4 少年の覚悟
一言で言えば、私は恋をしたのだった。
生まれてから初めての恋――ずっと軍人になるためだけに生きていた私に、異性の姿は映らず、ずっと孤独に生きてきた。
そして今になって目の前に立ったのは
「本当……ですか?」
彼女だった。
年も離れた彼女から見れば、私のことはただの子供にしか見えないのだろうけれど。
そもそも私には母がいなかったから、あるいはこの恋とも言えないのかもしれない感情は、本来母に向かっていたものなのかもしれないが。
それでも今の私にとってはどちらでも構わない。
「逃げるんです。この街から出れば、まだ助かります。そのままひたすら遠くに逃げるんです。例のアレが来るまでに」
「でも――」
彼女の迷いは、彼女の夫の存在だろう。
おそらくだけれど、いま屋内にいないということは――もうまともに生きていないということになる。
例のアレの行動範囲は広い。
もうすでに街中に飛び回っているのかもしれない。
玄関の扉は丈夫で、なにかがぶつかり、中に入ろうとしているのを拒んでいる。
その音が聞こえる度に血の気が引き、今にもここを立ち去りたくなるが、目の前にいる女性を見放すことができなかったのだ。
「大丈夫です。私があなたを守ります。だから付いてきてください」
彼女の返事を聞かず、私は手を取って裏口に回った。
自分が来ていた服を彼女に羽織らせ、体を冷やさないようにと気遣った。
「この街から出る道は一本しかありません。歩けば少し時間がかかりますが――」
「大丈夫。歩けるわ」
手を引いていきたいところだったけれど、実のところそんな余裕はなかった。
玄関に入ろうとしていた化け物を横目に、気づかれないように、音を立てないように歩く――
「かかか――かかかかかかかかかかかか!」
聴覚に優れているという情報はなかった。
来るとわかった瞬間、私は銃を迷わず撃った――いままではまともに握ることすらできなかったのに。
その判断は間違ってはいなかっただろう。
ただ、正しくもなかったのかもしれないが。
「かかかかかかかかかかかかかかか」
銃弾はいともたやすく弾かれ、その瞬間、私は悟ってしまった。
勝てない――。
ゆらりゆらりと近づいてくるその姿は、もはやもう人間とは思えない、醜い造形だった。
右半身はすでに結晶化が進み、頭部には飴色結晶でできた花が咲いている。
かろうじてまだ人間の面影を残している左腕は、玄関のガラスを割ったからだろうか、血まみれになってしまっている。
流れる血は赤ではなく、水色に赤が少し混じっただけという気味の悪い液体が垂れ流れるだけだ。
それは空気に触れると少しずつ固まり始め、結晶化を始めていた。
その結晶はどんな衝撃にも耐えられるように考えられたものだった。
国が全勢力をあげたとしても、その結晶を砕くことはできないだろう――。
ならそんなもので体を包んだ生物に、一生物がまともに太刀打ちできるはずがない。
「かかかかかかかかか」
それでも、逃げを選択することは出来なかった。
後ろにいる彼女を連れての逃亡は、まず不可能だ。
無理はさせたくない。
「がんばって! 男の子でしょ!」
背に向けられた声援は、場合によっては力になり得ただろう。
しかし、こう相手が悪いのであれば、どうもしようがない。
いまだむき出しになっているのは左足――しかしそれも時間の問題だろう。
それに、例え足を切ったところで、それが致命傷になるとは思えない。
なにしろその生き物は人間ではないのだから。
化け物なのだから。
「かかかかかかかかかかかかか」
どうしようもない。
もう本当に、逃げるという選択肢しか残されていなかった。
「かかかかかかかかかかかかかかかかかかか」
近づいてくる足音。
それでも私の足は動かない。
動かせない。
「かかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかか」
近づいてくる足あとは二つあった。
「どうせならね。やるだけやりましょう。諦めるのはそれからでもいいじゃない」
私の構えたままだった銃を支えるようにして、彼女は隣に立った。
たったそれだけのことだったけれど、私にはこれ以上とない支えになった。
「ごめんなさい。守るとか言っておいて――」
「もう守ってくれないのかしら?」
そう言って彼女は、化け物の方へ視線を移した。
私は覚悟した。