四十八話 『敗戦ノ傷跡』 一五五六年・吉乃
死屍累々の、光景だと思った。
一心不乱に馬を飛ばし、木曽川のほとり、尾張と美濃の国境近くまで来たとき。
「・・・っ、小六!! 将右衛門!! 見てあれ!!」
川沿いのほとりにお侍さまの人だかりを見つけた。
織田の木瓜紋の旗指物を指したお侍さまが何人もいて、それが殿様の軍勢だって私はわかった。
そして、すぐに気づいたんだ。
「なに・・・これ・・・」
死屍累々の、光景だと思った。
これが、織田の軍勢だなんて、思えなかった。
この方たちが、あの織田のお侍だなんて思えなかった。
みな、兜も甲冑も着ていない・・・みすぼらしいお姿で、泥に塗れて、顔は憔悴しきったまま川辺に座り込みうなだれていた・・・
怪我をしている方もたくさんいた。敵に手を斬られたのか、止まらない血を必死に手拭いで押さえつけて止めようとしていらして。
血の匂いが、側にいる私にもはっきりと感じられて。
・・・言葉も、出なかった。
私は、知らなかったんだ。
私は根っから商人で・・・弥平次さまの下に嫁いで、いくら武家の嫁だなんて胸を張ったって・・・
頭でわかっていたつもりなだけで、全くわかっていなかったんだ・・・
負け戦が、こんなにも酷いものだったなんて・・・
「・・・っ、こんな・・・酷い・・・」
「・・・お嬢、しっかりしろ」
初めて敗残の軍を目の当たりにして呆然と立ち尽くす私に、小六は冷静に声をかける。
「・・・ここなら、川並衆の縄張りの中に入っているか。おい、お嬢。俺は一旦うちの屋敷に戻って、手下の野郎を連れてくる。このままにもしておけねぇし、人手が要るだろ?」
「・・・飯と、手負いの奴を運ぶ荷車も要るな。そっちが俺が手配するわ、兄弟・・・お嬢は弥平次の旦那を探すんだろ? 早く行け」
野武士の棟梁として戦を見慣れてしまっているのだろうか、小六も将右衛門も全く動じていようで。
気が動揺して頭の回らない私にとって、それが大きな救いだった。
「ありがとう、二人とも・・・」
「ほら、早く行けって」
将右衛門に急かされて、私は駆け出す。
傷ついた織田のお侍さまがたくさん座り込んでいるなか、私は懸命に弥平次さまの姿を探した。
不安で胸が苦しくなる。
ざわつく気持ちに、酷く想いが掻き乱されて。
どうか、ご無事であって・・・
武功など、立てなくてもいいですから・・・
だって弥平次さまは、尾張一の、算盤武者ではないですか・・・
武功なんて立てなくても、殿様が最も信の置く、立派なお武家さまじゃないですか・・・
だから・・・
「どこにいらっしゃるのですか・・・弥平次さま・・・」
見つからない弥平次さまのお姿に、胸を巣食う不安と焦燥が次第に大きくなる。
あぁ、どうかお願いします・・・
無事でいて・・・弥平次さま・・・っ!!
怖くて、怖くて、ずっとそんなことを強く願わずにはいられなかった。
「っ、吉乃殿なのですか・・・っ!?」
不意に私の名を呼ぶ声がして、私は即座に後ろを振り返る。
・・・っ、弥平次さまっ!?
けど、その人は弥平次さまではなかった。
「・・・っ、与兵衛、殿」
与兵衛殿が、私の顔を見て目を丸くしていた。
初めて、顔の見知ったお方に会うことができて私は思わず安堵してしまう。
「良かった・・・ご無事だったのですね、与兵衛殿・・・」
「ええ、なんとか・・・」
与兵衛殿も、他のお侍さまと同様に甲冑を脱ぎ捨てられていて、河を泳いで渡ったのか、そのお召し物はぐっしょりと濡れていた。
顔にいくつもの擦り傷をこしらえていらして、何も仰らなくてもその戦が壮絶だったことを物語っていて。
「あちらに、殿もいらしております」
「・・・殿様が!?」
私は、与兵衛殿に連れられて殿様の下に向かう。
殿様は、河原の奥。木曽川の岩辺に腰を降ろしていた。
五郎左殿、内蔵助殿、犬千代殿、勝三郎殿・・・そして籐吉もいる。母衣衆の方々もみな、殿様の下に集っていらして。
「・・・っ、吉乃殿っ!?」
思わぬ来訪者に、五郎左殿も勝三郎殿もみな口々に私の名を呼んでは驚いていらして。
殿様は、一瞥私の顔を見てだけで、何も仰らなかった。
母衣衆の方々も、大将である殿様でさえも、みなそのお姿は傷だらけで、その表情は憔悴しきっていて、この戦の悲惨さが私にも伝わってくる。
それでも、みなが無事でいてくれた・・・
良かった・・・
「殿様も、皆さまも、ご無事のようで良かった・・・」
安心で思わず、身体から力が抜ける。
負け戦だったかもしれない。
散々たる、敗戦だったのかもしれない。
でも、殿様がご無事でいらしたのなら。
皆さまがご無事でいらしたなら。
きっと、織田家はまた再起できるはず・・・
「・・・っ、吉乃殿・・・っ!!」
「ところで、弥平次さまはどこにいらっしゃるのでしょう・・・殿様?」
弥平次さまのお姿が見えなくて、私は殿様に尋ねる。
弥平次さまのことだ。近くで怪我人の手当でもなされているのか。
それとも一足先にお城に向かって、救援を呼びに行ったのか。
どこかで、入れ違いになってしまったのかな・・・
「・・・殿様?」
私の問いに、誰も、何も仰らない。
・・・あれ、聞こえなかったのだろうか?
「・・・殿様? 弥平次さまは、いずこに?」
みなの顔色が、一斉に曇る。
明らかに、言えないことを隠しているような表情で。
私は、意味もわからず胸がざわつく。
ざーっと、岩を穿つ木曽川の水の音だけが聞こえていて。
「・・・・・・、殿様・・・?」
「死んだ」
えっ・・・
「弥平次は、死んだ」
淡々と、殿様は言った。
「・・・今、なんて・・・」
その短い言葉でも、私は殿様の仰ったことが全くわからなかった。
なにを、仰っているの・・・殿様は・・・
「・・・弥平次は、美濃で死んだ」
「何度も、言わせるな」殿様は、苛立ちを滲ませた口調でもう一度言った。
それでも、それでも、私は殿様の言うことがわからなかった。
何を、仰っているの・・・
死んだ?
死んだ・・・?
自らの耳を疑う。聞き間違いだとしか、思えなかった。
「何を仰っているのですか・・・いくら殿様でもそんな冗談、全く面白くないですよ」
私は、殿様の言葉を鼻で笑った。
また、殿様はいつものように私をからかって楽しんでいるだけなんだ。
殿様に出会ってから、私が何度この方に振り回されてきたことか。
・・・さすがに私だって、そろそろ学んでいるんです。
どうせまた、いつもの戯れで・・・
けれど、誰も笑ってなどいなかった。
笑えるはずなんてなかった。
だって、戦で・・・負け戦で・・・
みな、傷つき憔悴しきっていて・・・
戯れなんて、言える現状ではなくて・・・
「・・・まこと、なのですか・・・」
事実は、誰にも変えられない。
殿様にも。
・・・私にも。
「・・・いや、だって・・・そんな・・・そんなはず、ないではないですか・・・」
だって、弥平次さまは仰ったのですよ・・・
すぐ、戻る。と・・・
「・・・申し訳、ありません」
ぼそりと、五郎左殿が私に言った。
悔しそうに、心底悔しそうに、唇を噛みながら。
「弥平次様は、殿を逃がすための殿軍に・・・私は、殿を逃がすことだけで精一杯で・・・弥平次様を・・・っ!!」
「申し訳、ありませぬっ・・・」五郎左殿は、私に頭を垂れてくださった。膝を地につけて、大粒の涙を零しながら。
「首級も、何も、持ち帰ることすら出来なかった・・・っ!!」
「申し訳ない」と、何度も頭を下げる。そのお姿がとても痛々しくて、私は五郎左殿を見ていられなかった。
お侍さまが、女の私に頭を下げるなんて・・・
「やめて、ください・・・五郎左殿・・・頭など、下げないでください・・・」
いたたまれなくて、私は思わず五郎左殿に申し上げていた。
「謝らないでください・・・それでは、まるで・・・」
まるで・・・
「弥平次さまが、まことに死んだようではないですか・・・っ」
涙が、溢れ出していた。
感情が、溢れ出していた。
弥平次さまが死んだだなんて信じられなくて。
信じたくなくて。
「・・・っ、いや・・・」
・・・いや。
・・・嫌だ。
いやっ・・・嫌・・・嫌っ・・・!!
弥平次さまが、死んだなんて・・・
そんなの、絶対嫌だ・・・っ!!
「嫌・・・いやぁ・・・」
私は、声を出して泣いていた。
涙が、止まらなかった。
ほろほろと、雫が頬を伝っては落ちていく・・・
その様が、まるで弥平次さまの首級が落ちていくようで、私は苦しくて堪らなかった。
嗚咽が、止まらない。
嫌だ嫌だと、私はただひたすらそれだけを繰り返していた。
それ以外のことを、何も考えられなかった。
どうして・・・
どうして・・・っ?
すぐに戻ると、仰ったではないですか・・・
なのに・・・どうして・・・っ
お類を、
私を、
置いて行ってしまわれるのですか・・・
「弥平次、さまっ・・・」
泣き崩れる私に、誰一人として声をかけるお方はいなかった。
みな、じっと私の泣き崩れる様を見守ることしか出来なかった。
けれど、私はもう泣くことに夢中で。
他のことに気など回す余裕もなくて。
声が涸れても、全く涙が枯れる気配はなくて。
この苦しい想いが枯れる気配は、もっとなくて。
私は、殿様の目の前で
延々と、泣き続けていたんだ。
・・・こうして、後に『道三崩れ』と呼ばれる美濃の政変は終わりを告げる。
斎藤道三という巨星の死と、
織田に、尾張に、多大な傷跡を残して・・・
私は、
この戦で、
初めて、
大切なものを、失った。




