七十話 『私ノ友』 一五五六年・吉乃
「私を憎らしく思うなら、この刀で斬ってください」
居住まいを再度正して、私はこの首が見えるよう髪を書き上げた。
まるで、斬首される前の罪人のように。
・・・当然だと思う。
当主の北の方を蔑ろにして、一介の女商人風情が殿様を寝取っただなんて。
姫として、女として、これ以上の屈辱はきっとない。
自らの行為が道理から外れているものだってことくらい、自覚している。
その報いも、甘んじて受ける。
それでも。
この首が落とされることになっても。
殿様を好いているという、この想いだけは変えられない。
「咎は自らの命で償います。ただ、お類のことだけは・・・よしなにお願いします」
私は、自らの首を差し出す。
帰蝶さまは、ただじっと弥平次さまの脇差を眺めていらして。
もの悲しげな表情で、そっと、その口を開かれた。
「・・・妾に、お主を殺せと申すか」
「はい」
私は、迷いなく帰蝶さまの問いに答える。
自らがどれほど道理に合わないことをしているのか、自覚はしている。帰蝶さまの心情を思えば、斬り殺されたって当然なことを、私はした。
そして、その道理に合わないことを、無理にでも押し通そうとしている。
「・・・非道いの」
帰蝶さまの声は、震えていた。
震えた声で、でもはっきりと、私を非難した。
常に、帰蝶は優しく聡明なお人で。
姫様が誰かを蔑むようなところは、一度も見たことがなくて。
「・・・酷いの、お主は・・・まこと酷い女じゃ、吉乃」
その帰蝶さまに、私はこのようなことを言わせている。
何度も、何度も、帰蝶さまは「酷い」を繰り返す。そのひとつひとつが強く、痛く、私の胸に刺さっている。
私は、それほどのことをしたんだ。
恨まれたって、当然じゃない・・・
目の前の、大切な私の友は、
憤怒に大きく肩を震わせて、
ぐっと、私のことを睨んで、
そして、
「妾がお主を・・・友を・・・斬れるはずないではないか・・・っ!!」
帰蝶さまは、泣いていた。
大粒の涙を、何度もこぼして。
その美しい顔を、歪めて。
姫君らしからぬ一切の繕いもない、号泣で。
帰蝶さまは、感情を露わにして涙を流されていた。
「罵ってやりたいはずなのに・・・お主にそんな、覚悟を決めたような顔をされては・・・何も言えないではないか・・・っ!! 妾はお主のことをこんなに好いておるというのに、なのに・・・なのにお主は妾に『斬れ』などと申しよって・・・まこと酷い女じゃ・・・お主は・・・っ」
私は、何も返せなかった。
初めて、延々と泣き叫ぶ帰蝶さまのお姿を見て、その内に秘めた激情に思わず面を喰らってしまって。
・・・あぁ、そうだったのに。
帰蝶さまが、本当はとても気丈な方なのだって、私は知っていたのに。
帰蝶さまの嗚咽だけが、部屋に響く。
「・・・予感は、あった」
息が整い始めたとき、ぼそりと、小さな声でそう、帰蝶さまは仰った。
「・・・いつか、このようなときが来るのではないかと、ずっと・・・あの祭りのときから、ずっと・・・思っておった・・・」
二年前の、天王祭。
私は、殿様と帰蝶さまの仲を取り持つために奔走した。
なのに、今はその帰蝶さまから殿様のことを奪い取ろうとしている。
なんて、非道なことを私はしているのだろう。
私は帰蝶さまに、友か、最愛の殿方か、どちらかを選ばせようとしている・・・
「屈辱じゃ・・・じゃが、それ以上に・・・」
「友を、お主を、失のうたくないと思うておる妾がいるのじゃ・・・っ!!」
嬉、かった・・・
嬉し、かったんだ・・・
そう言ってくださる、帰蝶さまのお言葉が。
だから、その帰蝶さまを裏切ってしまったことが、苦しくてたまらない。
瞳が、潤んでくる。
今にも、溢れそうで。
気づけば、私も泣いていた。
「・・・申し訳、ないです・・・」
帰蝶さまに、苦しい思いをさせて。
帰蝶さまに、つらい選択をさせて。
本当に、ごめんなさい・・・
大事な、大事な、友なのに・・・
それでも、過ぎたことはもう変えられない。
芽生えたものは、私自身でも、なかったことには出来なかったから・・・
「・・・吉乃よ」
涙を拭って、帰蝶さまは居住まいを正される。
泣き顔に崩れたその美しいお顔が、元の凛々しい表情に戻される。
その佇まいは、武家の姫君の、威厳に満ちたもので。
それでもその顔は、流した涙に濡れていて。
「織田家の北の方として、頼み申す」
その厳かな仕草のまま、姫様は
「信長殿の、側女になってくれ」
私に、深々と頭をお下げになられた。
「帰蝶、さま・・・」
頭を垂れる帰蝶さまのその様が、その意味が、どういうものなのか、私にもわからないはずがなくて。
お武家さまのしきたりに疎い私でも、そのことの重大さくらいは察してしまう。
尾張国主のご正室たる帰蝶さまが、私などに頭を下げるその大きさを。
「妾の代わりに、信長殿の子を産んでくれ」
側女。
“めかけ”や愛妾などと呼ばれることもあるけれど、大きくは変わらない。
殿様の周りに侍り、その寝屋のお相手を務める女のことを武家ではそう呼ぶ。
大名家に嫁ぐ女にとっての命題は、世継ぎを産むこと。
であるから、自らに子が出来ない場合、率先して正室自ら殿様に女を囲わせて、幾人の側女と世継ぎの確保を手配することが『良き北の方』の嗜みだとされている。
それに則って、帰蝶さまは私に頭を下げて頼まれた。
織田家の、北の方として。
「帰蝶さま、私は・・・っ」
私は、口を噤む。
本当は、わかっているから。
それが、帰蝶さまに残された唯一の道なのだって。
側女は、殿様に囲われていてもあくまで正室である帰蝶さまのご家来という扱いになる。
私が帰蝶さまの命で側女になれば、例え殿様と情愛を交わしたとしても、それはご正室より下知された織田へのご奉公になる。
正室の帰蝶さまは側女の主人。その存在は別格で、北の方としての沽券や面子は一切傷つかない。
殿様も、私も、姫としての誇りも、帰蝶さまにとっては全てを失わずに済む唯一の道。
ただ・・・
「本当に・・・それで、いいのですか・・・」
ただ、自らの『恋』だけを捨て去れば。
今までずっと帰蝶さまが殿様に側女を勧めなかったのは、斎藤家との同盟もあったのかもしれない。
斎藤家の名代である帰蝶さまが側女を勧めれば、それは自らを通して尾張における斎藤家の格を下げることになる。
けれど、まことのところは・・・帰蝶さまが深く殿様のことを好いておられたからなのではないですか・・・
いつか、自らにも子が出来るのではないかって・・・一縷でも望みを持って・・・
「お主であれば、構わぬ」
穏やかな声で、帰蝶さまはそう仰った。
その言葉の重みが、私に伸し掛かる。
重くて、重くて、押しつぶされてしまいそうだった。
己を殺して、私に頭を下げる帰蝶さまの、そのお気持ちに。
けれど、逃げることなんてできないと思った。
恥を捨ててまで頭を下げてくれたこの懇願を、無下になんて出来るはずがない。
これぐらいで、帰蝶さまを裏切った償いになるなんて思っていない。
ただ、こんな私を、それでも友と呼んでくださる。
その想いに、信頼に、お返しをしたい。
ずっと、ずっと、帰蝶さまの友でいる限りは、
何かを返し続けたいって、そう、思ったんだ・・・
「お顔を上げてください、帰蝶さま・・・」
意を決して、私も居住まいを正す。
背筋を伸ばして、まっすぐ帰蝶さまのお顔を見つめて。
「側女のお話、お引き受け致します」
三つ指を立てて、私は帰蝶さまに頭を下げる。
まるでお侍さまが主君に臣下の礼を取るように、床に額がつくくらい、深々と。
「よろしくお願い申し上げます、“濃姫”さま」
そんな、口上を申し上げた、その刹那、
帰蝶さまが私の身体を抱きしめた。
その細い腕では思いもよらないほど、強く、強く。
「礼を言うぞ、吉乃・・・っ」
まるで、十四、五の娘のように。
仲のいい友に甘える、町娘のように。
「吉乃が妾の友で、良かった・・・っ」
帰蝶さまは、私の胸に顔を埋める。
そんな帰蝶さまが、なんだかとても可愛らしく思えて。
私は、口元を緩めて微笑んだ。
「私も、です・・・」
こうして、私は殿様の・・・織田信長さまの、『愛妾』になったんだ。




