10
「最後の一枚――杯か」
「嵌めるよ」
「いや、待ってくれ」
最後の一枚を嵌めてしまえば、おそらく床が落ちる。
どれだけの高さかなのかわからないが、たとえ低くても打ち所が悪ければ良くない。
足を怪我でもしてしまえば、この先不安である。
「あ、嵌めちゃった」
「おい……」
床が揺れる。
落ちるのは一瞬だった。
その一瞬、部屋の壁が光っていることに気がつく。
一箇所――その意味は僕にはわからないが、なぜか他人事のようには思えなかった。
――――――――――
安全な場所を探して彷徨っていた。
「ママは悪くない」
「……」
ママと呼ばれた女性は、ただ空を見つめている。
降り続ける雪が肌に触れるたびに、わずかな痺れが彼女に生きている実感を与えていた。
「やめてよ。もう子供はいないんだから――」
見捨ててしまったのは誰だったか。
彼女だったのか、あるいは彼女の目の前に立っている男だったのか。
「まだ……」
男はそこで言葉を止めた。
それ以上言ってしまうことが躊躇われた。
彼女のお腹には子供がいる。
『まだ子供がいるから大丈夫』
そんなことを言うわけにはいかなかったのだ。
彼女を慰めるために言っていい言葉ではない。
「仕方がなかったんだよ、琴子」
「子供を見捨てることが……仕方がないことなの?」
なにを言っても、彼女を慰めることは不可能だと彼にはわかっていた。
「ああ、そうだよ。そうするしかなかった」
「じゃあ――」
彼女は彼に視線を移すと、左腕を見せつけた。
つい先ほどまで、息子を握っていた左手。
甲に僅かな切り傷がある。
「頭が痛いの。きっと子供を失ったから、自分の中の何かが崩れたんだって……そう思ってた。でも何か違うわ。見て、この血。赤くないのよ」
赤いはずの血が、何かが混じって濁っている。
その異常性に、彼は目を背けた。
「あなたはいつだってそうよ。なにかがあればすぐ目を逸らす。あの子だって、きっとあなたが勇敢に立ち向かえば助かった。いまのわたしからも、逃げたいって思ってる」
「そ、そんなことは……」
「もし、見捨てるというのが勇敢な行動だったというなら――今、わたしを殺してみせてよ!」
――――――――
「琴子! おい、琴子! ……死んだか?」
ぺちぺちと頰を叩いてみるが、反応はない。
ずいぶんと長い間落ちたような感覚だったが、怪我はなかった。
琴子にも外傷は見当たらないが、なぜか目が覚めない。
「……う」
「大丈夫か?」
ゆっくりと体を起こす琴子は、どこか様子がおかしかった。
「ねえ、ちょっと泣いていい?」
「子供かよ」
「……今は子供よ。そう、子供だったのよ」
声も出さずに琴子は泣いていた。
目を瞑ってなにかを思い出しているのか――いまに消えてしまいそうなその姿を、僕はただじっと見つめていた。
次回投稿は7月14日21時予定です
諸事情により投稿が遅れます、申し訳ありません




