八十話 『戦ノ気配』 一五六十年・吉乃
「今川と堺の商人が、か?」
宗及殿がうちに馬を借りてきて数日経ったある夜のこと。
小折の屋敷にいらっしゃった殿様に、私は酒を勧めながらふとその話をしてみたんだ。
「えぇ、殿様の耳にもお入れになったほうがいいかと思ったんです」
殿様をお支えすると決めた、弥平次さまとの約束。
私一人になってしまったけれど、今もその約束は大事に大事に胸に抱えている。
弥平次さまと私の、かけがえのないものだから。
だから、今もこうして商人として耳にする噂や尾張の近況を、殿様にお伝えすることが私の役目の一つになっていた。
愛妾として、宗及殿のことも殿様に知らせたほうがいいと思ったのだけれど・・・
「・・・あまり良くない知らせだな」
殿様は、浮かない顔をされてそう仰った。
今川は、織田にとっては尾張東部を脅かす大きな敵だ。
駿河がいくら遠いといっても、三国を支配する今川の力は強大で尾張一国の織田とでは肩も並べられない。まして今川は武田北条と大きな同盟相手を味方につけていて、その影響力は東国一だ。
殿様もなんとか鳴海を今川の手から奪い返そうと考えていらっしゃるみたいだけれど、なかなか上手くいかないみたい。
その今川が堺の大商人と商いをしているっていうんだから、織田にとっては大問題だ。
「駿府の港が封鎖されたっていうのもまことか」
「封鎖されたっていうよりは、船を調べられて入港を拒否されたらしいんです。港自体は開いていて、他の国から入ってくる船は受け入れるのですが、尾張から来たって知られると港から締め出されるようで・・・他の商人からもいろいろ話は聞いたんですけど、みな商いに影響が出てるようで困っておりました」
まるで、尾張が除け者にされているようだって、話を聞いた旦那衆は言っていたんだ。
・・・何かが、駿河で動いている。そしてその裏には、今川家が関わっていることは明白だ。
明らかに、入港拒否は尾張や津島だけに狙いをつけて行われている。この尾張が敵である織田の領国だから、そういった締め出しを今川が行っても不自然じゃない。
上方や西国から来た船が、津島に立ち寄って物資や食料の補給に来ることはよくあるらしい。駿府や相模、さらには東の港に向かうには長い航海が必要で、そういった船が足を休めることも、この尾張にある津島の港の役割のひとつだ。
だから、津島に立ち寄った船乗りや商人も、みな動けなくなって困り果てている。
宗及殿のような津島で立ち往生をしてしまった商人が、何人もいるらしい。
「それで、その堺の商人はどうなった?」
「それが、おかしな話なのですが・・・」
うちから馬を十頭借りた宗及殿は、川並衆の道案内を受けて尾張と三河の国境に向かった。
今川が管理している三河の関所を通ろうと、関所の役人に話をつけようとしたらしいのだけど・・・
「関所を通してもらえなかったようなのです。今川家との商いのためにわざわざ三河まで来たのに、尾張から来る者は通せないの一点張りらしくて。関税を払うと言っても、今川との商いの書状を見せても、てんで駄目だったようで」
仕方なく、宗及殿は肩を落として津島まで戻ってきたのが昨日のこと。
堺の大商人が三河に入ることを拒否されたと聞いて、津島の町は騒然となった。
お侍さまならともかく商人が、それも尾張と関わりのない堺の商人がどうして入国を拒まれるのか。たかが、尾張から三河に入ろうとしただけなのに?
海路と陸路、両方とも閉じられたことで尾張は今川の領国から拒絶された形だ。
・・・なにか良からぬことが動いているのではないのか。そんな噂が、津島でも少しずつ聞こえるようになっている。
みな、不安なんだ。今川は大国だ。
その大国に目をつけられてしまっては、尾張での商いにどんな影響が出るかわからない。
「今川が、尾張の閉じ込めを行っているということか」
「そうなのかも、しれません」
この乱世、お武家さまが国境を封鎖して敵国の封じ込めを行うのはよくある話だ。
人と物の流れを直に断ち切ってしまえば、敵は兵糧を集めることも兵を募ることも数段難しくなる。そうして事前に敵国を弱体化しておいて、いざ戦を始めるときにある程度戦に勝つ算段を整えておくことが戦にとっては重要だ。
だからあの稲生原のとき、津島の銭の流れが殿様の味方にならないようにと、信勝は私の身柄を捕らえることをした。
戦は、兵を挙げる前からもう始まっているんだ。
「織田と今川の、戦になりますか・・・?」
私は恐る恐る、殿様に訪ねてみる。
・・・こんなこと、国主の殿様に聞いてはいけないことなのかもしれない。
大国の今川と小国の織田の力の差は歴然だ。
武士でない私でも、商人にもそれくらいはわかるっていうほど、大きな差がある。
今川は三国を有し、同盟相手も含めれば九国もの広大な領地に力を振るう大領主だ。動かせる兵もきっと、一万や二万を軽く超えるに違いない。
それに比べて殿様は (口にするもの憚られるんだけど・・・)尾張一国、それもついこの前にようやく平定を終えたばかりの新米国主さまだ。
兵力も、今川と比べると随分頼りなく見えてしまう。
もし今川が尾張に攻めてくるのなら、殿様はこの国を守るためにその兵力を尾張各地に分散させて対抗しなきゃいけない。
ただでさえ少ない兵なのに・・・
それはまるで、鼠が狼を相手取るような、雀が鷲と戦うような、きっとそんな戦を殿様は強いられる。
殿様は変わらず渋いお顔をなされたまま、そっとその思いの丈を零されて。
「・・・わからぬ。だが・・・攻めてくると言うなら、抗わない訳にはいかないであろう」
武家として。国主として。
殿様は、その身に大きなものを抱えている。
だから、このお方はみなの前では常に『厳格』だ。
お侍さまだけじゃない、商人にも、百姓にも、織田信長さまは恐れられていた。
私も、一時はそんな殿様を『天魔』だなんて揶揄してた時期がある。
隙一つない、絶対的な国主さま。この尾張国をまとめ上げる、武家の棟梁。
そんな姿を、殿様はずっと自らに強いているから。
・・・時々、心配になってしまう。
本当の、信長という人を知ってしまった私は。
いつか、無理がたたって『折れて』しまうんじゃないかって。
・・・っ。
「大丈夫ですよ、殿様!!」
私は、目いっぱいに明るい笑顔をつくって、元気よくそう口にした。
「殿様は、今川に負けたりなどしません!!」
太鼓判を押すように。
私は胸を張り、自信をこめて殿様にそう申し上げたんだ。




