五十一話 『尾張ノ情勢』 一五五六年・吉乃
美濃での戦の後。
尾張の政情は混乱を極めた。
特に、殿様に対する非難の声が一斉に尾張中に広がっていた。
美濃まで道三公を助けに軍勢を出したのに、道三公を救えなかったどころか壊滅的な被害を出して逃げ帰ったこと。多数の犠牲を出したこと。
楽市令で右肩上がりだった殿様の国主としての名声は、一日で地に落ちてしまっていた。
織田家の軍勢が瓦解してしまったことも大きくて。
多数の武具兵糧を美濃の地に置き捨ててしまい、また弥平次さまを初めとした多くの有能なお武家さまを失ったこともあって、織田軍は再建までにしばらくの時と労力がかかるようで。
そのせいか、清洲、岩倉や鳴海の山口といった殿様と敵対する尾張国内の勢力が、息を吹き返してきたらしい。ここ数年はじっとしていたけれど、美濃での負け戦の後、動きが活発になっているらしくて。
殿様や織田家に対する落胆と不安・・・そして負け戦の流れのまま斎藤義龍の軍勢が尾張に攻め込んでくるのではないか、なんて噂まで広がって。
津島や尾張国内の商人たちは、また大きな戦が始まるのではないかと恐々としているそうだった。
私は後家として弥平次さまの喪に服していて、小折の屋敷から外に出ることは出来なかったけれど。
父や生駒屋のみな、小六や将右衛門、そして私の間者になっている籐吉。
そういった私を心配して屋敷に訪れてくれているみなから、尾張の情勢について色々話を聞いていた。
「・・・いつもありがとう。苦労をかけるわね、籐吉」
お城の様子を報告に来た籐吉に、私は優しく言葉をかけた。
土田の家に入ってお類を産んでからは、気軽に外に出ることも出来なくなった。
だから、藤吉が度々お城のことを私に知らせに来てくれるのは、とても助かっていた。
「何を仰りますか、お嬢には返さないほどの恩義がございやす。これくらい、当然です」
慣れない腰に指した脇差をいじりながら、籐吉は応えた。
美濃への出陣の前に、弥平次さまの計らいで籐吉は草履取りの小間使いから織田家の家来、雑兵の一人として格上げされていた。
雑兵といっても織田家臣団に名を連ねるれっきとした士分、藤吉がずっと目指していたお侍さまとしての地位だった。
籐吉が腰に指す脇差は、帯刀が許された折に弥平次さまから譲り受けたものだ。
本人は殿様からの一本を欲しがっていたらしいが、さすがに一介の雑兵に国主である殿様自らが下賜されたとあっては角が立つ。
「仕方なく私の脇差を譲り渡したのです」と、苦笑交じりに弥平次さまが仰っていたことを思い出す。
それが、弥平次さまから籐吉への最後の贈り物になってしまったのだけれど・・・
「お城のなか、今は大変なのでしょう・・・?」
「へい・・・仰る通りで。殿も、丹羽様方も、家中の立て直しに大変のようで」
籐吉は、顔を曇らせながらそう言った。
その表情に、殿様たちがどれほど追い込まれた状況なのか私は少し垣間見る。
「弥平次様のいないことが、どえりゃあ大きくて・・・」
籐吉が、尻すぼみな声で言う。
「その分、弥平次様に頼ってばかりだったってことですかね・・・わしゃらは。弥平次様のお陰で織田の家臣団は回っていたのだと、今になって思い知らされておりやす・・・それほど、織田にとって大事な方だったのだと・・・」
「弥平次様はわしゃらの、支柱でありやした」
本人は、根無し草だのにわか武士だの散々自らのことを卑下されていたのに。
いざいなくなってしまうと、こんなにもみなが立ち行かなくなる。
・・・嘘つき。
・・・ずるい人。
いなくなってからそれに気づいて悔やむなんて、私たちは本当に馬鹿だ。
「弥平次さまが、いてくれたら・・・か・・・」
私は、つい詮無いことを口にしてしまう。
弥平次さまがいてくれたら、この尾張の危機的状況もまだどうにか出来るのかもしれないのに・・・
「・・・美濃の様子は、まだわからない?」
「へい・・・」
私の問いに、籐吉は顔を暗くして頷いた。
道三公の死後、美濃は完全に斎藤義龍の手に落ちてしまった。
今現在の美濃がどのような状況なのか、尾張には一切情報は入ってこない。
けれど、織田家と斎藤家の同盟は崩れ去り、ましてや織田は美濃に兵を出して義龍と一線交えてしまっている。
義龍勢にとって殿様は、織田は、自国を攻められ美濃を戦乱に陥れた紛れもない敵と認識されてしまっているはず。
近いうちに義龍の報復が来る。斎藤家の軍勢が尾張に攻めに来る。
そんな噂が、尾張を流れている。
織田の軍勢の立て直しも途中の最中、義龍勢に攻められては尾張は滅びてしまう・・・
「尾張と美濃の国境も、どうやら義龍に封鎖されてしまっているようで。今は政変で乱れた斎藤家中の立て直しに時を費やしているだろうけども、それが終われば・・・と丹羽様は申しておりました」
尾張の中で落ちてしまった国主としての信用。
いつ来るかもわからない、美濃からの報復。
自らの手勢も壊滅し、腹心も死んでしまった。
かつてないほど、殿様は窮地に追い込まれている・・・
こういうときにこそ、殿様は弥平次さまが必要なのだろうのに・・・
「本当に、弥平次さまがいてくれれば・・・」
その大きさを、今になって苦しいぐらい実感してしまう。
私たちは、弥平次さまがいなければ何も出来やしない・・・
殿様が、この尾張が、こんなにも窮地に陥っているのに。
私一人じゃ、何も出来やしない・・・
弥平次さまと約束した、二人で殿様をお支えするっていう誓いが果たせない。
それが、本当に悔しい・・・
これでは私はきっと、黄泉路の弥平次さまに顔向けできないじゃない・・・
自らの無力さに、私は歯痒い気持ちを抱えてしまっていた。
悪くなっていく事態を眺めては、何も動くことのできない私自身に。




