七十九話 『お遊戯ノ始まり』 一五六十・能面の白拍子
「ようやく、拙僧の大願へと歩みを進むことができる・・・尾張は、その手始めの生贄だな」
「織田との戦に、見込みはございますか。信長は、油断ならぬ男がございます。小国と侮られては、火傷をしてしまいますよ?」
「末森の織田信勝のように、か?」
私の言葉を遮り、太守様はその名を口にします。
私は驚き、思わず大きな口を開けてしまいました。末森のことは、太守様に話したことなど一度もなかったはずなのですけれど・・・
「ご存知でございましたか」
「お前が焚き付けた馬鹿な男のことだろう。織田信勝が敗れたのは、単にその者が無能であったからにすぎぬ。この今川義元とは格が違う、信長など相手にならぬ」
その物言いには、他者を圧倒する自信に満ち溢れておりました。一寸の疑いもなく、織田に勝つことを当たり前のように思っている顔でございます。
雨が天から地面に降るように。
人が、その後死んでいくように。
今川が尾張を飲み込むのだと、微塵も疑わないのでございます。
それがきっと、『覇者』の風格なのでございましょう。
まぁ、当然のことであられます。
その自信を裏付ける器量と偉業が、この御方にはあるのでございますから。
私の目の前にいる男は、『海道一の弓取り』、
今川義元、なのですから。
「信長など、どうとでもなる。むしろ厄介なのは・・・」
不意に、太守様の声色が変わります。
「厄介なのは?」
「『津島』とかいう、尾張の商家町だ」
ほぅ・・・
太守様は、顔を歪められてそのように呟かれます。
まさか、今川義元の口から『あの町』の名を聞くなんて。私はなんだか、嬉しくなってしまいます。
「津島、でございますか?」
「上方から駿府以東に流れるの富が、あの町で滞っておる。その富が尾張に流れ、大きな力となっている。信長の勢いが盛んなのもそれ故だ。尾張攻めの鍵は、あの津島であろう。津島を崩せば、織田も共に崩壊する・・・」
そこまで、読んでおられるなんて・・・
さすがは、傑物でございます。太守様は尾張をその目でご覧になった訳ではございませんのに、そこまでお見通しだなんて。
面白くなってまいりました・・・
「・・・太守様は、『商人の姫様』という者をご存知でございますか?」
嬉しくて、嬉しくて、私はついその名を太守様にお伝えしたくなってしまいまして。
女は、誰しも口上手。
そう思ってしまっては、私もこの口を止めることができなくなってしまいます。
こんな能面など、遮るには不十分で。
「商人の、姫・・・?」
初めて聞くその名に、太守様は首を傾げます。
太守様がいくら何もかも見通す御仁であったとしても、さすがに遠く駿府までその名は届いていないのかもしれません。
けれど、きっと、これは太守様がぜひ聞きたい話でございましょう。
尾張と、織田と、津島と・・・全てを繋ぐ、この女性のお話は・・・
「そう呼ばれる、津島を仕切る女商人でございます。織田信勝が敗れ去ったのは、その商人の姫様を敵に回してしまったがゆえ。女の身で、商人の身でありながらその才覚で信勝の軍勢を打ち崩した女でございます」
尾張が力のある国に変わったのも、信長が尾張統一を果たせたのも、全てあのお姫様がいたからです。
尾張の、織田の・・・そして信長の、全ての主軸にいる御方。
尾張の、裏の『国主』ともいうべき力を持った御方。
私は、あのお姫様のことを切々と太守様に語っておりました。
私自身、商人のお姫様のを好いて好いて堪らないのですから。自ら気づかない間に、随分と楽しそうな顔をして話していたことでしょう。
太守様もあのお姫様に興味を持ったご様子で、目の色を変えて、私の話を聞き入ってくださいます。
太守様が厄介と感じる津島を牛耳っているのが、一人の女だと聞いて面白がっているのでしょう。
あのお姫様はまこと、良くも悪くも人を惹きつけてしまうお力を持った御方なのですから。
「・・・ほぅ、かような女が尾張にいるのか。して、その女は何者だ」
ほら、太守様も食いつかれた。
これはまた、面白いものを見ることが出来そうでございます。
あの、稲生原の戦場のときのように。
私はにやけてしまうことを止められないその顔を能面の下に隠したまま、太守様に、その名をはっきりと告げたのでございました。
「津島の筆頭商人。織田信長の愛妾。『生駒屋』という馬借を営む、"吉乃”という名の女でございます」
・・・さぁ、お姫様。
お遊戯の、始まりでございます。
次はあの海道一の弓取り、『今川義元』でございますよ。
・・・ほら。
どうか私を、楽しませてくださいませ。
お姫様は、いかがなされますか・・・?




