8 脅威
闇雲に走った。
その悲鳴は、奈々嘉のものだったのか、それとも彼の妹の声だったのか――いや、まだ他人の可能性もあるため判断をしきることができない。
そんなはずがないのだけれど。
瑛士には向かっていく先に何かがいることくらい、なんとなくでなくともわかってしまうのだけれど。
「恵美ぃいいいいいいいいいい!」
その声は、それまでの彼の冷静な態度は正反対といってもいいほどに、感情のこもった重い声だった。
返事を求めるその声は、遠吠えのように遠くまで響く――しかし、答えはない。
それがまた、瑛士と彼を焦らせる。
「武器を構えろ! 遠慮はするな!」
「言われなくてもわかってます!」
洋館が見えてきて、足取りははやまっていく。
逃げている時とは違った焦りが――額に汗が浮かび、肌にぶつかる風が刺さるように痛い。
「俺から行く――」
扉は何かにぶつかられたように破壊されていて、なにかが侵入したんだろうと判断する。
それが化け物によるだろうと想定して、瑛士はナイフを手にした。
「KAKAKAKAKAKAKAKAKAKAKAKAKAKAKAKA」
建物の中にいたそれは、あまりにも奇怪で、機械で、一瞬思考が止まる。
「KAKAKAKAKAKAKAKAKAKAKAKAKAKA」
彼の妹、恵美を庇うようにして奈々嘉が両手を広げて立っている。
恵美は苦しそうに首元を押さえ、転げ、もがいていた。
目の前にいる奇怪な――機械なそれは、一メートルほどの体を耳に嫌につく羽音を奏で羽ばたいている。
羽ばたいているとは言っても、その羽の動きは目に映ることもなく、その残像ばかりが止まったように見えるのみだ。
まるで光の灯っていない目には腕を広げる奈々嘉だけがうつり、他になにも見ていない。
尾の先端からは紫の混じった水色の液体が滴り、鼻をつく刺激臭はその液体のものだろう。
その姿は蜂のように見える――
天敵だ。
一目で、瑛士にはその存在が自分ではどうにもならないものだと理解した。
「KAKAKAKAKAKAKAkAkAKAKAKAKA」
見れば見るほどに、あふれるほどに湧き出てくる恐怖心は収まることなく、震える手から握っていたはずのナイフが滑り落ちる。
慌ててしゃがんでナイフを握りなおそうと思っても、膝は言うことを聞かずがくがくと震えたままだ。
「瑛士! 助けて!」
「――――っ!」
その声を聞いて背負っていた斧を握る。
奇怪な、機械なそれは勢いをつけてから奈々嘉に向かって飛んでいく。
背を追うような形で、瑛士は飛びかかった。よく見なくともその体は鉄のように鈍く光り、斧がうまくダメージを与えられるようには見えない。
それでも飛びかかるのは、いくらそれが無謀でも奈々嘉のためだった。
彼女のためにと飛びかかる彼を見て、視界の隅で影が動いた。
それは佐上という男で、彼も収まらない腕の震えを必死で堪えて銃を向けている。
「奈々嘉! ふせてろ!」
斧を振り下ろす。
しかしやはり――それは見事にはじかれて、斧だけを置いて、手だけを振ることになってしまう。
それでも――銃声――キンと甲高い鉄のはじける音がして、しかし奇怪な――機械な蜂は止まることを知らなかった。
「羽だ!」
佐上の声が聞こえ、瑛士は何も持たないままに飛びかかる。
体中が鉄だ。
となれば、羽ももちろんそうなる。
うすく平べったいとはいえ、その硬さは、鋭さは、速さも伴って十分な凶器となっている。
「う、うぁああああああああ!」
指先に電撃が走り、鋭い痛みが体中を震わせる。
それでも手を伸ばし、はじかれた何かに目を向けず、無理やりに掴む。
体が羽の動きに合わせて引っ張られ浮きそうになる――が、それでも必死にしがみついて、離れないように――羽の根元を見ると、どうやらそこには鉄の装甲はなく――
「佐上! ここだ! ここを狙え!」
「馬鹿を言うな! お前にあたったらどうする!」
「いいから! 妹がどうなってもいいのか!」
舌打ちが聞こえて、やっとのことで銃を構えた佐上。
羽を抑えることで動きを止めた蜂は、瑛士をついに視界に捉えた。
「KAKAKAKAKAKAKAKAKAKAKAKAKA」
その奇妙な鳴き声は、耳に張り付いて離れることはない。
頭を振ってごまかそうにも、そうすればまた羽がいまにも動き出しそうで――銃声――
「KA――――KKKKKKKKKKKKKKKKKKK!」
一瞬その体が震え、力が抜ける。
一度飛び降りて、転がっている斧を拾い上げ
「っあ!」
羽の根元に振り下ろす。
根元に深く突き刺さり、鉄の羽に手をかけ、一気に引き抜く。
紫の血が飛び散り
「下がれっ」
蜂から飛び降り、佐上は入れ替わるようにして蜂に飛び乗った。
何かを握っているようには見えるが――拳を羽の生えていた場所に打ち込み
「離れろっ!」
沈黙――その奇怪な、機械な蜂は、弱々しく音を発しつつその毒々しい尾を振って暴れている。
体に埋め込まれた何か。
それをどうにかしようとしているのか、しかし羽もなく、そこに届くほどの長さの手を持っていないそいつにはどうすることもできず。
「KA」
刹那、僅かな破裂音と共に紫の飛沫をあげ、どさりと力なく倒れたのだった。