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壱百九話 『米五郎左ノ悩み事』 一五六一年・吉乃



「きっと、一筋縄ではいかないのでしょうね・・・美濃攻めは」



 私は思わず、憂慮してしまう。


 今川義元を倒しても、まだ続く殿様の苦労を思うととても明るい気分になんてなれなかった。



 そんな、折のこと



「・・・失礼致します。吉乃様は、おられるでしょうか?」



 ある日、珍しいお客人が生駒屋に訪ねてきたんだ。



「・・・五郎左、殿? まぁ珍しい」



 五郎左殿がお一人で、私に訪ねてこられるなんて本当に珍しくて。もしかすると、初めてかもしれない。


 殿様を伴ったり、また藤吉とともに織田家の名代として会合衆の筆頭である私に面会をなされることは数度あるけれど、それも数年前を境にめっきりなくなっていた。



 弥平次さまが亡くなった後は五郎左殿が殿様の右腕――また母衣衆を取りまとめるお役につかれていたから。

 そのご多忙ぶりに、とても私と会っているような暇はなかったのかもしれない。


 桶狭間の今川本陣でちらりとお顔を見たきり・・・もう一年以上も、そのお顔をゆっくり拝見する機会はなかったから。


 私は少し、嬉しくなってしまう。



「いかがなさいましたか? この度は殿様の名代かなにかで?」



 珍しいなぁ・・・もう織田家の重臣たる五郎左殿を私の下に寄越すなんて。いつも、殿様の事伝えは藤吉の役目だと思っていたのだけれど・・・



「いえ、本日は殿の名代という訳ではなく・・・」



 五郎左殿は首を振る。



「それがし自身が、吉乃様にご教示いただきたいことがありまかり越したる次第です」



 見とれてしまうほど慇懃(いんぎん)な所作で頭を下げられて、織田家第一の重臣、丹羽五郎左殿はそう言った。



「先程から気になっていたのですが、『吉乃"様”』などという呼び方はよしてください・・・」



 奥の客間にお通してお茶を入れながら、私は口を尖らせて申し上げる。



「五郎左殿は名実ともに、織田家第一のご家来でしょう。女商人を前にして、様付けなどするものではありませんよ」



 苦笑とともに、五郎左殿に粗茶をお出しする。

 今の織田家中でご家来筆頭と言えば、譜代の柴田権六か母衣衆の丹羽五郎左が一番に名が上がるらしい。


 それほど、今の五郎左殿は織田の家老として上り詰められている。



「織田家中では、みなが噂しておりやす。丹羽様は織田になくてはならないお方、『米五郎左』と」



 その『米五郎左』殿がわざわざ私に教えを請いに来たなんて、これは一大事だ。



「何を申されます、吉乃様は殿の愛妾であらせられましょう。主君の最愛のお方に敬意を込めてお呼びするのは当然です」



「吉乃様は殿に、そして私のお慕い申し上げる弥平次様に見初められたお方なのですから」



 真面目なお顔で、五郎左殿はそんなことを申し上げる。

 五郎左殿は母衣衆で最も生真面目なお方で、冗談を口にしたところを私は見たことがない。そんなお方が平然と私をおだてるようなことを言うものだから、私は思わず照れてしまう。



「もぅ、年増を褒めても何も出ないのに・・・けれど、五郎左殿にそう言っていただけたら私も、涅槃(ねはん)のあの方も光栄に思います」



 そんな軽口を叩きながら。



「それで、此度はどのようなご用向きで・・・?」



 私は居住まいを正して、本題に入る。

 聡明な五郎左殿がわざわざ私に教えを請いに来たというんだ。ただ事じゃないことくらいは理解できる。



「吉乃様にお聞きしたいこととは、美濃攻めのことでございます」



「美濃攻め、戦のことですか・・・?」



 私は訝しんでしまった。

 商人の私に、美濃攻めの相談・・・武家の五郎左殿の方が、合戦のあれこれなんて私よりずっと熟知しているはずなのに・・・



「はい。私と殿に、お知恵をお貸しいただきたいのです」



 五郎左殿は少しお顔を曇らせて、お話を始めていく。



「桶狭間で今川を破り、織田は潮流に乗っております。家中の士気も高く、斎藤なぞ海道一の弓取りに勝った我々の敵ではないと、左様な声も城内では聴こえてくるのですが・・・私も殿も、あまり楽観的に見ることが出来ないのです――このままでは、美濃攻めは苦戦するが必至かと」



 えっ・・・五郎左殿も、同じお考えを・・・?

 私が感じていることと同じようなお話を、五郎左殿は淡々となさられて。



「これまで織田の戦というのは、尾張国内が戦場でありました。常に織田は何者かに脅かされ、尾張の地を守ろうと戦ってきた。けれど、此度は違います。此度は織田が美濃へ攻め入る、他国での戦になります。尾張での守戦ならば我らに地の利があっても、他国へ攻め入る戦をしたことは殿を始め誰も経験がないのです」



 確かに、思い返してみれば五郎左殿の言う通りだ。尾張の武士は誰一人、他国で戦をしたことがない。

 唯一、道三崩れの折には手痛いほどの敗北を喫した。それこそ、織田が崩れてしまいかねないほどの負け戦だった。

 その敗歴を持つ殿様にとっては、美濃攻めは大きな鬼門だ。



「敵は大国にして精強な美濃斎藤家。広大な美濃の地には数多の要害が点在し、居城の稲葉山城は道三公が築いた日ノ本有数の堅城と聞きます。その美濃勢を打ち下すにはおそらく一度や二度の勝ち戦では終わらない・・・何年かかるかもわからぬ長陣になりましょう」



 終わり統一を果たした殿様でも、美濃という大きな国を相手取った戦になっては、決して見通しが明るいわけじゃない。

 ようやく掴んだ平穏なのに、また殿様は苦しい戦いへと身を投じようとしている。


 弥平次さまの仇を、取るために。

 全て、私のために・・・



「此度の戦、大きな懸念があるのです」



「――『糧道』、ですね」



 「そうです」五郎左殿は、力強く頷く。


 五郎左殿が、馬借の主人である私に相談を持ちかけてきているんだ。その(つむり)を悩ます種は、きっと馬借に繋がりがあることなんだと検討はつく。


 今まで、織田の戦は尾張国内がほとんどだった。

 だから手勢を動かすことにしろ兵糧の運搬にしろ、距離は短くとっさの異変にも上手く対応することが出来ていた。


 でも、次の戦は違う。

 美濃攻めの戦場はおそらく美濃と尾張の国境・・・戦況が進めば、美濃の奥深くまで軍勢を進めることになる。

 当然、兵糧を運ぶ糧道は伸びていく。



「織田のお城から美濃との国境までは、かなりの距離がありますからね・・・戦が長引けば、糧道を保つこともかなりの負担になるでしょうね・・・」



 運ぶ道程が遠くなれば、当然戦場に兵糧が届くのは遅くなってしまう。



「糧道もそうですが、援軍も然りです。後詰めの軍が遠ければ、戦場に到着するだけでも時がかかります。たどり着いたときには味方はすでに崩れ去っている――かような最悪の想定も出来ます」



 「事実、道三崩れの際がそうでした」五郎左殿は悔しそうに唇を噛む。

 突如美濃で起こった内乱に、織田は慌てて軍を出した。美濃への糧道を確保することも出来ず、また美濃へ辿り着くまでには時がかかってしまっていた。

 結果、道三公を助けることには間に合わず、反対に義龍の軍勢によって返り討ちにされてしまった。


 合戦は、支度の段階から勝負が始まっているんだ。

 充分な備えを整えることが出来なかった時点で、織田の負けは決まってしまっていたんだ。



「私は、弥平次さまをお救けすることが出来なかった――もう、かような戦をするのは嫌なのです・・・」



「五郎左殿・・・」



 悲愴感を滲ませた表情を浮かべる五郎左殿に、私は言葉をかけることが出来なかった。



 そうだ、あの美濃での戦のとき、

 五郎左殿は、涙を浮かべて私に頭を下げていらしていた。

 弥平次さまが死んだその罪を、一身に背負って。



 だから、絶対に。

 同じ轍を踏むことはしない。


 そんな、鬼気迫る決意が、五郎左殿にはある。


 私だけじゃない。

 殿様だけじゃない。


 五郎左殿にとっても。

 みなにとっても。


 此度の美濃攻めは、弥平次さまの弔い合戦なのだと。



「馬借を営み、尾張中の道々に通じた生駒屋なら、吉乃様なら何か良い思案でもお有りなのではないのかと、伺った次第なのです」



「頼ってくださるのは嬉しいのですが、私などに戦の思案など・・・」



 そんな言葉を零しながら、ふと考えてみる。

 もし、私が殿様のお立場だったなら・・・


 そういえば。

 道程が遠くて面倒に思うこと、私にも多々あったりする。


 津島と小折の屋敷なんて、結構距離があるような・・・どんなに馬を飛ばしても、一刻ほどはかかってしまう。

 もう随分と慣れてしまったけれど、思い返せば面倒な道程だ。お類が小さい頃などは、屋敷から店へ向かうのも億劫に感じたこともある。


 いっそのこと、私が赴くのではなくて津島の町がこちらに近づいてくれればよいのに、なんて・・・



「――あぁ、そうか」



 突然、私は呟く。



「・・・馬鹿なことを思いつきました」



 不意に、下らない思案が頭を横切って。



「戦場が織田のお城から遠いというのなら、お城を動かして戦場へ近づけてしまえばいいのです」



 私の言葉に目を丸くした『米五郎左』殿を尻目に。


 自嘲混じりに、そんなたわけたことを口にしてみたんだ。


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