら、今日私がどこに出かけていたか、気にならないの? ……休日に出かけていたのに」
試すような視線。若葉の目元は腫れていた。
「……どこへ」雅臣の声がかすかに震えた。
若葉は雅臣が動揺したとわかり、息を吐いた。
「女友達と会っていただけよ」
若葉は『四人彼氏がいた』と口を滑らせた友人と、レストランにいたらしい。
「あの子とも喧嘩して……あとは、どうやったら雅臣ともとに戻れるか、相談に乗ってもらっていたの。……この歳で散々泣いたってのに。ばかばかしい」
若葉は立ちあがり、冷蔵庫まで歩いた。
「食べた気がしない」と、冷凍庫から三日前のパンケーキを取り出す。
パンケーキをレンジに入れると、雅臣の側に寄った。
「私から雅臣に近寄ったのに、なんでわかってくれないの」
「……なんでだろうな」
「一番長続きしたの、もうとっくに雅臣だよ。……そういうのも聞くのいや?」
「それは、ちょっと嬉しい」
「良かった」
若葉はほほえんだ。
雅臣が照れたと気づくと、その肩に頭を預けた。




