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彼のそばを離れたのは一瞬のことだった。
目を離した一瞬――うずくまっていた彼の姿は、そこにはなかったのだ。
「え?」
影だけが、残されていた。
ただその影は、人のものだというには複雑すぎる形状である。
影の元を追いかけて空を見上げる。
自分の目を疑った。
結晶に身を包んだ彼女とは違う。
その姿はもう、エッジのようなものとなんら変わりがない。
「エイジ!」
ナナカはわけも分からないままに名前を呼んでいた。
答えもしないまま、彼は行ってしまう。
向かっている場所は、まだ空に浮かんだままの巣。
近づいて行っては、落ちてきてしまった彼女のように、落とされてしまうかもしれない。
必死で名前を呼ぶ。
彼は答えない。
こちらを見ることも、一度もなかった。
巣の周りに散らばっていたエッジは、彼を見て恐ろしい勢いで近づいていく。
落とされてしまう――ナナカは目を逸らした。
恐る恐る彼が飛んでいたあたりを見上げる。
「そんな……」
彼が飛んでいく道を護衛するように、いや、その光景は主人を待っていた付き人たちが、頭を下げて出迎えているような。
「だめ――戻ってきて! エイジ!」
それより先に行ってしまえば、彼はもう帰ってこられない気がした。
彼は振り返らない。
もう、ナナカのことも、落とされてしまった彼女のことも全て、都合よく忘れてしまったようだった。
「ナナ……カ……」
ふらつく足取りで、まだかろうじて人間の肌が露出している彼女がやってきた。
羽根は片方折られてしまったようで、もう飛び上がることはできない様子である。
血は流れないが、パキパキと嫌な音を立てて体を侵食していく結晶は、彼女の精神を少しずつ蝕んでいく。
「もう、私には戦えない。あと一度だけは飛べるだろう」
「……」
「普通の姉妹として、今度は会いたいわね」
「やめてよ……」
彼女は、ナナカを抱え上げて、巣を睨みつける。
一直線に巣に突っ込む。
ナナカを巣に届ける頃には、彼女の体は人間から完全に進化する。
そうなれば、もう人間ではない。
おそらく記憶も、意思も、自分ではコントロールできないだろう。
「いくよ、ナナカ」
「うん。美海姉ちゃん」
彼女はナナカの言葉に顔をそらした。
流れていく涙は頬を伝う頃には固まり始め、結晶の侵食をはやめるだけだ。
「あぁ――死にたくないよ、私」
最後に彼女はそう呟いて、涙をぬぐった。
体中の結晶が背中に集まっていく。
「カ――――――」
一度羽ばたくたびに、彼女の中にあったものが振り落とされていく。
「美海姉ちゃん!」
彼女は大丈夫だと、腕に抱えるナナカの顔を見つめた。
「――姉ちゃん!」
ナナカの叫ぶ名前は、彼女のものだ。
まだ、微かに、彼女は把握できる。
「――――!」
巣を目の前にして、彼女は自分のことを失っていた。
それでも彼女を動かし続けていたのは、ナナカを巣まで届けるという使命感だけだった。
エイジが入っていた場所にはまだエッジが多く集まっている。
入るなら、入り口ではない場所だ。
「ありがとう」
彼女は薄れていく意識の中で、誰かの言葉を聞いた。
泣いてしまって、そのあとその誰かが何を言っているのかはわからない。
こうして、彼女はこの時代から去った。




