三十四話 『二人ノ恋』 一五五四年・土田弥平次
「・・・貴女に、会いに来ました。吉乃殿」
私は、真剣な表情で馬上から吉乃殿を見つめる。
「お話が、あります」
何事かと、吉乃殿は目を丸くする。
全く緩まない私の表情に、一切逸らさない私の視線に、吉乃殿はただただ戸惑い
「歩きながら、話しましょうか・・・」
そして、困ったように苦笑いを浮かべてそう言った。
その苦笑に、胸が苦しくなる。
吉乃殿に、こんな顔をさせてしまっている。
私が吉乃殿に笑ってほしいのは、こんな自らを隠した苦笑いではないはずなのに・・・
それから、吉乃殿と二人馬を並べながら来た道をとぼとぼと戻っていく。
日はすっかり暮れ、田も山も道も薄衣を透かしたように朱色に染まっている。まだ畑仕事をしている百姓などはもういない。ただ長い一本道のあぜ道には、私と吉乃殿、二人きりだった。
人気のないところで吉乃殿と二人きりになるのは初めてだと、ふと思った。
「・・・もう、聞きました?」
不意に、吉乃殿は私に尋ねた。
私が話をしたいことは縁談のことだとわかっているのだろう、吉乃殿は具体的な言葉を避けて気恥ずかしそうにそれだけを尋ねる。
私は何も言わずに「はい」とだけ答えた。
「・・・変な、心地ですよね。私と弥平次殿が夫婦になるなんて」
冗談でも言っているように、吉乃殿は笑みを含ませてそう言った。
夫婦になる・・・
吉乃殿から実際にその言葉を聞いても、未だに現実感が感じられなかった。
「お城から父にお話があったそうで・・・驚きですよね。突然五郎左殿が店にいらっしゃって、父と店の奥で篭もりきりになっていたので何事かとは思ったのですけど・・・まさか、私への縁談話だなんて」
「五郎左が・・・」
「・・・まぁ、私たちもいい年ですし。散々、父からも早く嫁に行けと小言言われていましたし。良い機会なのかもしれません。これを逃すと、本当に二度と縁談話なんて来なくなってしまいそうですし」
「っ、そのようなことは・・・!!」
「巴御前だの、男勝りの商人の姫だの言われて私評判は悪いですから」
そんな、自虐めいたことを言いながら乾いた笑みを吉乃殿は浮かべた。
その笑顔すら、痛々しい。
どのように笑っても、それは私には強がりにしか見えず。
「・・・まことに、それでよろしいのですか」
堪えきれなくなり、私は思わず尋ねてしまう。
「私と、夫婦になってまことによろしいのですか」
私は、何も言わずに馬を止めた。
数歩進んで、吉乃殿も馬を止める。
振り向いた吉乃殿は、未だにその笑みを崩そうとしなかった。
私は一切笑みを浮かべないままじっと吉乃殿の顔を見つめていた。
「私と夫婦になって、まことによろしいのですか?」
もう一度、私は尋ねる。
「えっ・・・どうなさったのですか弥平次殿? 突然そのようなこと・・・」
「お願いです。答えてください」
「いいに決まっているではないですか。弥平次殿は立派なお侍さまで、私の嫁ぎ先としてはもったいないくらいで・・・」
「本心から、そう思っていらっしゃるのですか」
「無論です。私だって女子なのですから、殿方に嫁いで子をなして生駒家の跡取りをつくらないと・・・」
「吉乃殿!!」
私は大きな声で吉乃殿の言葉を遮る。
これ以上、そのような建前を聞きたくはなかった。
これ以上、吉乃殿に偽りの言葉を並べてほしくなかった。
どうして、作り笑いを浮かべるのですか・・・
どうして、納得してしまうのですか・・・
いつも、自らの心に真っ直ぐ進むお人が貴女ではないのですか・・・
まことは、貴女は・・・
「・・・殿を、好いておられるのではないのですか」
しぼるように声を出し、私は吉乃殿に問いかける」。
自ら口にしておきながら、その問いかけはあまりにも残酷だった。
吉乃殿が、そう申した訳ではない。
何一つ、確証もない。
けれど、間違いなく吉乃殿は殿に心惹かれている。
吉乃殿は、その問いかけに肯定も否定もしない。
何も言わないことが、吉乃殿の答えだった。
やはり、吉乃殿は・・・
「・・・どうして、この縁談を受けたのですか」
歯痒くて、歯痒くて、どうしようもなかった。
黒々とした感情が巣食い、胸が掻き毟られるような思いだった。
自らを偽る吉乃殿に対して。
自らを偽る私に対して。
人のことなど、責められた義理ではないのに。
己の想いに従順には生きてはいけないと、私自身が最も痛感しているはずなのに。
なのに、吉乃殿に対しては自らに正直であってほしいと思っている。
後悔をしてほしくない。満足してほしい。幸福でいてほしい。そう、強く願っている。
そして、それを吉乃殿に強いている。
私はなんて、自分勝手な男なのだろうか・・・
「・・・そのお心遣い、なんだかとっても弥平次殿らしいですね」
吉乃殿は穏やかに微笑み、そう言った。
その悟ったような態度も、私にとっては歯痒くて仕方なく。
「ありがとう、ございます。けれど、いいのです」
「何故ですか・・・っ!?」
「だって」
吉乃殿は、私を優しく嗜めるように言った。
「・・・私は商人で、殿様は国主さまです」
・・・っ!!
「・・・私は、帰蝶さまを裏切るようなことは出来ませんから」
・・・あぁ、そうだ。
わかっていた。
全て、初めからわかっていたことだ。
吉乃殿がどれほど殿を想っていようとも、決して結ばれないことは。
帰蝶様に子が出来ぬ限り、殿は吉乃殿の想いに応えることは出来ない。
姫様は、織田と斎藤の同盟の証として殿に嫁いできたのだ。
織田家にとって姫様は美濃という国の象徴で、美濃国主斎藤道三の代官とも言い換えることが出来る。
それを子も出来ぬうちから側室を囲んで姫様を蔑ろにするなど、美濃を、ひいては道三様を侮っているといっても同じだ。
殿が、織田弾正忠家が尾張の国主として君臨しているのは、美濃斎藤家の後ろ盾がとても大きい。
美濃との同盟があるからこそ、殿は清洲や岩倉といった分家とも渡り合っていけるのだ。
姫様を蔑ろにし道三様の怒りを買い、同盟破棄などということになれば殿はたちまち転落してしまう。
そのようなことを、殿が出来るはずもない。
それより。
なにより。
帰蝶様は吉乃殿の大事な友なのだ。
友の好いた男を奪えない。
吉乃殿なら、そう思って当然ではないか・・・
自分の浅慮さが嫌になる。
吉乃殿はそこまで理解して、それを受け入れたのだ。
それを、私は・・・
「私を案じてくださってありがとうございます、弥平次殿。けれど、私は大丈夫ですよ」
落ち込む私を励ますように、吉乃殿は言った。
「私は、弥平次殿の下に嫁ぎます。あなたさまの、妻になります」
そう申した吉乃殿の言葉に、澱みはなく。
強い決意を滲ませて、まっすぐ、私に微笑みかける。
その笑みは可憐で、力強く、とても吉乃殿らしい微笑だと思った。
きっと、私はこの笑みに惹かれて・・・
「ですから」
「夫婦として共に、殿様を支えていきましょう?」
共に、殿を・・・
「そうしようって、思えたのです」
私と、共に。
それが、吉乃殿の『答え』だというのですか・・・
例え、その想いが通じなくとも。
殿の側にいられなくとも。
私の妻として、殿の力になる。
それが、吉乃殿が示す想いの形なのだと。
きっと、私はそのようになど思えない。
今も、うじうじと悩んでは空回りを続けているというのに。
私は吉乃殿のように、腹を括ることなど出来はしなかった。
あぁ、なんて・・・
なんて、強いお人なのだろう・・・
「・・・駄目、でしょうか・・・弥平次殿・・・?」
吉乃殿は申し訳なさそうに上目遣いで問いかける。
別の男に尽くすため私と夫婦になってください、などど男に言えば、それは相手を怒らせても当然だと思う。
吉乃殿が不安そうな顔をするのも、当たり前だ。
きっと、私でなければ面子を傷つけられたと男の側は思うだろう。
けれど、私は
とても、とても、嬉しかった。
想いが届かなくとも、前向きに先を見ている吉乃殿に。
逆境でも機転を利かせ自らの心に嘘偽りなく生きようとしている吉乃殿に。
とても、吉乃殿らしい。
とても、好ましい。
そうだ。きっと私は、吉乃殿がこういうお方だから惹かれているのだ。
「・・・駄目などと、そのようなことあるはずないではありませんか・・・」
貴女が、そう決意なさったのならば。
ぜひ、私も力になりたい。
吉乃殿と私で織田家を、織田信長様を盛り立てていく。
それはきっと、とても楽しくやりがいのある日々のように思えた。
吉乃殿と肩を並べ殿を支える夫婦の暮らしは、きっと悪くない。
それは私にとって、これ以上ない幸福ではないか。
「よろこんで。ぜひ私に、殿に、お力をお貸しください」
吉乃殿に応えようと、私は精一杯の笑みを作って微笑み返す。
私らしくもないと思ったが、今の心情を出来る限り吉乃殿に示したかった。
これから手を携えて歩むお方に、何かをお返ししたかった。
吉乃殿は、うんと頷く。
これから夫婦となるお方とは、多くの言葉を受け取りはしなかった。
視線と笑みを交わす。それだけで、人の想いは伝わると、そのお方は知っていた。
私は、このお方と
吉乃殿と、夫婦になるのだ。
「一緒に頑張りましょうね、旦那さま」
夕日に照らされた私の妻は
とても、とても、美しかった。
・・・ということで、吉乃と弥平次は結ばれ夫婦になることになったのです。
長々とお付き合い頂いた『津島天王祭』編は以上になります。
このお話自体はまだまだ続きますので、これからもご贔屓によろしく願いします。
夫婦となった吉乃と弥平次、そして信長に尾張を揺るがす波乱の事態が襲いかかり・・・
次回より新章『長良川、稲生原。』編が始まります。




