六十七話 『互いノ想い』 一五五六年・吉乃
「っ、殿様・・・」
障子の前で、殿様が座り込んでいたんだ。
殿様も、甲冑をお脱ぎになっていて。
着るものがないから、弥平次さまのお着物を着てもらって。
背中を丸めて、仏頂面をして、胡座をかきながら、まるで番人のようにじっと座り込んでいる。
そのお姿は、先程までの大将として堂々とされていたお姿とは、まるで違っていて。
普段の、うつけと呼ばれた殿様が戻ってきたような、そんなお姿で。
どことなく、丸めた背中は弥平次さまに似ていた。
「・・・中に、入られないのですか」
私が尋ねると、殿様は眉間に皺を寄せ
「馬鹿を申せ。女の寝床に入れるか」
不機嫌そうに、言葉を返す。
私は、殿様がそんなことを仰るとは思わなくて、つい目を丸くしてしまう。
普段は傍若無人なのに、変なところで律儀なお方・・・
「ですが、そのようなところにいては虫に刺されてしまいます」
「構わぬ」
「今宵は、私の側にいてくれるのではなかったのですか」
私は障子を開けて、殿様を寝屋の中に招き入れた。
・・・はしたないとは思ったけれど。
側にいてほしいって、目の見えるところにいてほしいって、思ってしまったんだ。
今宵、きっと私は独りで眠るのが恐ろしい。
今でもはっきりと、戦の怖さが瞼の裏に張り付いているから。
「・・・独りでは、悪い夢を見てしまいそうです」
殿様は、何も仰らなかった。
何も言わずに神妙な顔つきをなされて、のそりと立ち上がる。
障子を開けた私に促されて、殿様は寝屋の中へと入っていく。
薄暗い、部屋の中。
行灯の灯りだけが、ほのかに揺れていて。
殿様は、敷かれた夜具の枕元に腰を下ろす。
私も、殿様のお側にそっと座った。
鳥の声もしない、静かな宵で。
私と、殿様。
二人だけの、時。
私は、殿様と二人で、“お話”をしたかった。
今までのこと。
これまでのこと。
きちんと、殿様に伝えないといけない言葉があるんだって。
だから、はしたないことだとはわかっていても殿様をこの寝屋にお招きした。
・・・ここなら、二人きりだから。
「・・・囚虜の身から救ってくださり、本当にありがとうございました」
私は三つ指を立てて、殿様に感謝の意を述べる。
殿様に助けていただいたこと、ちゃんとお礼を言わなきゃって、強く思っていたんだ。
「殿様が来てくれると、信じておりました・・・」
信勝に縄をかけられた、その絶望的な状況の中。
斬り殺されるかもしれない、逃げる術もない、そんな状況でも私の性根は折れなかった。精一杯、あの信勝に抗ってやった。
必ず、殿様が助けに来てくれるのだって、一分の疑いもなく思えたから。
そして、殿様は、来てくれた。
「・・・そのような謝辞は、要らぬ」
けれど、殿様は静かに、そう言った。
「・・・勘十郎の叛意を留めることが出来なかった、俺の不甲斐なさが引き起こしたことだ。事の元凶に感謝など述べるな」
「存じておる」間髪入れずに、殿様は言う。その端正なお顔を、そっと曇らせて。
そんな弱気な殿様のお姿を見るのは、それが初めてだった。
「・・・此度のこと、そして弥平次のこと。全て俺の至らなさ故だと」
「お前には、苦しい思いをさせている・・・」
「すまない」と、殿様は小さく言葉を紡ぐ。
その姿は、私にはとても痛々しく見えて。
普段の、殿様を知っているから。
このお人は、周りに流されることなく我が道を突き進むお方だと知っているから。
殿様が、誰かに謝っているところなんて見たことがなかったから・・・
「そんな・・・殿様の、せいじゃないです・・・」
私は、そんなありふれた言葉しか、殿様に返せなかった。
殿様の苦悩も、苦しみも、あんなにたくさん見てきたはずなのに。
「・・・母と、会ったであろう」
視線を反らし、殿様は私に尋ねる。
それが御前さまのことを仰っているのだと、私はすぐさま気づいた。
殿様が、何を私に伝えたいのかを。
「・・・はい。弥平次さまにそっくりで・・・驚きました」
初めて、御前さまのお顔を拝見したとき。
私は、本当に驚いたんだ。いくら遠戚だからって、あんなに、弥平次さまに似ているのだと知らなかったから。
だから、そのことを知ったとき。
察してしまったんだ。どうして、殿様が美濃の武士だった弥平次さまを自らのお側においたのか。
どうして、殿様は唯一弥平次さまにだけ心をお許しになられたのか。
・・・きっと、殿様は弥平次さまに母の面影を、見ていたのだと。
「・・・俺はあの母に育ててもらったことはない。生まれてからずっと、俺の面倒を見たのは池田の乳母と平手のじじいだった・・・」
殿様は、ゆっくりと言葉を紡いでいく。
こうして」殿様の本心をその口から聞くことは初めてで、私はただ黙って殿様の話を聞いていた。
「俺は母に抱かれたこともない。あの女は、母らしいことをしたことがなかった・・・俺も、親孝行をした覚えなどないがな。お前には、理解できぬ道理の話であろう」
「・・・はい」
自らが腹を痛めて産んだ子を抱きもしないなんて、私には全くわからない。
けれど、武家がそういうものだってことは、私も話には聞いていた。
正室である北の方が子育てをするのは、稀なのだと。
武家の世では、自らの乳を赤子に与えることもしない。
赤子に乳を与えるのは、『乳母』と呼ばれる侍女の役目だ。
殿様にとってその乳母は、勝三郎殿の母君で。
だから殿様と勝三郎殿は、血は繋がらなくとも同じ乳を飲んだ『乳兄弟』の間柄なんだって。
赤子の頃は乳母がその世話を、大きくなってからは『傅役』と呼ばれるお付きの武士がその教育を行う。
正室がそこに関わることはまずないのだと、それが大名家の倣いなのだと、私も知っていた。
「別に、それで構わぬと思っていた。織田の跡取りとして生まれた以上、そういうものだとも思っていた。ただ、唯一の母と疎遠である身の上を無情に思ったこともないと言えば、それは嘘になった」
いくらうつけだの天魔だの揶揄されても、殿様はその奥底は優しいお方だから。
そう思われて、当然だと思う。
「お濃が輿入れに来たとき、その従者に土田の者がいることは聞いていた。母の遠戚の者がいると。その顔を見て、あまりに母と似ていたことに驚いたがな・・・笑い話であろう。俺は嫁のお濃よりも先に、弥平次に関心を持っていたのだからな」
「殿様らしい、お話ですね」私は、心底そう思って。
「けれど、そのお気持ちはわかります。弥平次さまは、人に好かれる何かを持ったお方でしたから」
「・・・それから、常に弥平次を連れ回し遊び歩いた。あやつと共に馬鹿をやるその時間が、心地良くてな。弥平次は、いつも辟易とした顔をしておったが」
その時の弥平次さまの顔が、目に浮かぶ。殿様に引っ張りまわされるなんて、きっと私が思っている以上に大変なんだろうな・・・
「・・・あやつに小言を言われていると、母親に叱られているような心地になった。あやつが心配そうな顔をしておると、母に心配をかけてしまっているような、そんな気がした・・・」
殿様は、弥平次さまに母親の面影を重ねていた。
生まれてから与えられなかったものを、弥平次さまを通して見出そうとしていた。
だから、弥平次さまは殿様にとってもかけがえのないお方になっていた。
家臣で。
友で。
けれど、そんなものじゃない。
それ以上の、自らにとって必要なお方・・・
それが、殿様にとっての弥平次さまだったんだ。
その言葉の節々に、殿様の想いが、見えているから。
殿様のお話を聞きながら、私は強くその想いを感じていた。
「・・・お前と弥平次の縁談を勧めたとき、俺はこれでいいのだと思っていた」
殿様は、不意に私に顔を向ける。
私は予期しない殿様の行動に思わず驚いて、つい胸が高鳴ってしまう。
目の前に、触れてしまいそうなほど目の前に、殿様の顔がある。
すっと鼻筋の通った、その顔。私が常々『天魔』と揶揄する、孤独な男の顔。
鼓動が、早くなる。顔が、熱くなる。
ただ、私は。
真っ直ぐこの瞳を見据える殿様の視線から、一寸たりとも目を離すことが出来なかった。
「弥平次になら、お前を任せることが出来ると思った。お前になら、弥平次を託すことが出来ると思った」
それが、殿様にとって最大の表現なのだって、私はわかっていた。
だって、殿様が唯一心を許し側に置いたお方が、弥平次さまなのだから。
その弥平次さまを手放しで託すことの出来る、女。
それほどまでに殿様に、織田信長さまにその器量を認められた女。
私はきっと、殿様にとってそんな価値のある女になっていた。
だから、殿様は私と弥平次さまを結びつけてくれた。
それをわかっていたから、私も弥平次さまとの婚儀を嬉しく思えた。
旦那さまと二人で、誠心誠意殿様をお支えしようって思えた。
私のことを認めてくださったことを。
大切な弥平次さまを私に託してくださったことを。
その、『恩返し』をしたくて。
本当は、ずっと・・・
知っていた。
私も。
弥平次さまと共に。
殿様にとって、かけがえのない『大切』な者なのだと思ってくださっていることに。
だから殿様は、信勝に囚われた私を死に物狂いで助けてくれた。
私も、殿様が助けに来てくれるのだと確信していた。
私と、殿様と、弥平次さま。
私たちは、互いが互いに代えのきかない、『特別』な間柄だったんだ・・・
「・・・私たちは、共に“同じもの”を失いました」
土田弥平次という、男。
私たちは同じお方を失い、同じ傷を背負い、同じ苦しみを感じている。
「殿様は、ずっと私のお心を察してくださいました。私も、殿様のお心を痛いほど感じてしまいます・・・きっと、私たちだけです。こんな気持ちを感じてしまうのは・・・」
弥平次さまのいない、この寂しさ。
私と殿様だけが感じる、この苦しみ。
きっと、真の意味でこの苦しみを理解してくれる者はこの世にいない。
この『喪失』は、私と殿様・・・二人だけのものだと思うから。
「私がつらくなったら、殿様もきっとつらいでしょう・・・殿様が苦しいと思うときは、私も同じように苦しいです・・・だから」
私たちは、同じ『喪失』で繋がってしまったから・・・
「この苦しみは、二人で背負いましょうよ・・・」
そうじゃないと、とても・・・独りでは・・・抱えきれないではないですか・・・
すっと、私の頬に涙の線が引かれる。
あんなに戦場で泣いたっていうのに、まだ私の瞳から涙が溢れていて。
涙が、止まらない。
私の感情が・・・殿様の感情が・・・溢れ出して、止まらない・・・
「私が、殿様にとっての弥平次さまになります・・・だから、殿様も私にとっての弥平次さまになってください・・・」
失った者同士。
弥平次さまのいない、この浮世で。
きっと私たちはもう、そのように生きていくしかないと思うから・・・
「駄目、ですか・・・」
殿様は、何も顔色を変えなかった。
ただ涙を流す私の顔を間近でじっと見つめ
「吉乃」
初めて、私の名を呼んだ。
ずっと、「お前」とか「女」としか呼ばなかった私の名を、殿様は優しく口にする。
「わかった。だから、泣き止め」
そっと、その手を差し出してくれる。
無骨なその指で私の涙をそっとすくう。
普段の殿様では、想像も出来ないくらい。
まるで、赤子に触れるような優しい仕草で、私の顔をその救った指で撫でてくれて。
そして、そのまま。
静かに、私の唇に触れた。
自らの涙で、唇が濡れる。
さらに、その上から。
殿様は、ご自身の唇を優しく重ねた。
「・・・っ」
それは、口吸いとは言えないほどに拙くて。
殿様の唇は、微かに震えていて。
本当に、ただ唇が触れ合うだけの、その間合い。
私は、夢中を殿様の口を啄んで。
啄んで。
私が、殿様の胸にゆっくりと身体を預ける。
殿様は私の肩に、腰に、その男らしい腕を回した。
ぎゅっと、私の身体を抱きよせる。
私も、殿様も、何も言わなかった。
この想いは、感情は、こんなにも溢れているのに。
言葉にするのは、何かが違う気がして。
口に出してしまうと、この大事な想いは泡になって消えてしまいそうで。
もしそうなら、この胸に灯ったものはきっと口にしないほうがいい。
何も言わなくても目を合わせれば。笑みを合わせれば。
人の想いは伝わるのだと、知っているから。
だから私は、殿様に向けて。
自然な笑みで、そっと笑った。
殿様が、力強く私の腰を掴んで。
襦袢の帯が、ゆるりと解けて。
私は殿様に応じるように口吸いを求めて。
肌を重ねて。
信勝に縛られた縄の痕が残る私の身体に、
殿様は、指の痕を上乗せするように重ねた。
「・・・殿、さま・・・」
私はそっと、重ねた唇を引き離す。
行灯に照らされた殿様の唇は、赤く濡れて光っていて。
凛々しいお顔。
優しいお顔。
弥平次さまにだけ向ける、そのお顔。
私の目の前にいるお方は、尾張の国主でもなければ『天魔』でもない。
織田信長という、ただの男が、私の顔を見つめている。
「・・・好いて、います」
あの日。
あの夕焼けの中。
弥平次さまは、私の顔を見据えて言った。
『殿を、好いておられるのではないのですか』
私は、何も言わなかった。
弥平次さまの問いに、何も答えなかった。
きっと、弥平次さまはその答えを存じていらっしゃると思ったから。
「私は、きっと・・・あなたさまを好いています・・・」
私はずっと、好いている。
弥平次さまと同じくらい、殿様のことを。
殿様と同じくらい、弥平次さまのことを。
そのことだけは、嘘偽りでは隠せない。
隠したくない。
「・・・存じている」
殿様は、まっすぐ私の目を見据えて言った。
私はその言葉が嬉しくて、笑った。
夜は、静かに更けていく。
私たちは眠りに落ちるまで、互いの唇を啄み合う。
肌を重ね合う。
弥平次さまを失ってからずっと胸に刺さった苦しみが、
殿様との間に出来たわだかまりが、
この、宵に。
ゆっくりと、溶けていくような心地を私は感じていたんだ。




