五十二話 『暗躍ノ影』 一五五六年・勘十郎信勝
名古野の兄の城は、ただただ慌ただしく、騒がしく、五月蝿かった。
「・・・くだらない」
俺はその不快感に、思わず顔をしかめて呟く。
それさえも、城内の喧騒に掻き消される。
唯一俺の吐いた言葉を聞き取った側に控える林佐渡だけが、その顔が強張らせていた。
・・・全くもって、くだらない。
初めから勝てぬ戦だとわかっていながら兵を出し、惨敗した。
多数の配下を失い、織田本家の家政に支障をきたすほどの被害を出した。
兄の武名は地に落ちた。
元から不安定だった尾張の情勢は、これを機に大きく乱れている。清洲や岩倉、反信長の勢力が息を吹き返し、尾張各地でその対応に追われている・・・
まことに、『愚か』以外の言葉が出ない。
俺や佐渡が、評定の場であんなに申し上げただろうに。
俺らの意を退け、兵を出したその結果がこれか・・・
「土田弥平次は、死んだらしいな」
馬鹿な男だと内心で嘲笑う。
自ら出兵を兄に促し、そして死ぬなどうつけもうつけだ。
「勝てぬ戦に主君を巻き込んだ男です、自業自得でしょう」
佐渡は蔑視の表情を浮かべ、吐き捨てるように言い放った。
こやつは、評定の場で自らの意を蔑ろにし恥をかかせた土田弥平次を、心の底から蔑んでいるようだった。
「・・・この林佐渡、此度のことで痛感させられました。弟、美作の申す通りかもしれませぬ」
神妙な顔つきで、佐渡は言った。
「このままでは、先代信秀様の築いた織田は崩れ去る。それだけは、何をもっても防がねば・・・」
「尾張と、亡き信秀様の御為に」そう申す佐渡の眼差しは、堅い決意が見え隠れしていた。
誰よりも、父に従い尾張のために尽力を注いできたこの男のことだ。
家老筆頭として、誰よりも織田家の窮状を強く危惧している。
佐渡を中心に、織田の先行きを懸念する連中が急速に増えつつあることを、俺は知っていた。
・・・もう、俺にも止められない。
兄は、越えてはならぬ一線を越えたのだ。
「・・・行くぞ」
「御意」
「待たれよ、勘十郎殿」
佐渡を連れて末森に戻ろうとした際、不意に背後から声をかけられる。
・・・無礼な。
この俺を、背後から呼び止めるとは・・・
「・・・誰だ」
眉間にしわを寄せ、俺は振り返る。
そこにいたのは
「・・・義姉上、ですか」
蝮の、娘か・・・
また面倒な女に絡まれたな・・・
兄の正室が、顔を強張らせて立っていた。
侍女は連れていない。その代わり、母衣衆の池田勝三郎を侍らせていた。
「どちらに向かわれる? 信長殿は城の中であらせられるが?」
高圧的な態度で蝮の娘は俺に問う。
その物言いが若干癇に障ったが、顔には出さずに飄々とした態度で返す。
「兄は、ご多忙の様子。邪魔をしても悪いでしょう」
「では、何をしに城に参られた」
「己が領内の状況を、報告に来たまでのこと。急ぎの用でもなく、後日文をお送りすれば良いと、此度は退散する次第で」
あくまで慇懃に、俺は言葉を返す。
蝮の娘はあからさまな敵対心を向け、何も言わないまでも眉を潜め俺に懐疑の目を向け続ける。
その視線が、やたらと俺の癪に障る。
・・・なんだ、その無礼な態度は。
後継ぎに謀反を起こされ死んだ老いぼれの娘の分際で・・・
どうやら、この女は俺に何か喧嘩を売るつもりで呼び止めたようだった。
「のぅ、勘十郎殿。お主、何故に美濃へ兵を出さなんだ?」
俺ののらりくらりとした受け答えに苛立っているのか、蝮の娘は語気を強めて単刀直入に問いただす。
「異なことを申される。勝てぬとわかりきった上で、己の手勢を死地に送り込むなど将の行いではない。これでも俺は末森を治める領主。末森の民は、守らねばなりませぬ」
俺の言ったことは、至極正論だ。
兄の方が、間違っていたのだ。だから、その結果があのざまだったのだ。
それでも蝮の娘は承服しかねるらしく、不服そうな面で俺の顔を睨みつけていた。
・・・ちっ、面倒臭い女だ。
「先程から、義姉上は何を申されたいのか。そのような物言いでは、何やら腹を探られているようで気分が悪い」
高圧的な物言いに、次第に俺も苛立ってくる。
探られているようではない。
この女は、俺の腹を探りに来ているのだ。
兄の意に背き、美濃に兵を出さなかったこの俺の。
「・・・知っておるかの、勘十郎殿。この、織田の城の中に一色義龍の間者が潜んでおったこと。妾は、その美濃の間者に拐かされそうになった」
「ええ、聞き及んでおりまする。義姉上も大変な目にあわれたとか」
側に侍っている池田も、その件があって兄が護衛としてこの女に付けたのだと聞いている。
「その間者、菊という妾の侍女じゃったのだが、城から行方を眩ました。噂では、末森の城に逃げ込んだと聞き及んだのじゃが・・・まことか?」
「美濃の間者が、俺の城に・・・?」
「お主が、匿っておるのではないのか」
強張った声色で、蝮の娘は俺に問いただす。
「もう一度問う。何故、美濃に兵を出さなんだ。何故、信長殿に会おうとせぬ。お主は、何を考えておるのだ・・・」
俺は何も答えない。答えてやる気も、毛ほどもなかった。
この女は、俺が美濃と通じているのだと疑っているらしい。
俺が兄に対して逆心を持っているのだと。
だから美濃への出兵に応じなかったのだと。
本気で、そう思っているらしい。
・・・くだらない。
「・・・例え義姉上でも、言葉は選ばれよ。口にしていいことといけないことがある」
俺は、眉間を寄せて女を睨みつけた。
苛立つ感情を抑えきれず、低い声色に脅しを含めた口調で釘を指す。
あぁ、なんて癇に障る女だ・・・
斎藤道三の娘だか美濃の姫君だか知らぬが、この俺に楯突くなど増長も甚だしい。
ここは尾張国だ。
俺は、織田勘十郎信勝だ。
この女は、誰に対して無礼な態度をとっていると思っているのだ。
こやつといい、土田弥平次といい、美濃者はどいつも俺の癇に障る・・・
「・・・勘十郎様。こちらにおられたか」
不意に声をかけられ、俺は振り返った。
佐渡の弟、林美作がこちらに声をかけ大手門の方から駆け寄ってくる。
その手には、持ってくるよう命じておいた包みがちゃんと握られていた。
遅い・・・
やっと、来たのか・・・
この小者を呼び出すために、今日俺は名古野の城まで足を運んだのだ。
俺が美作を末森の城まで呼び出せば、周りから要らぬ疑いをかけられるのは目に見えている。それは鬱陶しい。
兄の城で呼び出すならば、それは形の上では織田家の政務の範疇だ。
真意はどうであろうと、形の上は。
それにしても、この俺を待たせるなど・・・
全くもって、使えない男だ。まことに佐渡の弟なのかと疑う。
だが、まぁ・・・ちょうどいい。
「美作、それを寄越せ」
俺は美作から包みを取り上げると、乱暴に蝮の娘に手渡した。
何の脈絡もなく突然包みを渡された蝮の娘は、不審そうな顔をして眉を細める。
「・・・これは、どういうことじゃ」
「それは、義姉上にお返しする。元々、これを返すために参った次第」
俺は、不敵に笑みを浮かべて笑ってやる。
女は不審そうな顔を崩さないまま、警戒心を剥き出しにして包みをそっと開け
「・・・っ!!」
蝮の娘は驚きのあまり顔を強張らせ、絶句した。
「これは・・・菊の・・・っ!!」
包みの中に入っているのは、浅葱色をした女物の着物。
そして、その着物にべっとりとついた赤い染み模様。
「っ、・・・お主・・・菊を誅したのか・・・っ!?」
信じられないものを見つめるような表情で、女は俺の顔をまじまじと見つめる。
その顔があまりにも可笑しく、俺はつい我慢できずに笑みを零してしまう。
「御首が欲しければ、後日お送りするが・・・?」
「・・・口封じ、か・・・!? 端から、殺す腹づもりで匿ったのか・・・!?」
当然だ。
不要な駒は、足がつく前に早々に処分する。
ましてや、己の役目も果たせぬ使えない駒など、躊躇する理由もない。
「言われのないことは口にしないでもらいたい。義姉上の申すこと、一切の確証もないではないか」
余裕の笑みを浮かべて正論を振りかざす俺を、女は何も言えないまま憎らしそうに睨みつけるだけだった。
・・・まこと、馬鹿な女だ。
同じ女とは思えないほど、あの白拍子とは違う。
「濡れ衣は晴れたであろう、そろそろ失礼する。いくぞ佐渡、美作」
これ以上、この女に付き合うのは時の無駄だ。
俺は佐渡らに声をかけ、この場から立ち去る。
「っ、待て・・・っ!!」
蝮の娘は慌てて俺を呼び止めるが、もう今さらこの女に付き合うつもりもさらさらない。
・・・もう、遅い。
事は、進み始めてしまっている。
「待て勘十郎殿っ!! お主、何をする気か・・・っ!?」
何をする気か・・・だと・・・?
今更そのような問いを投げかけるこの女が可笑しいくらい哀れで、笑ってしまう。
そのようなこと、決まっている。
俺は頬を釣り上げたまま振り返り、女を嘲笑って言い捨てた。
「・・・っ、『世直し』よ」




