薄紅色のシロップ
栞が安藤の態度に動揺していると、店の自動ドアが開いた。
栞は客を出迎えるべく、ぱっと振り返り、そして言葉を失った。
「お疲れ様です」
「うん、お疲れ」
この店の若手のパティシエである仁科が、自動ドアをくぐって、店に入ってきた。無愛想な表情で。
彼は講習帰りのためか、今日はネイビーのスーツを着ている。落ち着いた茶に染めた髪と、スーツのストライプ柄が、硬い印象をやわらげている。
栞は思わず、仁科から顔を背けた。……化粧に気を抜いたので、恋人に顔を見られたくなかった。
「急に呼び出して悪いね」
安藤が栞より前に出て、仁科を迎えた。
「オーダーが来たんだけど、ちょっと仁科くんに、話を聞きたくて」
「全然いいですよ。店に寄るつもりでしたし……。けど、ひと休みしてからでいいですか?」
仁科が額の汗をぬぐい、首元のネクタイを緩めた。
「外が暑すぎて、倒れそうです」
「そんなスーツで行くからだよ」
安藤は黙って、栞の手から、ガラス瓶を取りあげた。そしてピンク色のジンジャーシロップを、仁科に向ける。
「今日は特別に、ジンジャーシロップを持ってきたんだ。……自家製の『ジンジャーエール』を作るから、休憩室で待っていてよ」
栞は、あ、と口を開けた。
薄切りのレモンと、爽やかな香りのスペアミント。冷凍庫以外にも、ヒントは散りばめられていた。
「マジですか。いただきます」
仁科はくだけた態度を見せると、黙り込んでいる栞に、目をやった。
「に、仁科さん。お疲れ様です」
栞はぺこりと頭をさげた。顔をあげると、仁科が側まで来ていた。
「な、なにか」
仁科は栞の顔を、まじまじと見つめ、安藤に言った。
「店長。東山、少し疲れてないですか?」
「そうかもね」
安藤も栞の顔を、じっと見た。
「東山さんにも、休んでもらうことにするよ。仁科くんは先に休憩室へ行ってて」
「わかりました」
仁科は栞に「無理するなよ」と言って、休憩室に向かった。
栞はまた、安藤とふたりきりになった。
「仁科くん、いいよね。きみが夢中になるのもわかるよ」
安藤は冷凍庫から、氷と、冷えたグラスをふたつ、取り出した。続いて冷蔵庫から、炭酸水を出す。
グラスに透明感がある氷を入れると、新生姜から作られたジンジャーシロップを、手際よく注いだ。
「今だってすぐ、東山さんを心配してさ――今日の東山さん、アイカラーはグラデじゃないし。まつ毛だって巻いただけなのに、そのへん気づいてなさそう。……あいつ顔色しか見てないんじゃない?」
シロップと氷の上に、炭酸水を注ぐ。炭酸が弾ける音がして、薄紅色のジンジャーエールができあがった。グラスのふちには輪切りのレモンが飾られて、光る氷の上には、スペアミントが添えられる。
「今日は仁科くんがシフトにいるときより、簡単なメイクだよね」
「……私のメイクの違い、店長は、ご存知だったんですね……」
栞は銀のトレイを構えて、安藤の側に行った。顔色は良くない。
「そりゃ気づくよ。あのさ、店を出たら、もう好きにしていいから」
安藤は作りたてのジンジャーエールをふたつ、銀のトレイに置いた。
「勤務時間中は、あまり華美でないメイクをお願いします」
「………」
「これ以上メイクが派手になる前に、言っとくね。……飲食店の接客業だから、ケーキより目立たないように」
今日のほうが理想に近いかな。安藤はそう、栞に指導した。
「身だしなみとお洒落の違い、わかるよね」
「はい」
ヘアカラーは自由、アクセサリーは禁止、長い髪はまとめる……等々が書かれた規則の中に、メイクについての注意事項も記載されていた。
「注意点はそれだけ。じゃ、今後ともよろしく」
「よろしくお願いします」
栞は複雑な気持ちで、安藤に頭をさげた。さげる前に、安藤の髪色を見た。
アッシュブロンドに染めた髪は、帽子を被る職場では、それほど目立たない。
◇◇◇
栞はジンジャーエールが乗ったトレイを片手に、休憩室の扉を開けた。
休憩室には、ワイシャツ姿でくつろぐ仁科がいた。椅子にはスーツの上着がかけられている。
「東山、大丈夫か?」
仁科が栞にたずねた。表情には気づかいがうかがえる。
「元気です」
栞はなんの表情も浮かべずに、ジンジャーエールをふたつ、休憩室の机に置いた。
そして仁科の隣の椅子を引くと、すぐ、机に突っ伏した。
「どこが元気だ」
仁科は呆れた声で言うと、ジンジャーエールに口をつけた。
栞はうなだれたまま、心情をこぼした。
「体は元気です。心もすぐ元気になります」
「そうか。良かった」
「仁科さん。甘いものください」
「ジンジャーエールでいいか?」
「甘い言葉が欲しいです」
「品切れだ」
仁科は栞の頭に、肘と腕を置いた。そしてまた、ジンジャーエールを飲んだ。
「……私、店長のこと、尊敬の意味で好きなんですけれど」
栞は頭に仁科の腕を乗せたまま、ぼやいた。
「うん」
「たまにねちっこくて、怖いです」
「あー」
「なんであのひと、ああなんですか?」
「……さあ。まあ精細さの、裏返しなんじゃないか」
仁科は曖昧に答えた。
「店長はこの店……『お菓子の家』を作ったひとだしな。怖いのは、しかたないだろ」
店名の『La maison en bonbons』は、日本語訳すれば『お菓子の家』になる。
「店長は『ヘンゼルとグレーテル』の、魔女ってわけですか」
栞は暗い森と、そこにそびえるお菓子の家を、思い浮かべた。
「なら私はグレーテルですか? こき使われる女の子」
「落ち着け」
仁科は栞をなだめると、栞にもジンジャーエールを飲むようにすすめた。
栞は顔をあげて、薄紅色の炭酸水を見つめた。爽やかな音を立てている。グラスに触れると、心地よい冷たさが伝わる。
ひと口飲んでみると、新生姜の辛味と、それを包む甘味が、口中に広がった。
炭酸の刺激が喉を通る。暑さで疲れた体には、ぴったりの飲み物に思えた。
「美味しいよな」
「最高です」
栞は頷き、新生姜のジンジャーエールを味わった。ささやかな辛味だった。
「……安藤さんな。たまにこうやって、手作りの差し入れをくれるんだよ。社員にだけ」
「え?」
「俺、去年もジンジャーエールもらった。……短期バイトや見込みが薄い社員には、プライベートの時間を割いて作ったものは、やりたくないんだってさ」
仁科はジンジャーエールを、飲み干そうとしていた。
「去年の最初にもらったジンジャーエールは、もう少し甘くなかったよ。スタンダードな味っていうか、俺好みだった」
「………」
「去年『とにかく僕が飲みたいやつ』って作ってきたのは……生姜のすりおろしや鷹の爪が効いた、かなり辛口のジンジャーエールだったな……」
「あ、お酒に合いそうな感じですか?」
「そういうのだ」
栞はさっきのテストの、回答を思い出してみた。
薄紅色のジンジャーシロップの材料は――新生姜にグラニュー糖。蜂蜜にレモン汁。シナモン。バニラビーンズ。クローブ。黒胡椒。アニス。
鷹の爪は、答えになかった。
「今日のジンジャーエールは、お前にあてて作ってあるだろ」
「……ですね」
「気に入られてるんだから、頑張れ」
栞は新生姜で作られた、薄紅色のジンジャーエールを、ゆっくりと飲んだ。
グラスを空にすると、顔をあげて立ちあがった。
「よし。店長を呼んできます。……接客や焼き菓子の袋詰めなら、私ひとりで十分ですから。仁科さんは店長と、じっくり話してください」
「わかった」
仁科は笑って、氷だけになったグラスを、銀のトレイに戻した。
栞は安藤と入れ替わるように、ショーケースの前に立った。一番の定位置だ。
自分はここで頑張って、調理場での立ち位置も増やす。そんな姿を、恋人にも見てもらう。
そしてここに並ぶケーキみたいな――喜ばれるケーキを提供できる職人になるんだ。
栞はさまざまな想いを胸に、背筋を伸ばした。
口にはまだ、爽快な刺激が残っていた。
4. 閑散期のシロップ(終)




