裏口
外は冷えていた。洋菓子店の裏口に回れば、月が輝いているのが見える。中秋の名月はまもなくだとわかる、美しい満月。
「……ここの店長、実はおっかない?」
雅臣は裏口につくと、潜めた声で聞いた。
仁科が頭に被っていた、パティシエ帽を脱いだ。
「わりと」仁科も小声で返す。
「お前大丈夫?」
「心配してくれるなら、あとで最高額のオーダーをください」
帽子でついたくせを直そうと、仁科が髪に手をやる。整えられた髪型が、少し乱れていた。
「津久田先輩、なんで今日もひとりなんですか」
「……誘うの忘れてて」
「本当ですか? いっそ、腹割って話してくださいよ」
「お前、態度が変わりすぎじゃないか」
「十分しかないので」
人どおりは少なかった。道路向こうの街灯が、店の花壇をうっすらと照らしている。
「だいたい、会場と連携が取れていない。オーダーなのにイメージが固まっていない。こちらの要望を聞いてくれない。遅刻。……おまけに店員のプライベートを勝手に晒す。津久田先輩って、迷惑な客なんですよ」
「辛辣すぎるだろ!」
「残り九分なので」
「………」
「時間管理に厳しかったひとなのに、最近の先輩はおかしいです」
雅臣は携帯を取り出した。時刻は午後八時二分……閉店から二分、過ぎている。
本来なら店に残っている全員で、片づけや明日の準備にかかる時間だろう。簡単に想像がつく。
「……実は」
雅臣は若葉との間にあったことを、端的に話した。
「どうして言わなかったんだって。……俺はあいつだけなのに、あいつは俺じゃなくてもいいんだって、まだ思えてきて」
「………」
聞いていたより、若葉が付き合ってきた人数が多い。それがわだかまりになっていた。
「結婚も………俺じゃなくても、て」
「……重症ですね」
「卑屈だとは、わかってんだけどな」
「卑屈っていうか」
仁科は漆喰の壁にもたれていた。手には脱いだ帽子。
「アドバイスになるかわかりませんけれど。ひとつ、気づいたことはあります」
「言ってくれ」
「はい」
雅臣も壁にもたれた。冷えが背中に伝わる。
「津久田先輩」
雅臣と仁科は、別方向の風景を見ていた。
「昔のひとくらい、誰にでもいますよ」
その言葉は、雅臣が夜空を見ているときに聞こえた。
「俺はあいつとしか、付き合ったことがない」
「それが先輩の驕りなんですよ」
「……意味がよく」
「初恋は、今の彼女じゃないでしょう。片思いや失恋の経験は?」
「………。ある」
夜空に目が慣れてきた。今まで見えなかった星々が、視界に飛び込んでくる。
「忘れたり数えなかったりするけれど、誰でも恋を繰り返しています。それを全部、今の相手に聞かせるとか……しなくてもいいでしょう」
雅臣は若葉のことを思い出した。悲しそうな顔。
「俺も同じように前の相手がいて……若葉も、隠したわけじゃないって?」
「そう思います。……大事なことは別です」
雅臣は隣にいる仁科に視線を向けた。彼は店の花壇を見つめている。
「僕は今、新しい彼女がいますが。前のことなんて、お互い細かく話しませんよ」
花壇ではローズマリーが、紫の小花を咲かせていた。
「世良のことは……三年ほど付き合った彼女がいた、とだけ。最近、名前も教えました」
「……いつ、世良さんと別れたんだ?」
「あまり言いたくないんですけれど。専門学校を卒業するころ」
「なんで」
「振られました。寂しいとか、この職業だと将来が不安とかで」
仁科が脱いだ帽子を、宙に放った。
「そんなこと言われる筋合いないだろ」
「ただの悪口ですよ。……僕の場合は」
海外留学中に連絡しなかったのが、良くなかった。そう呟くように続けた。
「先輩が結婚するって聞いて、羨ましかったです。仲直り、頑張ってください」
「……長々と話して、悪かったな」
雅臣は背負っていたボディバッグをおろした。会社の書類やファイルの間に、招待状が見える。
雅臣は招待状を取り出し、仁科に向けた。
「仁科。結婚式、出席してくれないか?」
仁科は封の角が折れている招待状を、驚いた顔で見た。
「……今ですか?」
「若葉と話してくる。万が一駄目だったら、この招待状は捨ててくれ」
「え、キャンセルとかマジで困ります」
「そこかよ。あー……。祝儀いらないから、来てくれよ」
雅臣は招待状が受け取られるのを待った。
「たぶん部のやつら、仁科がどうしているか知りたいから、ケーキを頼むよう薦めてきたんだろうし……。お前も見たいだろ。ここのケーキが振る舞われているところ」
「そりゃ、もちろん。……喜んで出席しますよ」
仁科が片手で招待状を受け取った。カフェエプロンのポケットに仕舞う。
「十一月末なら店長がいれば、店は回るので」
帽子を被りながら、いたずら半分の笑顔を見せた。




