6 シータ
「さ、大丈夫か」
ハジメはそう言って三崎を起き上がらせた。
おれのことはもう目に入っていないようだ。
「三崎から離れろよ」
「なに、心配すんな。俺は国のやつとはちげーよ。それに、弟の彼女をとったりなんかしねえ。ほら、お前も起こしてやろうか?」
「いい、立てる」
手を振り払って立ち上がる。満足そうに笑って、ハジメはまた頭を撫でてきた。
大人と話すのはおそらく、初めてではないだろうか。
教師との会話はなかったし、仕事では指示を受けるのみで話すことは絶対にない。
母親の話は聞いていただけで、会話は出来ていなかっただろう。
「頼みがある」
「おう、なんでも言ってみろ。俺はお前の兄だからな」
にんまりと笑って、ハジメは言う。
おれに兄がいるなんて話は、母親には聞いていなかったが。
「おれたちを助けてほしい。追われているんだ」
ここまで教師たちがくるのも時間の問題だろう。
「別に頼まれなくたって、お前を迎えに来たんだから。あの教室から出てきた時点で、お前は助けられる運命だったんだよ。まあもう一人増えちまったが、それはいいさ」
今度は三崎の頭を撫でて笑った。
「お前たちはもうこれまでのように生きられない。俺についてくるか、そこから飛び降りるか――。さっきは一択しかなかっただろうが、今は違う。選べ」
「そんなの――」
考えるまでもないことだろう。
「しっかり考えるんだ。お前も、三崎ちゃんも。考えて選んでほしい。俺についてくることは、決して助かる道じゃない。幸せになる道じゃない。よっぽど、そこから飛び降りたほうがいいのかもしれない。希望なんてどこにもないんだからな」
この人が、自分が兄だと言っていた意味をやっと理解した。
そうだったのだ。
彼は、おれと同じ母親に育てられたんだ。
「三崎、おれを信じてくれ。おれについてきてくれないか」
「うん。生きよう」
手をつなぐ。希望なんてどこにもない。でも、二人でいることはきっと、希望につながるはずだ。
「お願いします!」
三崎は頭を下げた。
おれはじっと、ハジメの目を睨みつけるように見つめた。
「よし! 二人ともついてきな」
「どこかに安全な場所が?」
「おう。だれにも見つからない場所がな。秘密基地ってやつだ」
こちらはいわば、子供の領域。
大人の領域のことは詳しく知らないが、人の目がつかないところなんてなさそうである。
「さ、行くぜ」
ハジメはそう言って、端に立った。
少し強い風が吹けば落ちてしまいそうだ。
「なにビビってるんだよ。さっきは飛ぼうとしてたじゃねえか」
「いや、飛ぶか飛ばないかって話はどこにいったんだ……」
『あにぃ! はやくしろ! バレたらどうするんだよ!』
「ほら、急ぐぞ」
ハジメは通信機のようなものになにかぼそぼそと呟いて、躊躇なく飛び降りた。
一瞬で姿が消える。
「三崎、いくぞ」
「う、うん」
おれたちも続いて飛び降りる。
ダンボールの山だ。あらかじめ用意してあったようである。
「ほら、はやく立て。すぐに追っ手が来るぞ。シータ」
「あ、うん。シータ?」
「お前は四人目だからな。シータだ。兄弟は皆同じ苗字だから、変えなきゃ紛らわしい」
ハジメも元は大門と呼ばれていたのだ。
この街では子供に名前はなく、苗字のみ。
大人だけが名前を持っている。
「シータ。うん、シータ。いいじゃない」
三崎は何度か呟いて納得したように頷いた。
ハジメの後ろ姿を追って駆けていく。
これからどうなるのだろう。
希望なんかどこにもない。
そのことにはっきりと気づくのは、まだまだ先のことだ。




