九十三話 『大戦ノ始まり』 一五六十年・吉乃
その報は、稲妻のように尾張中を駆け巡った。
春が終わり、ようやく緑が息吹き始めたころ。
夏が来る前に嵐が通り過ぎるように、真っ黒な雲が尾張を覆っていく。
そんな、不吉な知らせ。
ただ違うのは雨雲のように西からやってくるものではなく、
その暗雲は東からやってきたということ。
今川義元が、とうとう兵を挙げた。
私も、殿様も、尾張中が恐れていた戦乱が、ついに始まった。
この時期に兵を挙げたということが、本当に憎たらしい。
雨が降る前に田植えを終えなきゃいけない百姓たちは、今が一年の中で一番忙しいはずだ。
とてもじゃないけど、今川への戦支度に尽くすような余力は誰も持っていない。この田植えが後々織田家に納める年貢の量に繋がるのだから、殿様だって無理を言って民百姓を動かすことは難しい。
明らかに、今川義元は狙ってこの時期に侵攻を始めたんだ。
織田を、尾張を、一息で潰すために。
「さすがは、海道一の弓取りと言うべきか・・・」
戦の前の計略といい、能面の女を使った策謀といい、本当化け物みたいな智謀をしている・・・
私には、小六たち川並衆を通じて今川の行軍の様子が知らされていた。
川並衆は織田今川どちらにも属さない木曽川の流れを縄張りとする野武士たちだ。三河の野盗野武士たちとも伝手を持っていて、そこから確かな知らせを教えてくれる。
私はこまめに織田の城へ使番を出して、小六たちからの一報をすぐに殿様へと知らせていた。
出来得る限り、今川勢のことを知るために。
今川の大軍勢は、もう数日前に駿府を発ち、尾張と三河の国境まで兵を進めているらしい。
明日にでも、尾張東部への侵略が始まる。
その兵の数は、五万と聞いた。
五万なんて数、きっと尾張を恐怖に陥れるために今川が流した虚報だとは思うけど、それでも三万ぐらいの兵数にはなっているって話だ。
三河の街道には今川の軍兵が黒い波のように満ち満ちていて、それが何里も何里も続いているらしい。
五万でも三万でも変わらない。
そんな大軍勢に飲み込まれたら、尾張はひとたまりもない。
殿様は、まさしく窮地に立たされている。
なら、
私は・・・
「お嬢っ、一大事だぞ」
今川の侵略を目前とした朝のこと。
将右衛門が、慌てて私に駆け寄ってくる。
「今川の尖兵が、いよいよ国境を越えてきたらしいっ!! 尾張東部の織田の砦を襲ってるっつう話だっ!!」
とうとう、来た・・・っ!!
今川軍の様子を伺うために手下たちを間者として様子を見に行かせていた将右衛門が、朝一番にその報を私に知らせてくれた。
私は小六や生駒屋の手代たち、そして傍らにはお類を側に置いて将右衛門の報告にじっと耳を傾けていた。
今川勢は先発として軍勢の一部を二手に分け、尾張侵攻を開始。
織田方が今川侵攻に備えて急遽整えた「丸根砦」「鷲津砦」の二つの砦に、攻勢を仕掛けたのが明朝のことらしい。
「戦の情勢はどうなっているの?」
「わからねぇ・・・だが、窮地であることは確かだろ。いくら今川の尖兵っつったって、二千から三千はいるような軍勢だって話だぞ。丸根も鷲津も粗末な砦だ・・・昼まで保つかどうか・・・」
丸根砦も鷲津砦も、今川の侵攻に慌てて拵えた急ごしらえの砦だって話だ。きっと、籠城して敵を迎え撃つような準備は整っていないと思う。
丸根は佐久間殿という譜代の武将が守備を任されているらしいけれど・・・
果たして、今川の大軍勢を阻みきれるかどうか・・・
「俺らの戦っつったら野武士どもの縄張り争いがほとんどだしな、正直武家の戦っつうのはようわかんねえけどよ・・・まずい流れだな。敵さん、小細工なしに尾張を盗りに来てやがる」
「やっぱりそうなの、小六・・・?」
私はもっと武家の戦に関して無頓着だから全くわからないのだけれど、言葉にし難い嫌な予感はずっと感じていた。
「俺が今川義元なら、日が昇りきらないうちに全ての軍勢を二つの砦に向けて動かすだろうな。その時すでに先兵が砦を落としていればそれでよし、そこに腰を下ろして織田を攻める足がかりにするだろうな」
きちんと砦に拠点を置いて戦の準備を整えた今川の大軍勢に、元から小勢の殿様は一切の手出しが出来なくなる。
そうなれば、すでに勝敗は決してしまう。織田は、尾張は、抗うこともできずただ今川の大軍勢に蹂躙される。
丸根と鷲津。
この二つの砦を守り抜けるかが、殿様にとって戦の要だ。
でも・・・
「かといって、殿様は兵を出すことは出来ないのでしょう・・・?」
砦を救うために殿様自身が織田の城から兵を出せば、それこそ今川義元の思うつぼだ。
今川は全軍を以って殿様に戦いを仕掛ける。幾万の兵がこぞって殿様を襲って・・・そんなの、敵いっこない。
殿様はそこで討ち取られ、織田家は滅びてしまう。そんな戦、殿様から仕掛けられるはずもない。
兵を出さなければ、負ける。
兵を出せば、敗れてしまう。
どちらに転んでも敗北が決まった、戦・・・
殿様は、そんな八方塞がりな状況に追い込まれている。
「これが、海道一の弓取りの戦・・・」
槍を合わせる前から、すでに勝ち負けが決まっている。
そう、仕組まれた戦を強いられている。
全て、今川義元によって仕組まれた計略の上で私たちは転がされているんだ・・・
「・・・気に食わない」
私は唇を噛みながら、ふとそんな言葉を呟いていた。
「みな、私の下に集まりなさい」
店で働く者全員を、私は生駒屋の表に呼び集める。
手代に、馬番、川並衆の野武士たちまで、一人残らずみなを。
今川が攻めてきたと津島中に知らせが伝わって、誰もが不安そうな顔をしている中、私は、みなを前に高らかと話を始めた。
まるで、出陣前の武家の大将のように。
「もうみなも知っているとは思うけれど、明朝今川の大軍勢がこの尾張に攻めてきました。今は東側の丸根と鷲津の砦に攻めかかっているらしいけど、砦はきっと成す術もなく落ちてしまうでしょう」
砦が落ちれば、次は織田の城・・・そして、この津島の町だ。
まもなく、今川の大軍勢がここまで雪崩れ込んでくる。
「今朝から町の様子を見て回ったけれど、津島は閑散として人通りもほとんどないような有様でした。町から逃げ出した商人もいるようですし、そうでなくてもお得意さんはみな店の戸を閉めていて・・・とてもじゃないけど、しばらくは商いどころじゃないでしょうね」
津島の商いの流れは、すっかり滞ってしまっている。
この戦が終わるまで、私たちは商いひとつ出来やしない。
将来がどうなるかもわからない不安を抱え、これまでの時と全身全霊をかけたきた私達の『商い』が、止まってしまう。
『商人の国』としての尾張は、死んでしまう。
津島の商人たちが身を粉にして努力と信用を積み重ね、ここまで大きくした尾張の商いが・・・
そんなの・・・
「私は、腹立たしい」
みなの前で、私ははっきりと言った。
「みなも、そう思うでしょう? お侍の諍いのせいで、何故私たち商人がこんなに振り回されなければならないの・・・商いひとつまともに行えないようになっているこの現状は、あまりに理不尽だと私は思う」
殿様の愛妾である私がそんなことを口にするのは、おかしいのかもしれない。
でも、もうさすがに我慢の限界だ。
私たち商人は、ただ日々の商いに真摯に向き合いたいだけなのに。
武家の争いに巻き込まれ、翻弄されて・・・こんなに、思い悩まされるなんて筋が違う。
だから、
「この戦をさっさと終わらせて、元の平穏な尾張に戻す」
商人が何にも振り回されず、商いに精を出すことが出来る国に。
「私たちの、手で」
この国は、織田のものでも今川のものでもない。
私を、私たちを怒らせたらどうなるか、見せつけてやる。
「だから、みなの力を貸してほしい」
「「おう!!」」
私が高らかに声を上げると、生駒屋のみなも川並衆たちも頼りがいのある力強い返事をくれる。
「・・・ん、あれ?」
「どうした、お嬢?」
私が拍子抜けに首を傾げるから、将右衛門は不思議そうに私に尋ねる。
「いや・・・私が言うのはおかしいけれど、突拍子もないことを言ったからもっと止められるものだと・・・」
「お嬢が突拍子もないこと言うのは毎度のことだろ、もうみな慣れてんだよ」
「だろ?」と将右衛門が同意を促せば、みな苦笑いを浮かべて「そうだそうだ」と頷いている。
・・・そんな、みなが慣れるほど私って突拍子もないんだ・・・
今更ながら、少し落ち込む。
「してお嬢、戦を終わらせると申しましても、どのようにして?」
手代の一人が、私に尋ねる。
「秘策があるの」
含みを持たせた笑みで、私は揚々と笑う。
私たちの反撃が、ここから始まった。




