六十九話 『吉乃ノけじめ』 一五五六年・吉乃
「・・・本当はもっと早く、お主の顔を見たかったのだ。吉乃が勘十郎殿に囚われておったと聞いて、妾は心配したのじゃぞ・・・」
「ご心配をかけてしまい、申し訳ないです・・・」
帰蝶さまをお迎えした途端、姫様は私の肩を強く掴んでそのように仰った。
その目に、いっぱいの涙を浮かべていらして。
「まこと、無事で良かった・・・」
安堵の吐息を吐いて帰蝶さまは私を強く抱きしめる。
痛いほどに、強く。帰蝶さまのお気持ちが、強く表れて。
嬉しさと。
心配をかけてしまった罪悪感と。
・・・さまざまな気持ちが私の中に混ざって。
私は、それらを顔に出さないよう笑みを浮かべて、帰蝶さまに笑いかけた。
「・・・私も、ずっとお会いしたかったです。帰蝶さま」
屋敷の中へ帰蝶さまをお通して、お茶請けを用意する。
帰蝶さまは従者の方を外に待たせて、お一人、私の歓待を受けていらして。
お茶を入れる私に姫様は「別に構わぬぞ・・・」と心配そうに私の顔を覗き込む。
「身体はもう、大丈夫なのか・・・?」
「はい、もうすっかり元通りで。生駒屋を立て直さないといけませんから、いつまでも寝込んでなどいられないです」
「吉乃の父のこと、悔みいる・・・我が織田の者のせいで・・・」
「殿様と帰蝶さまのせいではないですよ・・・全て、信勝が行ったことです」
決して、お二人を責めるような気は一寸たりとも持ってない。
それが、私の紛れもない本心だ。
「織田のお城は、如何ですか・・・?」
「未だ、騒然としておるな。まぁ、当然であろう・・・あれほどのことが、あったのじゃからな・・・けれど、みな・・・一足ずつ、前へ踏み出しておる」
「因果な話じゃがな・・・」帰蝶さまはそのように仰った。
尾張を、そして織田家をひっくり返した信勝の謀反。
織田に連なる殿様に反感を持っていた者・・・そして清洲岩倉といった反信長の勢力を一斉に蜂起させたこの内乱は、奇しくも織田家に潜む反信長の人物を洗い出す絶好の機会になってしまっていた。
今の織田家は信勝になびいた者への処罰と、家中の再編で大変だと思う。
けれどこの難局を超えたとき、きっと織田は今より強固なものになる。
そんな望みを感じる雰囲気が、お城の中に流れているのだと帰蝶さまは仰った。
「織田は・・・尾張は、これから変わります」
「そう、じゃな・・・」
良くも、悪くも。
ここまで大きく家中が揺れ、そして隣国の美濃も政変に崩れた。
斎藤道三という後ろ盾を失った織田は、まるで荒れる海に投げ出された一隻の小舟のようにこの乱世を渡っていかなければならない。
なに一つ、拠り所もないこの尾張の地で。
尾張は、変わっていく。変わらざるを得なくなってしまう。
そんな舟の船頭に今、殿様は立っている。
不意に、帰蝶さまの視線が屋敷の外へと逸れる。
決して初めていらした場所ではないのに、帰蝶さまはどことなく落ち着きがないように見えて。
私の顔を見つめると、何か言葉を噤むような、そんな表情で自らの唇を噛んでいらして。
・・・わかっている。
どうして、帰蝶さまが小折の屋敷にいらしたのか。
どのような想いで、私の前に座っていらっしゃるのか。
帰蝶さまが、何も知らないはずがない。
「殿様の、ことですね」
短く、私は言う。
帰蝶さまの表情が変わる。
目を見開いて、驚いた表情で、私のことをまじまじと見つめていた。
きっと、私から話を切り出すことはないのだろうと、思っていたのだと思う。
でも、私は・・・
「・・・吉乃、お主は・・・」
私よりもむしろ、帰蝶さまの方が狼狽えられておられて。
私はどこか、覚悟が出来ていたのだと思う。
いざ帰蝶さまを前にしても、心を乱すこともなかった。
だって、目を背けることが出来るはずもない。
私は、帰蝶さまから・・・この御方から・・・
「・・・殿様と、一夜を共に致しました」
最愛の人を、奪ったのだから。
帰蝶さまは、何も仰らなかった。
ただ俯き、顔をしかめていらして。
・・・帰蝶さまは、全てを勘付いておられる。
殿様がこの小折の屋敷に通っておられることは、とうに城の中には知れ渡ってるはずで。帰蝶さまの耳に入らない訳もなくて。
女なのだから。
そこで何が行われているのか。それがどういう意味を成すのか。
何もわからない帰蝶さまじゃない。
それでも、こうして私の前にいらしてくださった帰蝶さまの気持ちを、覚悟を、踏みにじるようなこと・・・私には出来やしない。
だから、私は帰蝶さまから目を逸らさずに向かい合う。
自らの想いを、情愛を、偽らずに。
私は、全てを知っている。
帰蝶さまが、どのような想いを殿様へ向けていらしているのか。
それがどれほど強く、苦しいものだったのか。
あの天王祭を通じて、殿様に恋い焦がれる帰蝶さまを私はずっとお側で見てきて。
その手助けをして。
子の出来ない帰蝶さまの涙も、知っている。
痛いぐらいに、知っている。
それでも。
私は
「私は、殿様のことをお慕いしています」
帰蝶さまを真っ直ぐ見つめて、私は一切言葉を濁さずに、はっきりとそう言った。
それが、私のけじめなのだと、思うから。
最愛の友の、最愛の人を奪った・・・私の。
「何を言っているのか、私自身わかっているつもりです。帰蝶さまが、何を仰りたいのかも・・・でも、私・・・嘘はつけないです。帰蝶さまのことを欺いて、脳天気に笑うことなんて・・・そんな卑怯なこと、出来ないです。まことのことを、ちゃんと帰蝶さまにお伝えしなきゃって、思ってしまったんです」
私の胸の内で、きっと、もう。
引き返すことの出来る一線を、きっとあの夜に越えてしまった。
もう、この感情に偽りを塗りたくることはしたくない。
「言い訳は、何も言いません。言えません」
帰蝶さまは、何も仰らない。
ただ、哀しそうなお顔で、視線で、真顔で向かい合う私を見つめていた。
私は、すっと立ち上がる。
部屋の隅に用意しておいた葛籠を開けて、中から一本の刀を取り出して。
そっと、帰蝶さまの前に置く。
帰蝶さまは、まじまじとその刀を眺めていらした。
古びた、黒塗りの鞘の脇差だった。
「弥平次さまの、形見です」
美濃への出陣の折、弥平次さまが帯刀なされずに屋敷に残した一本。
帰蝶さまの輿入れの際、従者に選ばれた弥平次さまが斎藤家より渡されたものだと聞いている。
「私を憎らしく思うなら、この刀で斬ってください」
居住まいを再度正して、私はこの首が見えるよう髪をかき上げた。
まるで、斬首される前の罪人のように。




