三十六話 『夫婦ノ夕餉』 一五五六年・吉乃
先日、お類に初めての桜を見せてあげた。
小折の屋敷には父上が植えた大きな桜の木があって、今年も色鮮やかに桃色の花をたくさんつけた。
お類が生まれて以来、屋敷に篭もって子育てに没頭する日々が続いていた。そうした四季の移り変わりを部屋の中から垣間見ることが久々で、あまりに嬉しくて私はついはしゃいでしまったんだ。
母になってもやっぱり私は生粋の商人で、性根から男勝りの『巴御前』なんだなと思ってしまう。部屋に篭もるよりも外に出たほうが楽しい性質なのだろう。
当然、お類に桜の美しさがわかるはずもない。やっと首が据わったばかりで、まだ立つことも話すことも出来ないのだから。
お類が歩くことが出来るようになったら、一緒に色々な所へ行こう。
尾張にある綺麗なものを楽しいものを、たくさん見せてあげよう。
青々とした田や、伊勢の海や、道樹山の真っ赤な紅葉。それに、津島の町の喧騒。
きっと、お類は喜んでくれるだろう。
お類の笑った顔を見れば、きっと私も嬉しいだろう。
そんな近い先の楽しみを夢見つつ、その夜城勤めから戻られた弥平次さまに他愛もない話をした。
「吉乃殿も、もうすっかり母の顔ですね。お類が可愛くて仕方ないと見えます」
夕餉を食べながら、弥平次さまは微笑ましそうに笑った。
「こんな優しい顔をした母が、尾張の国主様に喧嘩を売った女商人だなんて誰も思わないでしょうね」
からかうように、弥平次さまは言う。
その言葉に、私は思わずふくれた。
「それは昔の話です・・・弥平次さまこそ、人のことが言えますかっ。まだ乳しか飲めぬ時分から、お類に食べさせてやるのだと桃やら葡萄やら持ってきて・・・娘に首ったけなのはどちらの方なのか・・・」
娘を可愛がってくれるのは母として嬉しいけれど、いくらなんでも気が早すぎる。
気の優しい弥平次さまのことだ、子煩悩になるとは思っていたけれど私の予想以上に娘が愛らしくて仕方ないらしい。
泣きじゃくるお類をよくあやしてくれるし、夜なんていつも私からお類を取り上げては布団の中で寝かしつけてくれている。親子二人幸せそうに眠るその寝顔を見るのが、今の私の密かな楽しみだ。
弥平次さまの娘を可愛がる様はあまり武家らしい行いではないとは思うけれど、その分『弥平次さまらしい』と私は思っている。
「それは・・・申し訳なかったと思っています・・・」
しゅんとした顔で、弥平次さまは私に頭を下げる。
その様が、なんだか愛らしくて私はつい笑ってしまった。
弥平次さまは未だに、私のことを『吉乃殿』と呼ぶ。
私に対して、丁寧な言葉遣いを崩そうともしない。
あなたさまの嫁なのだから、「吉乃!!」と呼び捨てにしてくれていいのに。
そんなかしこまった話し方ではなくて、もっとぶっきらぼうな言葉で構わないのに。
私はあなたさまを下から支える、『土田弥平次の妻』なのだから。
そうは思うのだけれど、弥平次さまは頑としてその接し方を変えてはくれなかった。
嫁いですぐに、一度弥平次さまに怒ったことがある。
「『吉乃っ!!』と、呼び捨てで呼んでくださいっ!! ああしろこうしろと、もっと亭主らしく偉そうに仰ってください!! 私に丁寧な言葉を使うのは、禁止です!!」
「いいえ、吉乃殿の頼みでもそれだけは断ります!!」
それが、夫婦初めての口喧嘩になった。
こんな理由で喧嘩になる夫婦なんて、きっと私たちしかいないだろう。
普段はとても優しく私の意見を聞いてくれる弥平次さまも、これだけは頑として聞き入れてくれなかった。
なんて意固地な人なんだろう・・・!! と、私は驚いて。
『武士に二言はない』とは言うけれど、そんなところで武士らしさを出さなくても・・・と内心呆れたことを覚えている。
結局私が折れてしまって、それが今まで続いている。
私のことを想ってくれている。
人として、女として、妻として、尊重してくれている。
その現れなのだとはわかっているけれども・・・
本当は、嬉しいのだけれども・・・
他所様からには、私が旦那さまを尻に敷いているように見えやしないか・・・?
それが、とても心配だった・・・
「・・・ご馳走様です。今宵も、大変美味しかったですよ」
夕餉の膳を綺麗に食べ終えると、弥平次さまは箸を置いて私に微笑みかけてくれた。
弥平次さまは私が作った拙い料理でも、いつも美味しそうに食べてくれる。誰かのために料理を作るだなんてこの家に嫁ぐまでしたこともなかったけれど、美味しそうに食べてくれることがこんなにも嬉しいことだなんて、嫁いで初めて知った。
炊事も家事も、正直に言って私は全く上手くないと思う。幼い頃から商いばかりで、女として必要な嫁入りの手習いは全く持って手付かずのままで。
けれど弥平次さまに嫌な思いはさせたくないからと、最低限のことは出来るようになろうと右往左往しながらもしゃにむに頑張った。
未だに嫁としての務めをちゃんとこなしているか自信はないけれど、飯を炊くことと魚を焼くことくらいはなんとか様になるようになって。
「すぐに酒と肴を用意しますね、旦那さま」
「まこと、いつもかたじけない吉乃殿。私などのために」
「何を仰いますか。私はあなたさまの妻ですよ、当然の務めではないですか」
私は酒の準備をしながら、胸を張って言う。
「それに・・・お酒は、ご同伴に預かるために用意するのです!!」
商人が、無料で酒を出してやるものかっ。
舌を出して、私は笑った。
そんな私を見て、弥平次殿は苦笑する。
「相変わらず抜け目のない・・・さすがは『商人の姫』・・・」
「有能な女を妻としたでしょう・・・弥平次さま?」
「えぇ、全くです」
そのような冗談を言い合いながら、私は弥平次さまの盃に酒を注ぐ。
お類は、さきほどたんまり乳を飲んで今は眠っている。
今は私と弥平次さまの二人きり。夫婦だけの、静かな時間・・・私たちだけの、晩酌。
「・・・あぁ、そういえば。何やら近頃、美濃の景気が良いらしいですね」
ふと、私は他愛もない話を弥平次さまに投げかける。
弥平次さまは盃を傾けながら、「美濃が?」と首を傾げた。
「先日も、生駒の父が屋敷にいらして。津島の様子を尋ねたとき、そういう話が出たのです」
私の父は隠居から復帰したというのに、孫の顔を見に来たとよくこの屋敷に入り浸っている。
全く、店のことを全て任したというのにあの父はまだ隠居の感覚が抜けていないらしい。孫が可愛くて会いに行きたくなる気持ちは理解できるけども、今は小折の屋敷は土田の家なのだから、少しくらい節度を持ってもほしいと思っている。
けれども、子育てに手一杯で屋敷の外に出ることができない今の私にとって、父が度々来てくれることは数少ない情報の種になっていることも確かだった。
父が仕入れてきた津島の商いのことや風の噂を、私がこうやって弥平次さまにお伝えする。それを、弥平次さまが殿様にお伝えして尾張の政の糧にする。
私と弥平次さまが夫婦になるときに誓った大切な約束。
夫婦で、力を合わせて殿様を手助けしていく。
それが、私たち二人の重要な役目でもある。
お類が生まれて私は動けないから代わりに父がこうして動いてくれて、本当に助かっている。内心ありがたいとは思っている。
それを言うと、父はきっと図に乗るだろうから口にはしないけれども。
「なんでも近頃、お得意のお客さんで美濃と商いをする商人が増えたそうで。会合衆の中にも、美濃と付き合いのある旦那もいるらしいです。津島に集まった米も、かなりの量が美濃に流れていると言っていました」
随分と、景気がいい話だなって思った。
美濃は、山国ながらも尾張よりも国力のある大国だ。傑物と言われる斎藤道三公が治める国で、道三公の治世になってから前の国主さまと比べ随分と豊かになったのだと聞いている。
きっと、今度は道三公が美濃で商いの推奨を始めたのだろうなって思った。美濃の商人連中は今頃ぼろ儲けに違いない。
羨ましい話だって思う。尾張の商人も、うかうかしていられない。
そんなことを思いながら弥平次さまにお話をしていると、弥平次さまは不思議そうに首を傾げた。
「津島の米が、美濃に・・・?」
「なにか、気に掛かることでも・・・?」
「えっ、いや・・・なんでもありませんよ。思わず郷里が懐かしくなってしまって。それよりも、お酌をお願いできますか?」
弥平次さまは、たどたどしく私に盃を差し出す。
そんな弥平次さまの態度を不思議に思いながらも、私は言われるがまま盃にお酒を注いだ。
そういえば、弥平次さまから美濃のことをお聞きしたことはないなぁ・・・
旦那さまがあまり自らの過去を語りたがらないことは知っている。
「美濃の土田家は兄が継いでくれていますから、気にせずともいいですよ。私はもう美濃の者ではない、織田信長様の家来で尾張の武士なのですから」
そんなことを口にして、すぐ「私は根無し草です」と逃げてしまう。
それでも、父母兄弟を故郷に残してきたのだから、やっぱり美濃のことは気になるのだろうとは思う。
いつか、私も美濃に行ってみたいと思う。
弥平次さまのご実家に、きちんと挨拶をしたいと思っている。
織田家から禄を貰った武家の者が、他国の領地を簡単に踏めないことはわかっているけれど。乳飲み子を連れて遠出なんて出来ないけれど。
いつかは・・・
「・・・弥平次さま。私も、少しいただいてよろしいですか?」
「当然です。さぁ、どうぞ」
お類が夜泣きをするまで、夫婦二人きりの楽しい晩酌は続いていった。




