第二十九話
第二十九話「闇に潜む者と目覚める戦鬼」
「―――魚が食い付いた」
リムニルグ村から僅か1キロ。
北西の山林から村の様子を窺っていた黒い影は呟いた。
ここ一週間ほど、彼はこの辺りにキャンプを張り、ずっと村を観察していた。
それは酷く退屈な時間で、しかし自分に与えられた任務故に放棄する事もならず。
「ようやくお出ましかよ、お姫様……ククッ」
村から北方の川上に伸びた街道で、巨大な怪物と戦う女を睨み。
女の姿は、正しく漆黒。
黒い鎧に黒い髪。黒い鎖に黒い炎。
情報通りの井出達で、“黒炎の戦姫”は彼の怪物と対等に渡り合っていた。
「聞いてた通り、ありゃマジのバケモンだな……。オレ様のキマイラと互角にやり合っていやがる」
1キロというその距離は、彼の目にとって決して遠い景色ではなかった。
見えているのだ、常人には豆粒のようにしか見えない彼女の容貌までも。
「にしてもよぉ……アレ、ガチでイイ女じゃね? 体付きもオレ様好み。コレ終わったら、連中に交渉してみっか……」
ベロリと出したピアスの刺さった舌で、三日月に歪んだ唇をなぞる。
嫌らしい笑みだった。
その頭の中で、何を妄想しているのかが容易に想像出来てしまう程に。
しかし、彼の行動は言葉の軽薄さとは裏腹に、慎重そのものであった。
まるで、獲物に狙いを付ける狩人のように。
これ程に距離に余裕を以って、尚も物音一つ発てず。
人一人が背を預けて隠れ切れるだけの十分な太さを持った樹木の陰で、腰から妖し気に光る短剣を抜き放つ。
「―――女は殺すな。生け捕りにする。ただし、他は知ったこっちゃねぇ、全部纏めて食い殺せ」
その言葉に呼応するかのように、短剣が放つ紫色の淡い光が輝きを増した。―――同時。
『■■■■■■■■ッ!!』
キマイラが大気を震わせ、咆哮を上げた。
強靭な前足で地面を踏み付け、爪を食い込ませて胸郭を大きく膨らませる。
直後、獅子の大顎から吐き出されたのは、火炎、火炎、火炎。
僅か一息で周囲にある全てを焼き尽くそうとする炎の息吹。
距離を取って魔術で応戦していた数名のエルフが、その炎の爆風で大きく吹き飛ばされた。
「クァッカッカッ、雑魚がッ! オレ様の最高傑作に、手前ェらみてぇな三下が敵う訳ねぇだろうがッ!」
“黒炎の戦姫”は善戦している。
しかし、三つの頭を持つキマイラには、同時に三つの攻撃を平行して行う事が出来てしまう。
獅子の頭を防いでも、その間に山羊の頭と蛇の頭が猛威を振るうのだ。
獅子は炎を、山羊は雷を、蛇は毒を。
しかも、全長8メートルを超える程の巨体でありながら、その敏捷性は極めて高く。
ネコ科の動物を思わせるような機敏さで戦姫の攻撃を交わし、強靭な前足の爪で反撃に転じる。
死角無し。という言葉がピッタリと当て嵌まるような、それ程の怪物であった。
「どうよ、お姫さん。対策も十分なんだぜぇ? ま、判ってるみてぇだけどな……クァッカッカッ」
そう、香澄が予想した通り、キマイラには炎が効かない。
例えそれが、物理に近い属性を持った特殊な“黒炎”であったとしても、だ。
事実、何度か黒炎を放って試してみた香澄だったが、キマイラの体表こそ僅かに焼き焦がす物の、殆どダメージを与える事が出来ていなかった。
結果として、物理攻撃に頼る戦い方になってしまい……。
「―――チッ、黒龍槍でも駄目か……ッ!」
「姫様! お下がり下さいッ!」
黒槍を撃ち出し、突き立てても、分厚い皮膚の層を微かに斬り裂くだけ。
黒狼甲も、黒鷹爪でも駄目だった。
黒鎖その物で拘束も試みたが、それすら強引に引き千切られてしまい。
「クソッ! 魔術も殆ど効いてないッ」
「弱音を吐いてる暇があるなら、姫様を援護しろ! 何としても……村への侵入だけは阻止するんだッ!」
魔術に対する耐性も異常な程高い。
その所為で、香澄を援護する為に放たれる魔術も殆ど成果を上げられずに居た。
そして、何より……。
「クッソ! またなのッ!?」
「■■■■■■■■■■■■―――ッ!!」
ある程度ダメージが蓄積してくると、キマイラは大きく咆哮し、自らその傷を治癒する術を発動してしまうのだ。
この為、戦いは何度も振り出しに戻ってしまい。
「こんなの……どうすりゃ良いってのよッ!」
攻略法が見えない。倒し様がない。
そして、心が折れてしまいそうになる。
「クッカッカ……! そうだろ、そうだろ。悔しいよなぁ? 苦しいよなぁ? 先の見えない戦いってのは、そういうもんだよ、お姫さま。クァッカッカッカッカッ!!」
嘲笑う。
確かに、香澄の戦闘能力は極めて高い。
キマイラの脚を止め、その場に釘付けに出来ているのは彼女の奮戦があればこそだ。
しかし、それでも、キマイラに致命傷を与える事が出来ない。
何故ならソレは、そういう生き物だから。
「―――キマイラ、兵士共を優先して狙え……!」
「■■■■■■■■ッ!」
その命令に従い、香澄と交戦していたキマイラの目が周囲の兵士へと向けられた。
「コイツ……ッ、エルフ達を狙ってッ!?」
獅子の牙を受け止め、鍔迫り合いの状態に持ち込まれた香澄は、動けない。
その瞬間、尾の蛇が大きく喉を膨らませたのを彼女は見た。
「ダメ……避けてッッ!!!」
「―――っ!?」
蛇が大口を開け放った瞬間、その喉奥からどす黒い紫色の気体が吐き出された。
それは一瞬で、狙われた兵士達の全身を呑み込み―――。
「ぁあっ、ああああああぁああっッ! ギィアアアアアッッ!!」
「熱ぃい!! 焼けるっぅううッ!!?」
鎧を腐食させ、皮膚から浸透して体内へと入り込む毒素。
表皮がまるで溶けるようにドロドロと泡立ち、筋繊維が剥き出しになってそれすら腐り落ちて行く。
それが、僅か数秒で彼等の全身を侵し、やがて骨だけを残して―――崩れ果てた。
「そん、な……っ」
香澄の表情が、悲愴に沈む。
守ると、約束した筈の命が、目の前で無残に奪われて行く。
「―――き、さまぁあああああああああッ!!!」
血が滲む程噛み締めた奥歯を鳴らし、憤怒の形相を浮かべて吠えるが。
その瞬間に飛び込んで来た牡山羊の角で横っ腹を殴打され。
「グッ、アッ」
その小さく華奢な身体は、10メートル以上も弾き飛ばされてしまった。
「姫ッ!!」
「クッ、姫様をお守りしろッ!!」
地面に叩き付けられ、苦痛で身動きの取れない香澄の下に、兵士達が集まり。
「姫様! ご無事ですかっ!?」
「―――ぅ……くっ、ぅ……っ」
「姫、様……?」
立ち上がれない理由は、痛みだけではなかった。
エルフの命は、一度きり。
死ねば、二度と生き返る事は無い。
死なせてしまった。
自分が付いていながら。
守ると仲間達に約束して、その上で信じて貰い、送り出して貰ったというのに。
目の前で奪われるという事の苦痛を初めて理解して、悔しさと悲しみで、視界が揺らぐ。
「―――死ん、じゃった……っ、三人とも……、守って、あげられなかった……っ」
「姫様……」
押し寄せる無力感で、足に力が入らない。
それを、あの男は嗤うのだ。
「クッククッ、カァーッカッカッカッカッ!! 何だよオイ、ざまぁーねぇなお姫さん!! けどよぉ、可愛いトコあんじゃねぇか、仲間がやられて泣きやがるなんてよぉーッッ!! ブァッハッハッハッハッハッ!!」
腹を抱え、フードを揺さぶり、大口を開いて哄笑する。
聞いていたより余程女らしい。
思っていたより余程可愛らしいじゃないか、と。
コレは云わば、彼にとって子供の頃にやったイジメの延長のような物だった。
楽しい、愉しい、愉快愉快。
弱い奴を力で捻じ伏せて、可愛い女の子の泣き顔が見たくて。
優越感と支配欲、そして嗜虐心が満たされて行く。
「なんでぇ畜生、マジでカワイイなぁオイ。もう交渉なんぞ知ったこっちゃねぇ、ありゃオレのモンにする。決めた!」
木陰から身を乗り出し、思わず溢れた涎を袖口で拭って。
ニタニタと嫌らしい笑みを浮かべながら、目を見開いて凝視する。
どうせ、十分に“仕事”は果たしている。
だったら、このままあの女を引っ掴まえて、そのままばっくれてやろうか、と。
「もう雑魚に容赦してやる義理もねぇ……。やっちまえ、キマイラ!」
その命令に従い、再び咆哮するキマイラ。
牙を剥き、爪を振り上げ、無気力に苛まれる香澄を尻目に、兵士達へと容赦なく襲い掛かる。
「クッ、何としても、姫様をお守りするのだッ!!」
「自分達が壁になります、その隙に、姫様をッ!!」
自らを盾に、香澄を守ろうと剣を抜く兵士達。
しかし、その力の差は余りにも絶望的だった。
「ぐぁあああッ!!」
「畜生ッ! よくも仲間をッ!」
キマイラがその爪を、牙を振るう度、儚く消えて行く命の火。
何故? どうして? 勝ち目など無いというのに。
もういい、止めてくれ。
どうせ自分は死んだって生き返る事が出来る。
でも、オマエ達は。
「に、げて……っ、もういいからっ、みんな逃げてっ!!」
「―――出来ませんッ!!」
「っ!?」
香澄を抱き起こし、絶望的な彼我の戦力差を、仲間の死を前にして尚、エルフの兵士長はその命令を拒絶した。
「たかが一介の兵士に過ぎぬ我々の死に、涙を流してくれるようなお方を、我々は決して見殺しになどしないッ!」
「でもっ、このままじゃ……っ」
「例え全滅しようとも、村人達を犠牲にしようともッ!!」
兵士長は香澄を背に庇い、迫り来るキマイラの爪を剣の腹で受け止め。
「貴女様だけは、絶対に死なせはしないッ!!!」
この一瞬で、10人居た兵士達は、彼一人になってしまっていた。
その彼も、数十トンはあろうかという巨体の攻撃を受け、圧力に耐え兼ねて膝の骨が砕けてしまっている。
立っている事など、到底不可能。
折れた骨が大腿を突き破って露出してしまっているのだ。
しかし、それでも、彼は倒れなかった。
衝撃で内臓もやられ、血反吐を吐いていながら、尚も剣を握るその手から力を抜く事だけはしない。
「なん、で……」
最早、戦えるような身体ではないというのに。
「なんで、よ……」
それでも剣を放さず。
「なんで……、そんなに頑張れるのよ……っ!?」
例え死しても、己が信念だけは貫かんと。
「オレは……っ、その為にっ、剣を取ったんだッ!!!」
足腰など疾うに使い物にならない。
それでも、まだ腕は残っている。
ならば、何を迷う必要がある。
剣を突き立てよ。
命を焼き尽くせ。
「―――我らが王女殿下に、栄光あれぇえええええええええッ!!!」
体内に内包する全ての魔力を突き立てた剣の切っ先に注ぎ込み、放たれる閃光。
それは、まさしく彼が放った命の光。
切っ先で傷付けられた僅かな足裏の傷口から、キマイラの体内へと衝撃が流れ込んだ。
「■■■■■■■■ッ!!?」
瞬間、大木の幹程もあるキマイラの剛腕が、血飛沫を上げて砕け散った。
その余りの破壊力に、彼のキマイラが踏鞴を踏む。
「―――くっ、う……っ」
爆風で、香澄も吹き飛ばされてしまうが、しかし。
まるで、狙いすましたかのように彼女の身体は干し草のクッションに包まれた。
「グルル……ッ!」
が、だというのに。
決死の覚悟で兵士長が放った一撃でさえ、キマイラを死に至らしめる事は出来ず。
「―――っぶねぇ……。なんだ、あの野郎。自爆しやがったのか」
その様子を遥か遠くで見詰めていたフードの男は、冷や汗を流し。しかし。
「ま、この程度のダメージなら、物の数分で完治すんだろ」
ケロっとした顔で言い放った。
そして、その言葉を証明するように、キマイラの身体は今この瞬間にも、既に再生を始めている。
人一人が命を賭した一撃。
その命の重みさえ、この絶望的な戦局を覆すには至らず。
香澄は、動かずジッと見詰めるキマイラを前に、完全に膝を屈してしまっていた。
「逃げろ、って……言ったのに……」
涙が、頬にこびり付いた返り血を溶かし、顎を伝う。
こんな無力感を味わったのは、生れて初めての事だった。
どんな事でも、大抵は人より上手く出来て、イジメにあった時でさえ、涙一つ流さずに返り討ちにしてやった。
誰もが羨むような才能と家柄、知識と実績、美貌と身体能力。
何もかもを持っていた筈の自分が、初めてぶつかった絶望的な壁。
―――諦念。それはきっと、そう呼ばれる物。
「バカみたい……、みんな……みんな、死んじゃって……っ」
こんな風に泣いた事が、生涯に一度でもあっただろうか。
見上げれば、既に腕の再生を半ば終わらせ、迫り来る脅威。
「もう、殺せばイイじゃん……。好きにしてよ……」
大きく口を開き、香澄へと近付く獅子の顔。
が、しかし―――。
「―――何をしてるでござるか、カスミ殿」
そこに、その静かな声は響いた。
「総員、攻撃開始ッ!!」
「「応ッ!!」」
背後から聞こえた怒号と共に、軍靴の音が響いた。
「■■■■■■■■ッ!!?」
突然の爆撃。氷柱の激突。落雷。風刃。衝撃。
雨のように降り注ぐ魔術の応酬に、キマイラが怯み、後退る。
「オラオラっ、行くぜ!」
「村に近付けさせちゃ駄目よ! 前衛で足止めて!」
「任せろッ!」
駆け抜けて行く鎧を纏った剣士たち。
その突撃で、キマイラは錯乱状態に陥っていた。
「みん、な……、カズ……」
香澄が顔を上げると、そこにあったのは何時もの顔。
その和幸が、膝を立てて目線の高さを彼女に合わせた。
「何が、あったんでござるか?」
尋ねる優し気な声に、香澄は堪えていた物が全て溢れ出して。
「―――死、んじゃった……。みんな……っ、守るって、約束したのにっっ!!」
溢れ出す涙が止められず、和幸の腕に縋り付いて、泣きじゃくる。
それは、今までの自信に満ち溢れていた彼女からは、凡そ想像もつかないような姿だった。
「ごめん……っ、ごめん、なさい……っ、わたし……っ」
「解かったでござる。辛かったでござるな……」
肩を抱き、涙を拭って、小さな赤ん坊を宥めるように。
そして、しばらく。
剣戟の音と怒号が響き渡る戦場を、唐突に凄まじく強大な闘気の波動が覆い尽くした。
「―――カ、ズ……?」
「すまんでござるよ、カスミ殿。皆、苦戦を強いられているようでござるから、ちょっとだけ行ってくるでござる」
立ち上がり、香澄の髪を優しく撫で付け、振り返った和幸の顔には。
「―――全員、少し離れていてくれるかかな……」
「……っ!?」
歴戦の勇士達が、死線を潜り抜けて仲間達が、怯えて動けなくなる程の鬼が宿っていた。
「悪いね。でも……この怒りを、抑え切れそうにないんだ」
アバターラの仲間達は、まるで波が引くように両翼へ後退り、そのおぞましい程の殺意は、キマイラに向かって一点に絞り込まれ。
「■■■■■■■■ッ!」
威嚇。―――あの、キマイラが、だ。
和幸が一歩を踏み出す度、キマイラは喉を震わせながら一歩下がる。
しかし、鬼の形相はそれでも歩調を上げようとはしない。
下がるなら下がれ。恐れるなら恐れろ。それでも、貴様の結末は変わらない、と。
「お前が、やったんだな?」
「グルルル……」
「お前が、エルフの皆を殺したのか、って聞いてるんだ」
「■■■■ッ! ■■■■ッ!!」
会話になど、なる筈が無い。
キマイラは言葉を理解してなど居ないし、なにより、和幸自身が話しをしよう等とは微塵も思っていなかったのだから。
「―――貴様がッ、カスミちゃんを泣かせたのかって聞いてんだッ!!!」
「ッッッ!!?」
瞬間、大気が爆音を上げて爆ぜた。
和幸の全身から立ち上るそれは、その場の誰にでも見えている。
溢れ出す蒼金の闘気―――否、それはカタチを成した鬼そのもの。
裂帛の気迫に声も上げられず、キマイラが後ろに向かって本能的に飛び退いた程の。
「ボクはさ、嫌いなんだよ……。人を虐めて喜ぶような奴が、嗤っていられるような奴が……ッ」
その言葉を聞き、香澄は思い出していた。
以前、和幸から聞いた、下らない話しだった。
香澄が昔、イジメられていたという過去を話した時、彼はこう言ったのだ。
『自分も昔、イジメにあっていた時期があったんでござるよ』
―――と。そして、こうも言っていた。
『自分に向けられた物なら、それはそれで仕方ないとも思っていたでござる。まぁ、こんなナリをしているでござるしな』
そんな風に、笑い話のようにして。
しかし、その後に続いた言葉を、香澄は忘れられなかった。
『でも、親しい人がそういう目に合うのだけは、どうしても許せなかったでござる……』
それは、彼の亡くなった妹の事だった。
後になって知ったのは、その妹が、イジメを苦に自殺をしていたという事。
兄である自分の見た目を馬鹿にされ、苦しんで、その挙句に、通っていた学校の屋上から、飛び降り自殺をした、と。
だから、許せない。
自分以外の誰かを泣かせる輩が、嗤って人を殺すような輩が。
「―――楽に、死ねると思うなよ」
握り占めた二枚の盾。そして、全身を覆う鎧。
それらは、何時の間にか溢れ出す闘気を呑み込み、別の物に姿を変えていた。
―――ズシリ、と地面に突き立てられたのは、一対の巨大な金棒。
全身を覆う鎧は、その憤怒を象徴するかのように、更に厳めしく刺々しい形に変化し。
「貴様は……ブチ壊すッ」




