第三話
男はシャルリーンの歩幅に合わせることもなくスタスタと歩くので、シャルリーンは男を見失わないよう追いかけるのに必死だった。
男から何か質問された時には、どう答えよう。
シャルリーンはそんな事を考えて緊張していたが、男はまるでシャルリーンの存在を忘れているかのように一度も振り返えることはなかった。
屋敷に到着すると、シャルリーンは屋敷全体を眺めた。
屋敷から逃げ出した時は、逃げることに必死で分からなかったが、シャルリーンが生まれ育った城とは比べ物にならない程、こぢんまりとした洋館だ。
屋敷を守る兵士がいるようにも見えない。
「昼食に何が食いたい?」
男は屋敷の扉を開け、呆然としているシャルリーンに、先に入るよう促した。
「……。喉が渇いたわ」
「ハハ。
水なら食事と一緒に出すから少し待て。
俺は昼食に食いたい物を聞いている」
男はシャルリーンの顔を見て笑った。
その笑顔は、あの時の男とは別人のように柔らかい。
屋敷の中に入ると、男はシャルリーンに一部屋一部屋案内していった。
屋敷は部屋数が少なく、人の気配が全くない。
「ここが食料庫。その隣が台所だ」
「台所?」
「台所を知らないのか……。なら、調度良い」
男はそう言って台所に入り、手招きをした。
「ここに座れ」
男は台所の真ん中のテーブルに備え付けられた椅子を引き、シャルリーンを座らせた。
「お前は、肉や野菜をパンにはさんで食ったことがあるか?」
シャルリーンが黙って首を横に振ると、男が小さく笑った。
「城の中では、そんな食い方をする必要もないか……」
男はグラスに淡い檸檬色の水を注ぎ、シャルリーンの目の前に置いた。
シャルリーンが、グラスに注がれた水に何が入っているか気になって手を出さずにいると、
「喉が渇いているのだろう?
別に可笑しな物など入っていないから、心配するな」
と、男は笑い、もう一つのグラスに同じ水を注いでぐっと飲み干した。
「……」
シャルリーンは恐る恐る自分の前に置かれたグラスを手に取り、檸檬色の水を一口含んだ。
『甘い……』
シャルリーンがグラスの水を一気に飲み干すと、男は笑ってシャルリーンのグラスにもう一杯水を注いだ。
男は溶かした卵にチーズをすりおろして焼き、ナイフで薄く切ったパンに挟んで皿に乗せ、テーブルの上に置くと、シャルリーンの向かい側の椅子に腰掛けた。
「昼食は、いつも簡単に済ませている。
こんな物しかないが、良かったら食え」
「……」
「どうした? 食わないのか?」
「……食べたくない」
「贅沢に育ったんだな。別に構わないが。
この屋敷から逃げ出すつもりなら、しっかり食って体力ぐらい付けておいた方が……」
「食べたくない。食べられる訳がないでしょう?
知らない場所に連れて来られて、父さまや母さまもいなくて。
父さまは何処? 母さまは……、母さまは無事なの?」
シャルリーンは椅子から立ち上がり、男を睨んだが、表情を変えずシャルリーンの顔を見返す男のを見て、力が抜けたように椅子に座った。
「あなたが母さまを……」
テーブルの上に、シャルリーンの涙がポタポタと落ちる。
「悪かった。
あの光景は、お前の日常ではないのに。
食欲を無くしても仕方がなかったな」
「どうして? どうして……」
男は黙って立ち上がり、シャルリーンの元へ歩み寄った。
「来ないで! あなたを許さない」
「許してもらおうと思っていない。
言い訳をするつもりもない。
俺を殺したいと思っているのなら、殺せば良い」
男はシャルリーンの頭をそっと撫で、台所から出て行こうとした。
テーブルの上に、パンを切る時に使ったナイフが置きっぱなしになっている。
男はシャルリーンに背を向けている状態だ。
『今なら……』
シャルリーンはテーブルの上のナイフに手を伸ばし、ぎゅっと握り締めた。
シャルリーンが立ち上がると、椅子がガタンと倒れ、その音に男が振り返った。
「お前……」
「来ないで!」
ナイフを構えるシャルリーンの姿を見て、男が小さく笑った。
「何がおかしいの?」
「殺したいのなら殺せば良い。気が済むまで刺せ」
男は目を瞑り、両手を広げた。
「お前の力では、死ぬまでに時間が掛かりそうだな」
「あなたを殺すつもりはないわ」
シャルリーンの言葉に、男が目を開けた。
「あなたを殺しても、自分の国へは帰れない。
もし帰れたとしても、そこに父さまや母さまはいない。
そうでしょう?」
シャルリーンは、持っていたナイフをぎゅっと握り締めて、ナイフの先を自分の喉元に当てた。
「どうして私を殺さなかったの?
どうしてここに連れてきたの?
私が苦しむ姿を見て、笑いたかったから?」
『シャルリーン。自分の誇りと尊厳を守りなさい』
『誇りと尊厳?』
『シャルリーン。
もし、あなたが敵国に人質として捕らえられたなら……。
この国は、あなたを助けないわ。助けたくても助けられない』
『うん。知っている』
『人質になれば、敵はあなたの誇りと尊厳を奪おうとするでしょう。
だから自分の誇りと尊厳は、自分で守らなくてはいけないの』
『母さま。それはどうすれば守れるの?』
『……。
敵から逃げる、敵と戦う。
それができないのなら、全てを奪われてしまう前に自ら命を絶つ』
『命を絶つ……? 死ぬという事?』
今のシャルリーンの力では、ここから逃げる事も目の前の男を殺す事もできないだろう。
それを分かっていて、目の前の男は余裕の笑みを浮かべているのだろうか。
シャルリーンに『誇りと尊厳を守る』意味は分からないが、戻れる場所が無いと分かった以上、ここで生きている意味も無かった。
「ナイフから手を離せ」
急に男の表情が変わった。
男がゆっくりとシャルリーンに向かって歩み寄る。
「嫌。来ないで」
男は構うことなくシャルリーンに近付き、手を伸ばした。
「嫌っ! ……あ!」
シャルリーンが男の手を払おうとすると、ナイフの刃が男の腕をかすめた。
男の腕から赤い血がじわりと溢れる。
「わ……、私……」
シャルリーンのナイフを持つ手が震える。
「気にするな。かすっただけだ」
男は腕の傷を見ることもなくそう言って、シャルリーンが持つナイフの刃先をぐっと握った。
ナイフの刃先を握った男の手から血が滴り、シャルリーンの手を伝う。
「あ……、ああ……」
生暖かい男の血はシャルリーンの肘を伝い、床へポタポタと落ちていく。
シャルリーンが男の顔を見上げると、男は笑みを浮かべた。
「何もしない。だからナイフから手を離せ」
「わ……、私……。あなたを刺すつもりは……」
シャルリーンは体が強ばって、ナイフを持つ手を広げられずにいた。
「分かっている。
だから、ナイフから手を離せ」
男がナイフの刃先を持つ手とは反対の腕でシャルリーンの体を引き寄せると、シャルリーンの体から一気に力が抜けた。
「ふっ……、う……」
シャルリーンが男の腕の中で崩れると、男はナイフをテーブルの上に置き、両手でシャルリーンを抱き止めた。
「悪かった。
お前とは生きる世界が違うから、俺はお前の気持ちを理解してやることができないのかもしれない」
男がシャルリーンの耳元で囁くと、シャルリーンを抱き上げ、台所から出た。