四十六話 『大将ノ姿』 一五五六年・土田弥平次
道三様が、死んだ・・・
私は全くもって、その事実を受け入れられなかった。
信じ、られない。
あの道三様が、死ぬのか・・・?
一代で大国を築いた、傑物だった。
人の子だと思えなかった。
あの方は、天狗か妖怪、魑魅魍魎だと思っていた。
それほど、私にとっては大きなお方に見えた。
殺しても死なないのだと、例え万の軍勢に囲まれてもあのお方はきっと生き延びられるのだと、胸の内のその片隅でなんの疑いもなく思っていた。
だからこそ、織田家で道三様を救おうと私は思ったのだ。
救えるのだと、私は思ったのだ。
だが・・・
「っ、死んで、しまわれた・・・」
戦場の中、呆然としてしまっていた。
何も、考えられない。頭が働かない。
全て、水泡に帰したのか・・・
その事実だけが、白紙の頭の中を埋め尽くす。
・・・負けた。
負けた。
完膚なきまでに、負けた。
軍勢を出し、道三様を救うことも叶わず、敵地の中で大軍に囲まれた。
背後を木曽川に阻まれ、街道も抑えられ、退く術もない。
私達は、
織田家は、
この美濃の地で、蛆に喰われた牛の死骸のように朽ちていく。
私が、兵を出すよう殿に意見具申をしたから・・・
「奸物・道三は死んだっ!! 神仏の加護は、我らにあるぞっ!!」
物頭らしき敵の将が、馬上から高らかに叫ぶ。
「この勢いで美濃を犯す織田を押し潰せっ!! 信長をっ、殺せっっ!!」
その命を合図に、敵方は総攻めを仕掛ける。
森の中から、敵の雑兵が蟻のように現れる。
味方の勝鬨を聞き、士気がぐんと上がった敵勢は一気に織田の陣を崩そうとかかる。
・・・っ、もう、終いか・・っ!!
そう、私が思わず瞼を閉じかけたとき
「臆するなっ!!」
殿の声が、戦場に響いた。
その声があまりに大きく、聞こえた織田の兵はみな殿へと視線を向ける。
殿は、まっすぐ前を見つめていた。
襲い掛かってくる敵の軍勢に、一寸たりとも目を離さない。
背筋を伸ばした、堂々とした大将の姿のままで。
この、最悪の状況の中、
いまだ、
殿は、諦めておられなかった。
「俯くなっ、前を見ろ!! まだ戦の最中であるぞっ!!」
殿の激励を耳にした織田の兵は、みなはっとする。
「お前達は、この信長の兵卒ぞ・・・勝手気侭に死ぬは俺が赦さんっ!!」
殿は、続けて言う。
私は、その殿の言葉に聞き惚れていた。
「尾張武士の意地があるなら、俺の役に立て!! 俺のために死ねっ!!」
あぁ、やはり我が殿は・・・私の主君は・・・
とても、とても、大きな将器を持っている・・・
「このようなくだらぬ場で命を散らすは、この信長が赦さんぞっ!!」
殿の言葉に、全身から武者震いがこみ上げてくる。
・・・殿の仰る通りだ。
まだ、戦は終わっていないっ!!
殿の激励に触発されて、敗北的な空気が流れていた織田勢に再び熱を帯びたように勢いを取り戻し始めていた。
一気に、織田勢の士気が上がる。
「全軍、退けっ!!」
殿は間髪入れず、退き陣の命を下した。
「全兵、甲冑を脱ぎ捨てよっ!! 木曽川を泳いで渡れっ!!」
「退き陣じゃ、退け!!」
「殿の命じゃ、退けっ、退け!!」
織田勢が、一斉に川岸に向かって退却を始める。
敵勢に背を向けた、退却戦。
木曽川を泳いで渡らなければいけないため、槍も甲冑も捨てた無防備な退き陣。
迫りくる敵の寄せを防ぐため、誰かが最後まで残って敵勢を喰い止めなければならない。
退き陣には、『殿軍』が要る。
「退けっ、退けっ!! 殿軍は、この信長が務めるっ!!」
殿は馬上から高らかに叫ぶ。
「種子島を貸せ」
殿は馬廻りの一人から鉄砲を受け取ると、騎乗したまま素早く構えて引き金を引く。
殿の放った鉛玉は、迫り来る敵の騎馬武者に当たりそのまま敵は落馬していく。
その様子に、敵勢の注意が一斉に殿のいる本陣に集中する。
退き陣の号令がかかっているはずなのに一向に撤退の気配を見せない本陣を。
そしてそこに未だ、総大将の織田信長がいることに。
大将自らが殿軍を務めるなどと、聞いたことが無い。
けれど、それが殿の狙いだと織田勢のみなはわかっていた。
敵兵にとって、大将・織田信長の首を上げることが一番の武功に決まっている。
殿が殿軍に名乗りを上げれば、必ず敵の寄せは全て本陣に集中する。
その隙に、他の部隊が撤退できる機会が生まれる。
みなで、尾張に戻るために。
私達はみな、織田信長という大将を信じているから。
「馬廻りどもっ、功名の入れ喰いだぞっ」
本陣に向かってくる敵の寄せを眺めながら、殿はにやりと笑みを浮かべる。
殿の言葉に、馬廻りの部隊はすぐに応戦を開始した。
「置き盾で本陣囲めっ!! 殿をお守りしろっ!!」
五郎左の指示で、馬廻りの兵は守衛を固める。
「鉄砲隊、前へっ!! 十分引きつけろ・・・っ!!」
「放ていっ!!」
五郎左の合図とともに、一斉に発砲する。
眩いくらいの閃光と、大きな発砲音。その後に漂う火薬の匂い。
迫りくる敵兵が、ばたばたと倒れていく。
「弓隊前へっ、放てっ!! 絶えず撃ち続けろ!!」
濁流のように本陣に流れ込んでくる敵の寄せを、守戦に徹して何とか押さえ込む。
大良河原は混戦の場と化し、私も、五郎左も、殿でさえも、弓鉄砲を手にして応戦した。
敵の矢が、私の頬を掠める。
恐ろしくて、恐ろしくて、堪らなかった。兜を被っていなかったら、きっと頭を持っていかれていた。
私は武芸に秀でていた武者ではない。殿軍など不相応だと、わかっている。
けれど・・・
「退いてよいのだぞ、弥平次」
殿が種子島を撃ちながら、私に軽口を叩く。
「馬鹿を申されますな。主君を置いて逃げることなど、出来ましょうか」
私は、そんな殿の言葉を鼻で笑った。
「私だって、武門の意地があります」
意地が、あるのだ。
意地を張るべき、約束があるのだ。
『夫婦として共に、殿様を支えていきましょう?』
あの日。
夕焼けも下で吉乃殿と交わした約束。
夫婦の、約束。
夫婦であるための、約束。
吉乃殿は私との約束のために、懸命に武家の嫁を務めてくださっているのだ。
私だけ殿を置いて、逃げることなど出来やしない。
約束を違えることなど、出来はしない。
殿を、守らなければ。
吉乃殿との誓いを、守らなければ。
『ご武運を、お祈りしております・・・』
『・・・どうか、ご無事にお戻りください』
出立の前に、吉乃殿にかけていただいた言葉。
すぐに戻ると、私は自らの口で言ったから。
「帰りましょう、殿。帰蝶様の下へ」
お類と・・・吉乃殿の、下へ。
「無論のことだ」
殿は、いつものように無愛想に言葉を返す。
それでも、今までの長い付き合い。無愛想の裏にある殿の本心なんて、私にとっては掌の中を見るようで。
殿と、織田信長様とこうして肩を並べて戦をすることが、私にとってはとても誇らしかった。




