四十一話 『戦ノ前夜』 一五五六年・吉乃
・・・脛当て、よし。篭手・・・よし。兜よし。
太刀も綺麗に研がれている。弓もきちんと張ってある。まぁ、こちらは弥平次さまが手入れをしていた部分だけれども。本当、器用な方だな私の旦那さまは。
ひとつひとつを指差して見落としがないか確かめると、私は意気揚々と弥平次さまのところへ向かう。
「・・・弥平次様。甲冑の準備、終わりました」
「ありがとうございます。すみません、夕餉まで作ってもらってさらに甲冑の準備などと・・・」
弥平次さまは申し訳なさそうに夕餉を食べながら、そんなことを仰った。
「何を仰っているのですか。夕餉の支度も、旦那さまの戦支度のお手伝いも、武家の妻として当たり前の務めです!! むしろ本懐です!!」
「すっかり武家の嫁が板についてきましたね、吉乃殿」
軽口を叩いて、弥平次さまは優しそうに笑った。
明朝、戦に出るとは思えないほど弥平次さまは落ち着いていらして。
普通は緊張したり気が昂ぶったりするものじゃないかと思うのだけれど、弥平次さまは普段と変わらない様子で。
なんというか、武士らしくないというか・・・まぁ、それが弥平次さまらしいとは思うのだけれど。
先日、美濃で大きな戦が始まった。
斎藤道三公の嫡男、義龍の反逆から始まった美濃の騒動は義龍が居城の稲葉山城を奪取、道三公が美濃北部の大桑城に逃げ込むことで、稲葉山城の義龍の軍勢と大桑城の道三公の軍勢が睨み合うような形になった。
けれど義龍勢二万に対して道三公は三千にも満たない軍勢。このまま籠城の睨み合いを続けても勝機がないと見た道三公は、いっそのこと野戦で決着をつけようと打って出て。
長良川を挟んで両軍が向かい合い、美濃を割る大戦が始まった。
その知らせを受けた殿様は、すぐさま陣触れの号令をかけた。
明朝、日も昇らないうちから弥平次さまは織田家の軍勢と美濃へ赴く。
斎藤道三公を、救い出すために。
「妻としても功名を期待しておりますよ、弥平次さま!!」
「・・・私が算盤侍で槍働きが出来ないこと、吉乃殿もよくご存知でしょう」
戦を前に奮い立ってもらおうと景気の良いことを私が言うと、それを嫌味に受け取ったのか弥平次さまは顔を歪ませて口を尖らせる。
「私は五郎左と共に殿のお側で馬廻り・・・後方です。功名頭の先駆けは犬千代や内蔵助に任せています。それに此度は・・・勝ちにいくのではありませんから。道三様を尾張へ逃がすことが、命題です」
「それはわかっていますけれど・・・私が嫁いで初めて旦那さまが出陣なさるのです。どうしても、応援したいという思いを持て余してしまって・・・」
反省します・・・と私は肩を落とす。
すると、弥平次さまは可笑しそうに笑った。
「戦に出る私よりも、吉乃殿の方が血気盛んで武士らしい。私も吉乃殿の気概を真似しないといけませんね」
「・・・もう、お戯れはよしてください」
弥平次さまにそうからかわれて、私は心の底から恥ずかしかった。
土田家に嫁いで、もう二年も経つのに。子宝だってもうけた三十路なのに。
そっか・・・どうやらまだ私は『男勝りの巴御前』が抜けていないらしい。
誰よりも弥平次さまにまでそのようにからかわれたのは、少し落ち込む・・・
「私だってこれでも、もっと奥ゆかしくならねばと精進しているのですから」
お類の母として。
弥平次さまの、妻として。
恥ずかしくない女でありたいって思う。
弥平次さまは、いつも私のことを尊重して甘えさせてくれるけども。
それはとても嬉しい。ありがたいって、本当に思う。
でも、それで旦那さまに甘えてばかりだと、きっと駄目だろうから。
「私は今の吉乃殿で充分だと思いますよ。吉乃殿は今のままでも魅力のある好ましい女子です」
「また弥平次さまはそのようなことを仰って・・・」
「本心なのですから。私の妻になっていただいた、可愛い娘も産んでもらった、これ以上に望むことはありません」
「そう、そこなのです弥平次さま!!」
私はぐっと真剣な表情をして、力強く弥平次さまに訴えかけてみる。
嫁いでから気づいたことだけれども、私の旦那さまは意外と頑固だ。普段はとても優しくて私を気遣ってくれるのに、変なところで意固地になってしまうと梃子でも聞き入れてくれない。
そうなってしまった弥平次さまを説き伏せるには、本当に骨が折れる。
それは私のことを想ってくれているからだとわかっているけれど、それじゃ駄目なことだってあるんじゃないか・・・
「私だってこれでも曲りなりに武家の妻になったのです。お類は確かに弥平次さまの可愛い子で、大事に育てていきたいと思っておりますけど・・・次はちゃんと、土田家の世継ぎを・・・男子を産みたいって、思ってます・・・!!」
・・・言い切ったっ!!
恥ずかしさで顔が熱くなるなかで、なんとか臆せずに私は弥平次さまに訴えかける。
夕餉の席に言うことではないかもしれないけれど。
女から子を求めるなんて、はしたないこと極まりないと思うけれど。
弥平次さまのことだ。強引にでもそう進言しないと、本当に男子を産まなくても赦されそうで、少し怖い。
世継ぎをつくることが、武家の妻の最大の務めなのだから。
けれど、弥平次さまは
「大丈夫ですよ、吉乃殿。子は神仏の恵み、そう気負ってくださいますな」
「でもっ・・・」
「私は貴女とお類がいればそれでいいのです」
また、そのように優しいことを言う・・・
本当、ずるい旦那さまだ・・・
「良くありませんっ!! 土田の家はどうするつもりなのですか・・・!?」
「根無し草が立てた家です。一代で途絶えるなら、それが天命なのでしょう」
「そのようなこと・・・」
弥平次さまの言葉を、私は腑に落ちない心地で聞いていた。
まるでお武家さまとは思えないことを仰る弥平次さまは優しい表情で、その声も凪の日の波のように穏やかで、心の底からそう思っている、そんな顔をして。
戦の前に喧嘩などしたくなかったから口を噤んだけれど、内心納得できなくて。
どうしてこの人は、このようなことを仰るのだろう・・・
私はこんなに真剣に考えているのに。
土田の家のため、なにより弥平次さまのためなのに・・・
『天命』だなんて言わないでほしい・・・
弥平次さまは、無欲な方だ。それが弥平次さまの美点なのだけど。
けれど、今はその無欲がもどかしい。
もっと求めてほしい。欲してほしい。
弥平次さまの無欲は、罪だ。
「・・・ただ、ひとつだけ望みを口にしていいのなら」
弥平次さまは、そっと私に微笑みかける。
「お類が大きくなったら・・・商人にさせてあげてください」
えっ・・・
弥平次さまは、確かにそう仰った。
予想外の言葉に、私は思わず目を丸くしてしまう。
「そんな、よろしいのですか・・・?」
「生駒屋にも跡取りは必要でしょう。吉乃殿の娘です、きっと立派な商人になります」
「いや、でも・・・」
お類は土田の家の、武家の一人娘。
だからいつかはどこかの武家の家に嫁ぐことになるのだって、そういうものなのだって、私はなんとなく思っていた。
だからこそ、どこに出しても恥ずかしくないような女子に育てなければと。
それを、私の旦那さまは真反対のことを言う。
「私は、お類に吉乃殿のような女性になってほしい」
「いやいやっ、そんな私みたいな女になったら駄目ですよっ・・・!!」
男勝りだの巴御前だの言われて市井の男どもから恐れられる女になんか、させられない!!(自ら言って実に悲しいけれど)
「何を仰るのか、私は吉乃殿に惚れて妻になっていただいたのです。自らが好いたお方のようになってほしいと思うのは、可笑しいことですか?」
「っ、そのように仰りますか・・・っ」
私は返す言葉もなく、口を噤んでしまう。
旦那さまがそんなこと仰るなんて、とても卑怯だ・・・
そんなの、何も言えなくなってしまう・・・
「・・・その言い方は、ずるいです」
私を持ち上げて。
色恋を持ち出して。
みずからの意を、押し通そうとするなんて。
私が、断れる訳がないではないですか・・・
「弥平次さまは、策士です・・・」
気恥ずかしくて、そう弱々しく反論するだけで精一杯だった。
弥平次さまはそんな顔を赤くした私に満足そうな顔をして、可笑しそうに笑う。
「当然です。伊達に長年、織田信長様の下で仕えている訳ではありません」
「だからって、その謀を私に向けなくてもよろしいではないですか・・・」
少し悔しくて、私は口を尖らせてそっぽを向いた。
本当に・・・・
いつも弥平次さまに手玉に取られているようだな、私・・・
好ましいような、腹立たしいような。
そんな、不思議な感覚に包まれて。
ゆっくりと、戦の前の夜は更けていく。




