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Master Code  作者: 覇牙 暁
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第七十七話

第七十七話「跳梁跋扈」




 ―――大槻町。


 倭国西方に広がる24町の中心に位置するこの町は、シドウ家に代々仕える譜代大名・領主オオツキ・トキザネの御膝元。


 トキザネは近年、嘗ては国内で禁止されていた賭博や市座を復活させ、自ら取り込む事により莫大な利益を得ている。


 その一部を上納金としてシドウ家に献上し、現在の地位をより確固たる物にしていた。


 それを示すように、彼の権威の象徴として建てられたのが、敷地面積9000坪にもなる絢爛豪華な大名屋敷である。


 貴重な貴金属を惜し気もなく用いた建築装飾は、柱の彫刻一つでも一般的な武士が生涯かけて捻出出来ない程の費用がかけられており、それらを維持する奉公人は常時100人近く詰めているという。


 その巨大な屋敷の中央。

 中庭に建てられた離れの座敷。


 そこで、夜も更けたこの頃合いに、艶めいた女性の悲鳴が響き渡った……。



 「どうか……っ、どうかもう、お許しを……っ」


 「何を言う、お楽しみはこれからであろうに……。ぐひひ」



 そこは、“彼女ら”にとっての牢獄。

 そこは、“彼の者”にとっての遊場。


 10や20ではきかない数の女達が手足を拘束され、男一人の周りで俯き、涙を流している。


 選び出された一人の女性。

 彼女が、今日の生贄として男に捧げられたのだ。


 将来を誓い合った男が居た。


 操を捧げた相手が居た。


 が、それらなど男は一切斟酌しない。



 「ほれ、さっさと股を開かんか。これが初めてという訳でもあるまいに、今更何を躊躇う」



 頑なに拒絶する彼女に、男は覆い被さり、強引に股をこじ開ける。


 着崩れた着衣を無理矢理剥ぎ取り、肌を露出させ、嫌らしい笑みを浮かべて男は舌なめずりをした。


 男の名は、オオツキ・トキザネ。


 この町を実質的に支配する者。


 富と権力を思うが侭にし、欲した物は例えそれが何物であろうと全て手にして来た男。


 下手なオークなどより肥え太り、余程醜悪な相貌はしかし、その実は権謀術数に長け、一代にしてこれ程の財を築きせしめた商いの才子。


 欲望は底無しとまで言われ、身内であるシドウ・ヨイチをして“恐ろしい”と言わしめた程である。


 故に、彼に口答え出来る者などそうは無く。


 女達はただ、彼の欲望の捌け口として夜毎枕を濡らすばかり。


 今宵もまた、そうして嘆く鬼人の娘がまた一人……と、そう誰もが諦念の中、黙して受け入れようとしていた時だった。



 「―――オオツキ様っ」



 襖を隔てた向こうから、慌ただしい家臣の声が響いた。



 「むぅ? なんじゃ、ワシの生き甲斐を邪魔しおってからに……」


 「も、申し訳ございません! ですが、急ぎお耳に入れたい事がっ」



 そう告げる家臣に、トキザネは億劫そうな顔を浮かべ。



 「はぁ〜……、もう良い。興が削がれたわ」



 と、着衣の乱れを正し、女達には一瞥もくれずに襖を開け放った。



 「して、何事じゃ」


 「ハッ、実は―――」



 家臣の耳打ちに、オオツキの表情が険しい物へと変化した。



 「それは、真か?」


 「ハッ、南町奉行所にて、同所の与力が確認致しましてございまする」



 フム、と鼻を鳴らし、オオツキは顎に指を添え、しばし黙考する。



 「カネツグめ……、今更何のつもりか」



 報告によれば、これまで長らく姿を眩ませていたモリ・カネツグが数か月ぶりに公の場に姿を現したという。


 モリ家断絶を目論むヨイチ派の彼にとっては、これは願っても無い好機と言えたが、しかし。


 嘗ての将軍家に仕えた家臣の大部分は、既にヨイチ派に取り込まれている。


 カネツグ派と目されていた一部の名家も、あらゆる手段を用いて取り潰した。


 最早カネツグに挽回の目など万に一つも残されていないだろう。


 賢明な者なら国を出て落ち伸び、再起の機会を窺うというもの。


 しかし、そんなタイミングでのこの報告。


 余程の阿呆か、或いは……。



 「―――クヌギを呼べ」


 「ハッ」



 急ぎ、その場を立ち去る家臣の背を目で追いながら、オオツキは頭上に浮かぶ三日月を見上げる。



 「あやつめ……、未だ諦めておらなんだか……。ぐひ、ぐひひ」



 醜悪な笑みを浮かべ、オオツキは思考を巡らせる。


 窮鼠猫を噛むと言うが、果たして……と。


 一方、同じ頃。


 将軍家居城・天理城評定の間では。



 「ほぉ、あのカネツグが……か」



 50畳ほどの広さがある評定の間。


 本来は大将軍が座すべきその上段に、今は別の男が堂々と腰を下ろしていた。



 「解らんな……。何があの男にそうさせたのか……」



 脇息に肘を掛け、紋付き袴を羽織るこの壮年の男こそ、シドウ家現当主シドウ・ヨイチ。


 刀の切っ先にも似た鋭い目鼻立ちと大樹の年輪が如き深い皺。


 厳めしい顔付きは家老でありながら既に将としての威風さえ漂わせ、天を衝く二本角は太く逞しく。


 大柄な体格は年齢を感じさせない程隆々として、武人としても優れた才を持つ事を誇示しているようだった。



 「例の“解放同盟”とやらが接触した、という噂も小耳に挟んでおります。恐らくは、それかと」



 対するは、下段で跪く長身の男。


 この者の名は、マツナガ・シゲナリ。


 彼を一言で例えるならば、それは“鉄”。


 一切の色を廃した表情は冷たく、閉じられたかのように細い目はその内情をまるで他者には悟らせない。


 体格こそヨイチに見劣りするが、細身ながらその肉体は鍛え抜かれた鋼の如く。


 極限まで無駄を削ぎ落したあらゆる所作もまた、それを示唆しているかのようだ。


 しかし、何より目を引くのは、その額にある一文字の刀傷。


 武才に恵まれた彼の生涯唯一無二の傷である。


 「オオツキが手を回したと聞いているが……どうやら、逆効果だったようだな」


 「ハ……。なんでも、中心人物と目されている剣士は、相当な手練れとの事。民家に放たれた火を“剣圧”で断ち切って見せたとか……」


 「俄かには信じ難い話しだ。だが、なればこそ、カネツグの行動にも理解が及ぶというものか」


 「殿は、事実である、と?」


 「さて、な……。だが、このまま野放しという訳にも行かなくなった」



 ヨイチの目が一層鋭く光りを放ち、シゲナリへと向けられた。



 「物のついでだ。連中に、“アレ”の始末を付けさせるというのも、悪くはない」


 「確かに。最近は特に、目に余る物がございます故」



 互いに表情は無く、ただ淡々とそれは定められた。



 「始末はお前に任せる」


 「……御意」



 一礼し、シゲナリは床の太刀を帯へと差し戻し、立ち上がる。


 その背に浮かぶのは、“忠義”の二文字のみ。


 評定の間を立ち去る彼を見送り、ヨイチは微かに笑みを浮かべた。



 「その真贋、確かめさせて貰おうか―――ヤナ・カスミとやら」



 静かな呟きは、夜闇に滲んで誰の耳にも届くことなく。


 欠けた白銀の月は、動乱の国をただただ見下ろし、照らし出すのみであった。


 ―――故に。


 誰もがその存在に気付いてなど居る筈もなく。


 銀月に駆ける一つの影が、今静かに倭国へと降り立った。



 「何処、へ……」



 音も無く、屋根から屋根へ。


 風に翻る襟巻が、銀光に浮かぶその顔を隠す。


 額に角は無く、それは即ち。


 求める物はただ一つ。

 嘗ての恩義に報いんが為。


 駆ける。駆ける。駆ける。


 その姿は、さながら疾風の如く。


 彼女はただ只管に、希う。


 己が忠を尽くすべき者。

 信ずる君へと再び見えん事を……。


 この夜、誰も彼もが各々に、自らの思惑を掲げて動き出そうとしていた。


 それは、“彼女ら”もまた同じ。



 「うぇええっ!? あのキンさんが―――むぐっ!」


 「だーもっ、声が大きい!」



 久々に訪れた“なごみ屋”の店内で、谷那香澄は対面して縁台に座るナエの口を慌てて塞いでいた。


 卓上の湯飲みで茶が激しく揺れるが、辛うじて零れはせず。


 ゴメンゴメンと身振りで謝罪するナエに、香澄は大きな溜め息を吐く。



 「ヨイチ派の連中もまだ知らない事なんだから、口外無用で頼むわよ……?」


 「うんうん、分った! でもビックリだね、あの人がお世継ぎ様だなんて……」



 姿勢正しく座り直したナエは、興味津々といった風で香澄の話しを聞いていた。


 二人の間で交わされたのは、キンシロウことモリ・カネツグと香澄を代表者とした解放同盟との同盟締結について。



 「キンさんには早速動いて貰ってる。連中にももう情報が渡ってるとは思うけど、コッチもある程度戦力が必要だからね」


 「どれくらい集まるかなぁ?」


 「たかが知れてるわ。でも、数はあまり重要じゃないのよ。必要なのは、それを適切に扱える知略だから」



 キンシロウの話しでは、徒士60名、足軽200名は集まるだろうとの事。


 国取りの大戦を前にその数は余りにも非力と言えるが、香澄の考えは違った。



 「私が欲しいのは、正面切ってヨイチ派と争える戦力じゃなく、不足を補える手足の数。戦力自体は、正直私一人いれば十分だからね」


 「す、すごい自信だね……」



 ヨイチ派擁する総戦力は一万五千。


 それを相手に一人で十分と言い切る香澄に、ナエは呆れにも似た苦笑を浮かべるが。



 「言ったっしょ? 関所を抜けて来た時、亜人の軍隊1000人相手に戦ったって。人一人に同時に攻撃が出来る人数なんて限られてんだから、10人以上は100も1000も万も同じ。体力と集中力が続くかどうかってだけ」


 「いや、簡単にそう言い切れる所が凄いんだってば……」



 事実、香澄が有する武力の一端をナエもその目にしている。


 それだけに、彼女のその自信が実力に裏付けされた物だという事は理解こそしていた。


 ただ、だからと言って、万を超える鬼人の軍勢を相手にたった一人でも“余裕”と言い張る香澄の胆力には、それを理解した上でも信じ難い物があるのだ。


 それはまだ、ナエが常識の範疇でしか香澄を信じられていないという事でもあるのだが。



 「ま、何れにしたってキンさんにヨイチ派と正面からぶつかれるだけの戦力が揃えられない以上、そこは私がやるしかないんだから、今更ってモンよ」


 「そうなんだろうけど……やっぱり、心配だもん」



 と、目を伏せるナエに、香澄は微苦笑を浮かべる。


 自分の力がとても常識の範疇に収まる物ではない事など理解しているからこそ、信じて貰えない事に感じてしまう不満もあるのだろう。


 しかし、勝算は十二分にあるのだ。


 それ故に、今はただ言葉を重ねるしかなかった。



 「大丈夫だってば。私が死ぬなんて事は万に一つも無いし、仲間を危険に晒すような作戦を立てるつもりもない。完全な無血革命が出来るとまでは流石に言い切れないけど、それでも、ナエちゃんやソウベイさん、それに町の皆は、私が絶対に守って見せるから」


 「うん……」



 そう答えるナエはしかし、その表情から不安を拭い切る事は出来ず。


 香澄にしても、それ以上の事を今語る事は出来なかった。


 重い沈黙が場を支配する。


 それに耐え兼ねたのは、やはり香澄の方で。



 「―――あ、そうそう」



 誤魔化すように話しを変えた。


 疑問符を浮かべるナエに、香澄はふと思い出した事を尋ねてみる事にしたのだ。



 「ナエちゃんさ、オオツキ・トキザネって人、知ってる?」


 「オ、オオツキ様!?」



 何の気なしに尋ねた名前に、ナエは過剰な反応を見せた。


 その理由が判然とせず、むしろ香澄が驚いてしまう程だったのだが。



 「知ってるも何も……、この国にオオツキ様を知らない人なんて居ないよ? ヨイチ派の重鎮だよ? 西部25町を収める領主様で、代々シドウ家に仕えてるっていう、すごい方だもの」


 「あーうん、それはキンさんからも聞いた。けど、為人とかそういうのまでは聞いてなくてさ。何か知ってる?」


 「そりゃ……まぁ、イロイロ聞いてるよ。嫌になるくらい、色んな噂……」



 再び表情を暗く沈めるナエに、香澄は若干嫌な予感を感じつつ、聞かせて欲しいと敢えて尋ねた。


 結果、出て来るのはそれこそロクでも無い話しばかりだった。


 若い娘を家臣達に攫わせ、夜毎とっかえひっかえ泣かせているだとか。


 商業組合を立て、みかじめ料として多額の資金を絞り上げ、私腹を肥やしているだとか。


 支払えない者は店を出す事さえ許されず、楯突いた者の中には見せしめとして晒し首にされた一家もあるという。


 同じ家格の大名でさえ彼の怒りを買えば家毎取り潰されたといい、何時しか逆らう者は居なくなってしまい、最近では以前以上にやりたい放題で民を苦しめているのだとか。


 聞き終えた所で、香澄の心情に浮かんだ物は、怒りを通り越した呆れ。


 思わず頭を抱えたくなった。



 「予想以上の“大物”だって事がよ〜〜〜〜く判ったわ。……色んな意味で」


 「これも聞いた話だけど、オオツキ様の私兵はヨイチ派戦力の中核を成してるんだって。だから、シドウ様もなかなか手が出せずにいるんだとか」


 「完全に悪代官やないか……」


 「お代官様? 違うよ、領主様だよ?」


 「いや、そういう事じゃ……って、まぁそれはいいわ」



 訂正するのも面倒になり、とりあえず放っておく事にする。


 しかし、と香澄が思い起こしていたのは、先日オオツキの下から引き抜いたタケイチ・ハンベイの事だった。


 まんまと香澄の色香に惑わされ、トキザネの下でスパイ活動に勤しんでいる彼は、“ご褒美”欲しさに予想外の有能さを発揮していた。


 下級武士の出とはいえ、それまで忠実な下僕としてトキザネに仕えていた彼は、小心者故にそこそこ良い立ち位置を確立していたらしく。


 例えば、先日は香澄が「生足で踏み付けてあげる」という約束をした所、思い掛けない手土産を持って帰って来た。


 それは、オオツキ邸内の見取り図だった。


 これは全くの予想外だったのだが、このハンベイという男、以前“なごみ屋”に押し入り、ナエを斬ろうとしたあの“クヌギ様”の直属の部下だったらしく。


 そのクヌギの命で屋敷の警備を任された事があり、その際に入手した物だという。


 ナエから聞かされたその話しを鑑みるに、この見取り図は途轍もなく価値のある物だったと言えよう。


 何故なら、見取り図上には件の攫われた女性達が囚われているという建物についても克明に記されていたからだ。


 これだけでもトキザネを法的に裁く事が可能であり、仮に権力で握り潰そうにも大儀はコチラが得られる。


 世論は間違いなくカネツグ派や香澄たち解放同盟へと傾く事だろう。


 そして、大儀さえあるなら、武力による強制摘発も香澄の力で可能となる。


 当然、侵入経路や脱出経路もこの見取り図のお陰で確保済み。


 とくれば、現段階で既にトキザネを討つ準備は整ってしまったとさえ言えた。


 問題は、トキザネが屋敷に身を置いている時点を狙う必要があるという事なのだが……。



 (“おじちゃん”は上手くやってくれてるかしら)



 今回は、遺憾ながら「唾液を飲ませてあげる」という約束で、ハンベイにトキザネの職務予定について調べさせている。


 流石に下手を踏めば殺され兼ねないような仕事である為、その報酬も“破格”に設定した訳だが……。



 「上手く行けば、ヨイチ派の戦力を纏めて削ぎ落せるんだけど……」


 「え、どういう事?」



 独り言の呟きにナエが反応する。


 しかし、その理由を明かそうか、と口を開きかけた時だった。



 「―――ヤナ殿! ヤナ殿は居られますかッ!?」



 貸し切りの札が掛けられた引き戸を開け放ち、町人が一人店内へと転がり込んで来た。



 「あら? アンタ確か……キンさんトコの?」


 「ヤナ殿! 良かった、此処に居られましたか!」



 肩で息をした彼は、縋り付くような勢いで香澄の足元へと跪き、「お耳を」と慌てながらも口にする。


 何事かとナエやソウベイが見守る中、その町人風の男は香澄へと耳打ちした。



 「……ハンベイが?」


 「はい、背に酷い刀傷を負っておりまして、もう長くは……。ですが、どうしても直接ヤナ殿にお伝えしたい事があると」



 その瞬間、香澄は舌打ちと同時に縁台を立った。



 「場所は? 直ぐに案内して」


 「ハッ」



 香澄はナエとソウベイに目を向け、二人が頷いたのを確認し、直ぐに店を飛び出した。


 走りながら場所を聞き終え、報告に来た彼をも置き去りに速度を上げる。



 「馬鹿が……ッ」



 無茶をするなと言い含めてあった筈だった。


 ハンベイが草紛いの事をしていたとバレれば、直ぐにでも報復の恐れがある上、警戒が強くなってしまうからだ。


 見取り図の件に関しては運が良かったに過ぎない。


 素人が草の真似事など、本来するべきではないのだ。


 適当な所で切り捨てるつもりだったというのに……。



 「泳がされた可能性さえある……。チッ、どうする……ッ!?」



 よりにもよって、ハンベイが逃げ込んだのはキンシロウの別宅。


 もしキンシロウの居場所がヨイチ派側に漏れていたら、先手を打たれ兼ねない。


 所詮は使い走り程度の人間。

 期待し過ぎたのかと、自らを責めながら。



 「誰かある!」



 キンシロウ宅へと駆け込み、香澄が声を張り上げると、直ぐに見知った下女が顔を出し、中へと通された。


 靴を脱ぐ暇さえ惜しみ、座敷の障子を叩くような勢いで開け放って。



 「カスミちゃん!」


 「キンさん、ハンベイは!?」



 尋ねた彼の前には、血塗れの着衣をそのままに、応急処置が行われたハンベイが力無く横たわっていた。



 「す、まねぇ……。しくじっち、まって……ハハ」



 蒼褪めた顔に紫色の唇が微かに震え、自嘲的な笑みを浮かべるハンベイ。


 香澄は滑り込むような勢いでその傍に膝を着き、既に冷たい手を握った。



 「馬鹿者が……ッ、無理はするなと言っただろうが……ッ」


 「面目、ねぇ……。けど、さ……聞いて、くれ……。褒めて、くれよ……」



 そう言い、ハンベイが懐から取り出したのは、折り畳まれた血塗れの書状。


 それを受け取り、中を開いてみた香澄は、思わず下唇を噛み締めた。


 下手糞な筆使いの走り書き。

 しかし、それは確かにこの一週間のオオツキ・トキザネが予定している行動表を写した物で。



 「それ……書いてるトコ、見られち、まって……、けど、途中だった、からさ……、そいつブッタ斬って、何とか書き上げて、さ……」


 「斬った……? 見られた、相手を、か……?」


 「おう、よ……! オレだって、武士の端くれだ……。いざって時くらい……ちゃんと、やれんだ、ぜ……。まぁけど……結局、逃げてる最中に……追い付かれち、まって……このざま……だけど、さ」



 そう息も絶え絶えに語り、僅かに笑みを浮かべる。


 つまり、この背中の刀傷は、逃げている最中に負った物。


 途中で行動表の書き写しを諦め直ぐに逃げ出していれば、逃げ切れた可能性もあったという事だ。


 その事実に行き当たり、香澄の喉奥に苦い物が込み上げた。



 「どうして……、どうしてさっさと逃げなかった!? なんで……ヘタレのクセに、欲を出した!? さっさと逃げ出していれば、斬られる事もなかっただろうッ!?」



 が、そう問う香澄に、ハンベイは。



 「出来ねぇよ、そんな……こと。出来る、訳がねぇ……ッ」



 鬼気迫る程の真剣な表情で、ハンベイは血塗れの書状ごと香澄の手を握った。



 「惚れた、女にくらい……イイトコ見せたいじゃ、ねぇか……なぁ? ヘタレでも、オレぁ男なんだから……ッ」


 「な……っ」



 ドキリとした。


 ロリコンで、ヘンタイで、ヘタレで頭が悪くて剣も三流。


 良いトコなんてこれっぽっちも無いと思っていた男が、捨て石程度にしか考えていなかった男が、冗談みたいな理由に、命をかけたのだ。



 「判ってたさ……、何時か、こうなるって、事くらい……。けど、よぉ……オレぁ、嬉しかったんだ……」



 呟き、香澄の頬へと手を伸ばす。



 「嘘でも、騙されてたんだと、しても……、それでも、必要だって言ってくれた事が、どうしようもなく、嬉しくってよぉ……」



 確かに、香澄はそう言った。


 ただ、それは方便でしかなく、替えなど幾らでも聞くという程度にしか考えていなかった発言で。


 だというのに。



 「オレみたいな奴でも、本当に……英雄に、なれるんじゃ、ねぇかって……そう、思えて、きちまって……」



 下級武士の家系に生まれ、特別才能に秀でた事も無く、しかも三男坊というハンベイにとって、それは正しく夢のような可能性だった。


 出世の道など遠に絶たれ、這い上がろうにも才能は無く、三男坊故家督を継ぐ事さえ許されない。


 ただただ漠然と生きる事を余儀なくされた彼は、やがて腐るようにクヌギ・タダノブの使い走りに身を窶した。


 そんな彼にとって、香澄の言葉は何処までも魅力的で。



 「夢が、見れたんだ……。悪くねぇ、夢が……」



 命を賭けるに値する。

 それだけの価値がある夢だった。



 「利用されているだけだと、何故気付かない……!? 馬鹿か、お前は……ッ!」


 「いいんだ、それでも……。アンタなら……、デカイ事が出来るんだろ……? いいや、出来る筈、だ……。そうすりゃ、例え利用されただけだって……アンタの役に立てたって事実は、揺らがねぇ……。誇って死ねるってもんだろ……?」



 信じている。


 必ずやシドウ・ヨイチを倒し、この国を取ってその頂に立ってくれると。


 その礎として死ねるなら、それこそ本望であると。



 「馬鹿が……っ、何の確証も、無い事だろうに……っ」



 ハンベイの冷たい手を握り返し、強く力を込めた。


 一介の、何の力も持たない利用されるだけの哀れな男。

 そう思っていたというのに。



 「無駄に男気なんか見せて……、それで死ぬんじゃ、意味なんて無いじゃない……ッ」



 いいや、意味はある。


 解っていながら、香澄は否定した。


 彼は、間違いなくこの倭の国に生きた気高い武人だった。


 忠義の為に命を賭した、尊敬すべき人物だった。


 それをまるで塵屑のように見下していた自分に、香澄は憤りを感じる。



 「死なせ、ない…」


 「…………」



 失血で既に視力さえ失い、冷たくなって行くハンベイの身体を抱き抱え。



 「お前には、生きて貰わねばならん……。私を、法螺吹きにしてくれるな……ッ」



 約束したのだ。


 彼を“救国の英雄”にしてやると。


 その約束を反故にする事だけは、断じて許さない。



 (―――出血量が多過ぎる。“闇夜の抱擁”では外傷を塞ぐ事は出来ても、足りない血液を補う事は出来ない。ならば、どうする……?)



 戦士寄りのステータスしか持たない香澄に、“闇夜の抱擁”以上の治癒魔術を扱う事は出来ない。


 無論、嘗てのカナのような高度な治療技術も持ち合わせてなどいない。


 だが、それでも、此処で彼を諦める事だけはしたくなかった。


 ―――故に。



 「治癒魔術での回復が不可能だというなら……ッ」



 新たな技術体系を作り出すのみ。


 治癒でも回復でもなく、まして再生や蘇生でもない。


 それは―――“転換”。



 「カネツグッ!」


 「は、はいっ!?」


 「この屋敷に居る者を全てこの場に集めろ、今直ぐだッ!!」


 「ハッ!!」



 香澄の無礼極まる呼び方に、しかしキンシロウはそれを無礼とさえ感じる事が出来なかった。


 圧倒的な覇気を前に、彼はまるで主命に従うような気持ちで部屋を飛び出す。


 そんな中、遂に意識を失ってしまったハンベイをその場に横たえ、香澄はこれまで存在しなかった全く新しい術式を即興で編み出す。



 「―――“諸行無常(Alles fliesst und nichts hat Bestand)”」



 万物は流転し、何物も留まる事無し。


 ある自然哲学者の言葉を引用したそれは、正しく移り変わり行く森羅万象の如くその場に激しい燐光の円環を生み出した。


 瞬間、香澄の身体から流れ出た揺蕩う無数の光糸がハンベイの身体へと延び、同時にハンベイから発せられた光糸もまた香澄の身体へと接続される。


 紡ぎ出されるのは、“命の循環”。



 「……ぐっ、死なせ、ない……、絶対に……ッ」



 香澄の背に生じる灼けるような激しい痛み。


 それはハンベイが負った傷の半分程度でしかないが、即ちそういう事である。


 死を司る女神の奇跡。


 瞬く間にハンベイの顔に血の気が戻るが、反面香澄の顔からは著しく血色が失われて行く。


 これは、効果範囲内に存在する命ある者の生命力や病、果ては失った血液や欠損した細胞に至るまで、その総てを均等に分配するという魔術だった。


 故に、再び舞い戻って来たキンシロウと駆け付けた下男下女たちもその力の環に取り込まれ。



 「こ、これは……っ!?」


 「悪いけど……、皆の命、少しだけ……分けて、あげて……っ」



 瞬時に香澄の放った言葉の意味を理解した彼らは、キンシロウを筆頭に一様に頷き。


 一人の致命傷を総勢20人以上で均等に請け負う。


 その結果……。



 「ぅ……」



 今まさに尽き果てようとしていた命の火は、今此処に再燃を始めるのだった。

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