アップサイドダウン
十月の最終週は、秋晴れとなった。未菜のマンションの最寄り駅では、ハロウィンイベントが開催されている。
仮装したひとたちがパレードの受付に並んでいる。小さな子供は、ジャック・オーランタンの仮面をつけた大人から、キャンディをもらっていた。
未菜は黒い猫耳のカチューシャをつけて、模擬店に並んでいた。模擬店は付近の大学が出しているもので、かぼちゃのマフィンやさまざまなクッキーが、袋詰めにして並べられている。
「わ、お買い得」
未菜はクッキー八枚入りの袋詰めを取ると、値札を見て、ぱっと顔を輝かせた。
「そう。お買い得なんですよ」
売り場の大学生は満足そうに頷いた。
「私たちパティシエの卵だから、安くご提供しているんです」
チェック柄のエプロンをつけた女子大生は、朗らかに笑った。
未菜は袋詰めのガーリッククッキーを買うと、友達と待ち合わせしている広場に向かった。まだ誰も来ていない。
きょろきょろと辺りを見ていると、隆之介と蓮司の姿が目に入った。小声で言い合っている。未菜はふたりに、のんびりと近づいた。
「おはよう。隆之介くん、蓮司くん」
「おう、おはよう」
隆之介は、はつらつとしていた。
「おはよう」
蓮司はげんなりとしている。
「未菜ちゃん隆之介どうにかして」
「いやだってさ!」
隆之介がパレードの受付の行列に、視線を投げた。
「いまだに蓮司があいつを好きだったってのが、信じられない。接点なかったし」
「声が大きい」
蓮司は慌てたが、視線の先は仮装した人々だらけだった。誰を示しているかわからない。
「あいつ、俺がLCVTを読めなかったの、からかったしさ。腹立つ」
「また言えてない。GとBをよけるな」
ふたりの言い合いはほとんど、賑わいにかき消されていた。
「……蓮司くんは真剣だったんだから、そんなふうに言ったら失礼だよ」
未菜は保育園の先生のような気持ちで、隆之介をなだめた。
「真剣ってもさ」隆之介が吹き出した。
「惚れたきっかけが『好きなアイドルに似ているから』とか、全然わかんねえ」
隆之介はひとりで大笑いをした。
「正直ひくわ」
「隆之介くん! ……もう。蓮司くん、気にしないでいいよ」
未菜は言葉を探した。気の利いたものは見つからず、本音がこぼれた。
「でも顔以外も、見たほうがいいかな」
蓮司は「ほっといて」と、肩を落とした。
「まったく。隆之介がやたら怒るから、好きな相手も、ばれていると思っていた」
「気づくわけないだろ。あれは蓮司の暗い顔を見て、かっとなっただけだ」
「まぁいいけど」
隆之介と蓮司が笑っているのを見て、未菜も笑顔になった。
「久しぶりに三人で、ハロウィンに来たみたい」
買ったばかりのクッキー袋を、側のふたりに差し出した。
未菜は友達を待ちながら、広場のベンチでガーリッククッキーを食べた。スパイスが効いたクッキーを喜んだのは隆之介で、すぐにおかわりを欲しがった。
そして最後の一枚を取るときに、何気なしに聞いてきた。
「そういや、井口は好きなやついるの」
未菜は「いないよ」と答えた。
「初恋もまだだし」
「未菜ちゃん……それ本気で言ってる?」
蓮司は二枚目のクッキーを、手にもったままだ。
未菜はうんと頷き、周囲を見渡した。
友達の姿はまだない。かわりに、チェック柄のエプロンを見つけた。さきほどクッキーを売っていた女子大生。
彼女は持ち場を離れて、若い男性と話していた。その嬉しそうな表情を見れば、恋人と一緒なんだとわかる。
「憧れてはいるんだけどね。けど同じ年の子って、子供っぽいし」
「子供っぽいって」隆之介が呆れ顔になった。
未菜は目をつぶって、理想の相手を思い浮かべた。
「……もっと落ちついた、大人のひとがいいな」
お父さんみたいな、と未菜は笑った。
蓮司は未菜から隆之介へと、視線を移した。
「隆之介の初恋は、小四だよな。いとこのお姉さんだっけ」
「ばらすなよ」
「俺だけ笑い者とか不公平だ。ばらす」
「ああ。どうせ年上のお姉さんが好きだよ」
未菜は大きく目を見開いた。
「隆之介くん、そうだったの?」
「もうなんとも思ってない。終わり」
隆之介は頭をかいた。
「だから『お父さんみたいなひとがいい』とか。何歳? て感じ」
隆之介は笑うと、未菜との距離を縮めた。両手で未菜の猫耳に触れる。蓮司はおもむろに眼鏡をはずして、手入れをはじめた。
「そりゃ、こんな猫耳が似合うわけだ」
「……こ、これは友達が無理矢理」
「じゃあはずせばいいだろ」
「簡単に言うなよ」
蓮司は眼鏡のレンズを拭きながら、隆之介を止めた。隆之介は「はいはい」と、猫耳から手を離した。
「けどよ。お姉さんぶるわりには子供っぽい。昔から、とろいんだよな」
未菜は猫耳を直しながら、隆之介を見あげた。公園にいたときよりずっと親しげに接してくる。鼓動が高鳴る。
「ほんと、未菜ちゃんはしょうがないなぁ」
「………」
未菜はとっさに、深くうつむいた。隆之介はもちろんのこと、眼鏡をはずして素知らぬふりをしている蓮司とも、顔が合わせられなくなった。みんな子供だと思っていたのに。
下にあると思っていたものが上に来る、意外性。
くるっとひっくり返すと、煮詰められたリンゴが出てくるような――。
「いやもう、これ『未菜ちゃん』でいいだろ。なぁ蓮司?」
未菜の肩は、隆之介にぽんぽんと叩かれた。
「叩かない叩かない。……ほら井口さん。友達来てるよ」
蓮司は眼鏡をかけ直して、未菜の友人たちがいる方向を指した。彼女たちは模擬店を見てはしゃいでいる。
「あ、うん。またね」
未菜は真っ赤な顔を隠したまま、ふたりに手を振った。
視界の端で、隆之介が大きく、手を振っているのが見えた。
5. さかさまハロウィン(終)




