四十七話 『退き陣ノ果てに』 一五五六年・土田弥平次
「・・・っ、頃合いですか」
息を切らせながら、五郎左はふと呟いた。
「・・・殿、そろそろ退却すべきです」
周りの部隊が木曽川を渡りきったのを見計らって、五郎左が殿へ意見具申する。
いくら私達が善戦しているとはいえ、敵は大軍。
その数は、目に見えてますます増えていく。
馬廻りの兵たちも、疲労の色が濃くなっているように見えた。
このままでは、確実に敵の攻めに押しつぶされてしまう。
殿は五郎左の言葉に力強く頷き、
「馬廻りどもっ、退却を始めるっ!!」
そのように、馬上から号令をかけた、その時だった。
不意に現れる、騎馬の姿。
「信長っっ、覚悟っ!!!」
・・・っ、まずい!!
敵の騎馬武者が置き盾の防衛を破り、本陣の中まで侵入を許してしまう。
太刀を振り上げ、一直線に殿へ目掛けて向かってくる。
私は、無意識の内に身体が動いてしまっていた。
何かを考えて動いた訳ではない。ただ、殿に危険が迫ったことに焦り。
殿へと向かう騎馬武者の前に立ちふさがり、真正面から騎馬の突撃を受け止めていた。
鉛を落としたような、鈍い音が響く。
敵の騎馬は悲痛な声で鳴き、その場で倒れる。騎乗していた武者は、そのまま落馬してしまう。
そして私は、全身に激しい痛みを感じながら思い切り吹き飛ばされていた。
「っ、弥平次っ!!」
「弥平次様っ!!」
殿と五郎左が、私の名を呼ぶ・・・
「・・・っ・・・と、の・・・」
なんだ・・・これは・・・?
苦しい・・・息が、出来ない・・・?
全身に針が刺さったように、痛い・・・動かない・・・
それでも、私は・・・
必死の思いで、叫んでいた。
「・・・殿っ、早く・・・お逃げをっ!!」
守りは突破された。
本陣は完全に瓦解した。
敵の軍勢が、すぐ押し寄せる。
・・・殿が、死ぬ。
「早くっ、早くっ、・・・殿・・・っ!!」
「何を言っているっ!! 馬鹿を申すな弥平次!!」
私は珍しいものを見ていた。
あの殿が。無愛想で天邪鬼な殿が。
自らの感情をむき出しにされて、動揺されていた。
顔を真っ赤にされて。唾を飛ばしながら、なりふり構わず叫んでいる。
・・・その目が少し潤んでいるように見えるのは、気のせいか・・・?
普段から無表情で冷徹な殿の感情的な様を見て、何だか嬉しくて笑みが零れてしまいそうだった。
激痛で働かない頭で、私は思う。
・・・あぁ、本当に私は主君に恵まれている、と。
この方のためなら、私は武士として・・・
「五郎左っ!! 早くしろっ!!」
私は、最後の力を振り絞り五郎左に怒鳴りつけた。
五郎左は苦心の表情で私に頭を下げると、無理やり殿の馬に同乗する。
「・・・っ、弥平次様・・・御免っ!!」
「五郎左っ、お前まさか・・・っ!!」
五郎左が殿から馬の手綱を奪い。
「待てっ、お前弥平次を置いて・・・っ!!」
殿の意を聞かず、五郎左は手綱を引く。
殿の馬は力強く首を振って、そのまま川岸にかけていく。
「待てっ・・・弥平次っ!! 弥平次・・・っ!!」
動揺する殿を尻目に、二人乗せた殿の馬は川岸に向かっていく。
・・・あぁ、そうだ。それでいい。
馬好きの殿の馬は、自他ともに認める名馬だ。
殿と五郎左、二人を乗せてもきっと木曽川を越えることが出来る。
馬に飛ばされたときに足を折ったようで、思うように歩けない。
あばらが五臓のどこかに刺さっているのか、上手く息が出来ない。
激しい、目眩がする。
・・・・けれど、まぁ。
殿を無事逃がせたのだから。
根無し草の私にしては上出来か。
背後から近づいてくる敵の雑兵に気が付きながら、私は他愛もないことばかりを考えていた。
・・・あぁ、吉乃殿。
・・・私の、愛しい人。
・・・私の妻となってくださった人。
・・・私の娘を産んでくださった人。
・・・共に、生きてくださった人。
・・・笑わないでください。
私は、まだ・・・
貴女に、会いたいと思ってしまうのです・・・




