掌の花
ここで死んだっていい。
精一杯、この刀で斬り進んで、大事なひとを守ることができた。
この夜の為に、僕は生まれたんだ。
姉さんと離れ、先生に出会い、剣を手にした。
理由はよくわからなかったけれど、居候初日から先生のお義母さんに嫌われていたし、他人ばかりに囲まれた内弟子生活では、いつも周りの目を気にしていた。
もう、捨てられたくない。
みんなに好かれる、いつでも笑っている僕でいたかった。
みんなに必要とされる僕になりたかった。
僕には剣しかなかった。
強くなって、役に立ちたかった。
この剣で先生の背中を守ることができたから、このまま血に塗れて、今死んだって構わ
ない。
……なんて、大嘘だ。
もっと生きたい。
生きてこの先の、新選組と共にありたい。
いや、新選組には僕が、僕の剣が必要だ。
潔く死んでたまるか。
僕は新選組一番隊隊長・沖田総司だ。
先生が与えてくれた役目を全うする為なら、武士らしさなんか、いらない。
不意に姿を現した新選組に驚き、右往左往しながら逃げ惑う浪士達はまず灯を消した。
怒号と足音、刀と刀が火花を散らしてぶつかり合う音が響く、倒幕派浪士の常宿・池田屋。
騒動から明け、朝日に照らされた室内は、そこら中に耳や指が飛び散っていたという。
ほとんど見えない筈の、初めて喀いた血。
確かに沖田の目には、真っ赤な鮮血に見えた。
ここ最近、ずっと厭な咳が続いていた。
当時、子どもでも知っている大病ではないかと、予感していたものが間違いではなかったと、知らしめるかのような赤い、赤い血だ。
斬傷からの黒い血とは違う、禍々しい程のそれをぐいと拳で拭う。
身体が、鉛のように重い。
息だけが荒くなるばかりで、身体が動かせない。
なんで……誰も斬りに来ないんだ?
僕は、屍に見えているのか?
長い溜息を吐き、豊かな黒髪を煩さげに掻き上げるのは、大仕事を終え、いや、彼の思い描く大仕事はまだ、始まってすらいないのだが、とにかく一段落といったところで土蔵から出てきた新選組副長・土方歳三だ。
「歳三さぁん、お疲れさまです」
今は最も関わりたくない相手に見つかってしまった、というより待ち伏せしていたのであろうが、状況とは掛け離れた現実味のない明るい一声に眉間の皺をより深くする。
「その呼び方はやめろっつってんだろうが、クソガキ」
幼少時からの夢である武士を志して上洛する前、道を共にする仲間はもちろん、バラガキ時代の喧嘩仲間にまで、苗字で呼ぶように改めさせた。公然と無視を決め込むのは、全く悪気なく癖が抜けないだけの新選組局長近藤勇と、この男だけだ。
「その言葉、ソックリお返ししますぅ。あ、七つも年嵩の先輩にそれはないですね。失礼しました、クソジジイ」
子ども染みた笑顔と裏腹の口の悪さに流石の鬼副長も閉口するが、これが遺憾無く発揮されるのも、非常時にこんな遣り取りができるのも、互いにこの相手だけである。
「今日で末期の別れかもしれねぇってのに随分じゃねぇか」
「あれっ、やだなぁ、斬られちゃう気ですか歳三さん。土方喧嘩流が泣きますよ」
ここは天然理心流と言ってほしいところだが、独創的過ぎる土方の剣を自他共に揶揄した通称である。
「俺ぁお前の心配してんだ。……変な咳しやがって」
元来勘が良すぎる上に、いつでも最悪の事態を想定して動く土方は、労咳を疑っていた。無理もない。幼い頃に労咳で母を亡くした彼は、今でもその病を憎んでいる。
「大丈夫ですって。僕とまともに遣り合うなら大砲でも用意しろってんですよ」
「あのなぁ、俺は本気で」
心配しているのだと、続けるのをいつになく真剣な眼差しが遮る。
「絶対、僕も行きますから」
この男、沖田総司にとって、唯一にして最大の生きがいは剣である。というより、心酔といっても過言ではない程に大恩を感じ、師と崇める近藤勇の征く道を剣によって補佐することが、自らの存在意義であると思い込んでいる。
強烈な意志と、自信を以て。
この大舞台、何があろうと、局長・近藤勇の傍らに立つのは自分でなければならない。
「……たりめぇだ。置いてくわけねぇだろう」
そんな気持ちを知っての優しさ……も、あるだろうが、実際はいくら心配とはいえ彼の腕を頼らざるを得ない状況なのだ。今後こんな局面が幾度とあり、己の判断を激しく後悔することになるのはまだ先の話だ。
先程、蔵に捕らえている男が吐き出したのは、流石の土方でも予想していなかった大計画だった。
涼しげな表情で
「やはりな」
などと格好付けていられる範疇を超えている。痴話喧嘩で油を売っている場合ではないのである。
たった今まで蔵の中で凄惨極まる拷問を受けていた男、炭薪商枡屋湯浅喜右衛門を装った倒幕派浪士である古高俊太郎が明かした計画は、日本中を総転換する程のものであった。
祇園祭前の強風の日を狙い、御所に火を放つ。当然、京市中まで火の海だ。その混乱に乗じ、攘夷派そして親幕派筆頭である今上帝・孝明帝を拐かし、長州まで御動座いただく。同じく親幕派の中川宮朝彦親王を幽閉し、会津藩主……言わずと知れた幕府の守り刀、京都守護職であり、新選組を預かる松平容保公の暗殺、そして追加されたのは新選組屯所の襲撃、古高俊太郎の救出である。
と、いう有名な大計画は、歴史上に後付けされた定説だ。 実際の目的は不明。何故ならこれだけ質も量も盛り沢山の内容ながら、「倒幕派側には」計画を裏付けする史料が一切無いのだ。
世にいう「池田屋事変」が起きた以上、倒幕派浪士が集会していたのは間違いないが、「本当は何をしていたのか、何をしようとしていたのか」は今のところわかっていない。
つまり幕府の、そして新選組、というより近藤、いや土方の思惑も「本当のところは」は不明である。
それは現在でも、当時の沖田にとっても同じことだ。しかし沖田の不思議なところは、それを何とも思わないところだ。彼にとっては新選組が、というよりも近藤勇が何をするか、何をしたいかさえ重要ではなく、ただ只管に信じる恩人を、その剣となり盾となり助けることが全てである。それが彼の、無意識に身体中に焼き付いた信念だった。
「置いてくわけない……僕、信じてますからね」
沖田総司は、必要とされなくなるのが、死よりも恐ろしい。
元治元年六月五日、三条木屋町にある旅籠池田屋の眼前には、近藤勇、永倉新八、藤堂平助、そして沖田総司がいた。
「なんかここ、怪しくない?」
せっかちの藤堂が沖田を小突く。同じ気配を感じているのであろう、冗談ばかり言うのが常の沖田は押し黙ったまま近藤の背中を見つめていた。
この場面に辿り着くまでは平坦な道程ではなかった。
浪士潜伏先を予め突き止めた探索方山崎烝が池田屋の鍵を開け、浪士らの刀を隠して隊の到着を待ったとの説よりも、出動可能隊士を分隊し、各旅籠を虱潰しに「御用改め」しまくった説が今では一般的だ。
怪しまれないよう少人数ずつ一旦祇園会所に集合し、出発してから二時間余り、彼らは走り回っている。何時間稽古しても顔色ひとつ変えない沖田は、僅かに息を切らしていた。
怪我や病で出動できる隊士が半分程であった上に、さらに近藤隊、土方隊、そして井上源三郎が率いる隊の三つに分隊したので、沖田の属する近藤隊は少数精鋭となった。この四人以外に僅か数名で構成され、裏口などの脱出経路を固めている。土方隊が向かう四国屋方面が有力視されていた為、比較的大人数だった。
会津藩や桑名藩に報告、応援要請はしていたが現れる気配は一向にない。
幸か不幸か、そして計算通りか、新選組の独壇場である。
「土方を待つほうがいいんじゃねぇか」
四国屋方面に何も無ければ合流することになっていた。
永倉の提案は当然だ。何十人潜んでいるかもわからない状況である。
近藤勇を突き動かしたのは、功名心か出世欲か。いや、違う。彼の心にあるのはただ幕府を、天領に育った彼の幼少時からの主君、将軍を護るとの一意のみである。
「……俺を信じて、ついて来てくれるか」
「はい、先生!」
食い気味に返すのは沖田。無論地の果てまで、と答えたい勢いだ。ちなみに、彼が「先生」と呼ぶのは生涯、近藤勇だけである。
「ありがとう。俺も皆を信じている」
飾り気のない、心からの言葉で破顔する。そう、この局面でも彼はいつも通り笑窪を凹ませて笑うのだ。即答したのは沖田だけだ。見合わせて、ぎょっとした表情を隠せないままでいた永倉、藤堂も結局は近藤に惚れている。
「よっしゃ、一丁やってやるか大将」
神道無念流免許皆伝でも飽き足らず、江戸各地を剣術修行した末、近藤の試衛館に行き着いた根っからの剣豪・永倉はこうと決めたら最早血湧き肉躍るといった面持ちで、ぐいと前に出る。
「んじゃ俺、先頭いっきまーす」
遮るように藤堂は高々と挙手する。普段から四人一組で巡察を行う新選組には土方が決めた「死番」という制度がある。建物内に入る時など狭い間口に入る際に先頭を切る役割だ。その先に刀を携えて待ち構える者があるかもしれない、非常に危険な役割、文字通り「死ぬ番」を順に受け持っていたのだが、藤堂に限っては常であった。
「ヨッ! 魁先生」
当然それを知る永倉は憤りも悪びれもせずに先を譲る。沖田は近藤の傍らにピタリと従っている。彼の第一義は近藤勇の無事である。
四人の姿を白々と映す月明かりが中天へと向かう、時刻は既に亥の刻、二十二時頃となっていた。
寝ちゃ、ダメだ……。
もし斬られても、命さえあれば這ってでも戦おう、そう考えてた。
でも、自分が喀いた血に塗れて、一歩も動けないなんて……僕が病で死ぬなんて、考えてなかったな。
寝たら、このまま起きられないかも……けど、眠くてしょうがない。
「……せん、せ……」
先生の、甲高い気合が、聞こえてくる。うん、先生はご無事だ……僕がお護りするなんて、ずっと決めてるけど、そうだよね……先生は誰よりも強いから。
大樹公の為に働きたい、お役に立ちたい……先生の夢についていくって、当たり前に思ってた。
どうして、今なんだ……。まだ、早すぎる。きっとこれからもっともっと、僕が必要としてもらえる機会があるのに。
今じゃない。
僕が死ぬのは、僕の剣が、先生にとって必要じゃなくなってから。
沖田がいない。
その事実に気が付いてからの土方の剣幕は凄まじかった。
池田屋での戦闘が始まり、沖田が倒れ、藤堂は額を割られ、永倉も左手親指に重症を負った頃、土方隊と井上隊が到着した。
「待たせた勝っちゃん!」
普段あれだけ呼び名に拘る癖に、つい二人きりの時の渾名が飛び出す程に慌てて駆けつけたのだ。
「おおう、来たかトシ」
近藤ひとり、そして「虎徹ゆえ無事」の愛刀のみほぼ無傷で奮闘していた。
やはり近藤は満面の笑顔である。
それまで討ち取りの方針、方針も何もとにかく斬るしかなかったが、大隊の到着により新選組の仕事は捕縛と追跡、それを始めてから暫く経ち、漸く到着した会津藩桑名藩に、明け透け言えば手柄を横取りされないよう池田屋に入れないことに切り替わった。
藤堂が運び出され、永倉は手当てを受ける。しかし沖田の姿がない。
「遅いじゃないですかぁ。やっぱりこっちがアタリでしたねぇ」
などと、真っ先に軽口を叩く筈の男が一向に出て来ない。
まさかと思い、身体中から血の気が引くのを感じた。仁王の如くの形相で全体を指揮していた彼は、同時にもう池田屋の中に駆け込んでいく。「鬼足」と呼ばれる速さである。
「総司!」
瞬く間に一階を捜し終え、階段を踏み鳴らす。奥の座敷にやっと、その姿を見つけた。
生きた心地がしなかった。うつ伏せに倒れていたのを抱き起こし、息をする胸を確認するまで。
しかしその呼吸は、隙間風の音がする。
「……としぞ……土方さん……ふふ、男前ですねぇ」
男前が台無しの、激しい怒りと悲しみ、言い切れない感情をぶつけないよう必死の顔で見下ろす。
「血を、喀いたのか」
新選組の代名詞・浅葱のダンダラ羽織がほぼ着られなくなり、あらゆる面で実用性重視の黒衣黒袴となってからも、 あまりの速さのせいか、滅多に汚さない沖田の隊服が血だらけだ。
「まっさかぁ。情けないですけど、きっと暑気あたりです。ぜーんぶ返り血ですよ。ちょっと強いヤツがいたんで」
「……吉田稔麿か。聞いたぜ、近藤さんを助けたんだってな」
翌朝まで市中掃討を続けた結果、池田屋事変は九人討ち取り、三十人程の捕縛、新選組の凱旋で幕を閉じる。そして後の禁門の変の引金となったのは明らかで、結局京は火に包まれることになる。しかし新選組の名が世に知れ渡ったのもまた明らかである。それは称賛と恐怖、憎悪を以て、幕府の終焉までもその矢面に立ち続ける。
「さて坊や、まだまだ働いてもらうぜ」
「わあ! ちょ、降ろしてください!」
あなたはいいな。
どうせ僕が言わなくても、ずっと先生の傍を離れないのでしょう?
いつも頼りにされてるし、いつも自信満々だし。
「置いてくわけねぇっつったろ」
僕だって僕なりに、先生の傍にいます。
これからも、僕は誰よりも人を斬る。
だから、お願いします。
僕を、置いていかないで。
了