祖母の言葉
その日の夜、風呂を終えた篤史は二階にある六畳半の部屋を使わせてもらう事になった。その部屋は元々哲哉が使用していた部屋だ。
静江が敷いてくれた布団の上に寝転ぶとこの短期間で起こった事を思い起こす。一番は育江の事だ。
育江とは事件が解決してすぐに別れた。別れは篤史から切り出した。本当はずっと付き合っていたかったのだが、殺人を犯した育江とはこれから先の事を考えると付き合えなかった。付き合い続けたところで事情がわかれば、周りから反対されるのがオチなのはわかっていた。
育江と付き合っていた事を誰にも言わなかった篤史だったが、その関係を一番最初に知った人物がいた。それは幼馴染の服部留理だった。
篤史とは別のクラスで、育江が留理のクラスに転入し、一番に留理と仲良くなったのだ。留理が二人の交際に気付いた経緯は、プリクラを見たのを機に付き合っているのではないか、と話していた。そこからもう一人の幼馴染の川口里奈にも知られてしまい、篤史は自分達の気持ちを大切にしていたからこそあえて言わなかったんだ、と言った。
育江と別れた篤史はしばらくの間、食事が喉を通らなかった。勉強も上の空で七月に行われた期末テストではいつもより点数が下がってしまった。それほど篤史には衝撃的な出来事だった。
いくら育江が殺人犯だからといってもお互い好き同士で付き合ったのだから、簡単に諦めろというほうが無理だった。
それ以外にも家出をする理由があった。それは父の哲哉の事だ。警官の哲哉はエリート警視だ。小川家の長男として生まれた篤史を自分のものさしで教育してきたところがあった。
幼い時から哲哉は教育の持論を唱えてきた。その持論をことごとく崩す事は出来なかった。
その様子を見ていた母の亜希奈は、篤史の肩を持ってくれていたが、完全に味方をしてくれるわけではなかった。それは篤史にとってどうしようもない事だった。
姉の杏奈や弟の知和の関係は特に問題はない。弟の知和は年子という事もあり、小学生の頃から一緒にサッカークラブに入るくらい仲がいい。
だが、哲哉の関係だけはどうしても全てを消化出来るものではなかった。もちろん、篤史の気持ちを理解してくれる事もあったが、その関係をどうしたらいいのかわからないでいた。
哲哉は四人兄妹の一番上で篤史と同じ長男だ。哲哉も自分と同じように教育されていたのか、と思ってしまうが、祖父の陽一郎を見ているとそんなことは微塵も見られない。
ただ単に孫だからそういうふうに見てしまうのか。自分の息子や娘には厳しく育てても孫には違うのか。色々思う事があった。
一度、それとなく静江に聞いた事があった。静江の答えは、そんなわけないやないか。第一、お父ちゃんを見てみればわかるやろうけど、厳しい教育する玉やないよ、だった。
そこに静江が小さなプリンを持って部屋に入ってきた。
「プリン持ってきたよ」
静江は篤史の小さなプリンとスプーンを持ってきた。
篤史はありがとう、と礼を言うと蓋を開けて一口食べる。プリンの甘さが篤史の心を少し和らげてくれるようだ。今の篤史には甘さが染みてくる。
「昼間、来た理由を言うたところで解決するわけやないって言ってたけど、何かあったんか? 哲哉に何か言われたんか?」
静江は篤史が来た時から心配していたようだ。
その問いには何も答えない篤史。
「何か言われたんやな」
静江がそう言うと、篤史は頭だけを動かして頷く。
「そうか。何か言われて家出をしてきたんか?」
その問いにも篤史は頭だけを動かして頷く。
「昔から徹夜は成績やスポーツは優秀で、要領が良かったんや。なるべく人の気持ちを考えるようにと教えたつもりやったけど、篤史がここまでするとは。家出するくらいやからよほどの事やったんやろう。ホンマにゴメンな」
静江は謝る。
「いいんや。婆ちゃんのせいやない。オレが勝手に来ただけやからさ」
篤史は哲哉と色々あったが、祖父母の家に来た事は自分の意思だと言う。
「いくらでもここにいてもいいけど、それじゃあ、哲哉との関係を解決出来るわけやないしな。親子の縁は切っても切れへんし……。一度、きちんと話してみたらどうや? 難しい年頃の篤史には話し合いなんてしたくないやろうけど……」
静江はきちんと話してみるのはどうかと提案してみる。
篤史はそうやな、と答えつつ、きちんと話をしないといけないのか、と思う気持ちがあった。
今の篤史には哲哉と話をする気には起こらなかった。哲哉との関係を解決するには静江の言うとおりだった。
恐らく、家出をした事に対して、自分の意見を聞かずに持論を唱えて、説教されるのは目に見えていた。篤史にとってそれが嫌で仕方なかった。
そう思う篤史は、哲哉がエリートを振りかざした毒親なのではないか。子供の気持ちを考えない人間なのではないか。そこまで考えてしまう。
高校生活を送る篤史には、勉強や部活以外にも委員会にも力を入れていた。一年生の前期は何もやらずに過ごしてきたが、後期から今まで文化委員会に入った。
後期には一年生の新入生歓迎会を手伝うくらいだったが、四月中旬から再び入った前期の文化委員会は、二学期に行われる文化祭の準備が待っている。小学生の頃から行事の表側だけしかわからなかった篤史だったが、文化祭の準備があると知り、行事の裏側を知れるいい機会だ、と思ったのだ。
一年生の後期も二年生の前期と入れ替わるまで新入生歓迎会の手伝いでそれなりにやりがいはあったが、前期はそれ以上にやりがいはあるのではないか、と篤史は期待していた。
「篤史、哲哉は言えばわかる人間やで。自分が育ててきた子供やからそれくらいわかるで」
哲哉と話す事に抵抗があり、浮かない表情の篤史にそう言う静江。
「確かに融通が利かないところはあるけど、篤史が何か悩みがあるならきちんと話したほうがいい。そうやないと哲哉だって篤史の考えてる事はわからへんで」
「婆ちゃん……」
静江の言葉に、何も言えなくなる篤史。
「まずはきちんと篤史の気持ちを伝えるところからやないのかな。哲哉は父親やから色々思うところはあるやろうけど、少しくらい反抗したって構わへん」
「うん。わかった」
篤史はため息交じりで返事をした。
「しかし、哲哉とは正反対の性格やね」
静江は自分の息子と孫の性格が違う事に驚きを隠せない。
「さっきも言うたけど、哲哉は何事も優秀やったから超がつくくらい真面目やから、篤史のような突発的な事はしなかった。反抗期という反抗期もなかったから、どこかでガタがくるんやないのかなって思ってたけど、全くそれはなかった」
哲哉は子供の頃から今と同じ感じだと話す。
「子供の頃からあんな感じやから、篤史が反抗したくなるのはわかるで。哲哉はずっと小川家の長男やって堅苦しい事ばかり言ってきたのを知ってるからな。今まで篤史は勉強もサッカーも頑張ってきてるのはみんなよく知ってるよ」
静江は篤史の頑張りは周りの人間にきちんと伝わっていると言ってくれる。
それを聞いた篤史は、一番に父親である哲哉にわかって欲しい。認めてもらいたい、と思っていた。
「その頑張りを親父に一番にわかってもらいたいんや」
その思いを言葉にした篤史。
「それならなおさら哲哉に篤史の気持ちを伝えなアカン。何も言わずに家出して、それは卑怯やと思うで」
静江はピシャリと言う。
篤史はそうやな、と一言言うと黙ってしまう。
確かに静江の言うとおりだった。家族の誰にも言わず、しかも親に自分の思いを伝えず、反抗を理由に家出をして、父方の祖父母の家までやってきた。これを卑怯だと言わずに何だと言うのか。
いくら、育江の事もあったからといっても篤史の行動は、卑怯という言葉に値していた。それは篤史にもよくわかっていた。
「婆ちゃん、親父にオレの気持ちわかってもらえると思う?」
「もちろん。すぐには無理かもしれへんけど、いつかはわかってもらえるで」
篤史の問いに、静江ははっきりと答えた。