11
「死んで当然の男だった」
彼女の声は澄んでいた。
耳を通り抜け、心に刺さるような深い声色だった。
その男が何をしたのか、ナナカは知っている。
彼は人を救おうとし、人を滅ぼそうとした。
どちらも事実だ。
彼が何もしなければ、氷河期によって大勢の人間は死んでしまっただろうが、それは自然の流れ――だれもが受け入れられた絶望だっただろう。
彼のせいで、死ななくてもよかった人間まで死んでしまったことは忘れてはならない。
逆に、彼のおかげで生き残ることができた人々も、どこかにいるのかもしれない。
しかし、彼はもう降りた人間だ。
殺してしまっては、そこで何もかもが途切れてしまう。
彼の知識があれば、まだナナカに話していなかったことが、これからの助けになる可能性は十分にあったのだから。
繋がりを、継ながりを――ここで断ち切ってしまってはいけなかった。
「……」
どうして、彼女は泣いているのだろうか。
ナナカはその美しい姿に目を奪われる。
女王というからか、まさに母のような温かみのある表情が、ナナカの視線を完全に支配していた。
もはや感情も、ナナカを無視して身勝手に揺れ始める。
『こんなことしたくない』
それが声になっていたかどうかは、ナナカにとってはどうでもいいことだった。
確かに、それは彼女の声だったのだから。
まるで助けを求めるような声が、確かにあったのだから。
それが敵であるとはいえ、まだ意識が微かにでも残されているのであれば、助けてあげなくてはならない。
ナナカの決意も、ナナカの空耳も、一踏みの血しぶきに流されていく。
踏み潰された屍が、彼女の足を汚していく。
薄い布一枚のような服は、血液を含んでも色は変わらない。
すでに汚れの限界を迎えているのだ。
一雫だけ。
たったそれだけの汚れがマフラーに飛びついた。
彼女は踏みつけ続けていた足を止め、マフラーを掴む。
どこに飛んだのか探しているようだ。
すでに汚れきったマフラーだ。
服と同じように、これ以上汚れがついてもわからない。
彼女が手を伸ばしたのは、エッジの中身の生き物だった。
新しい、本来の主人の周りを飛んでいた一匹は羽を掴まれ、尾を取り上げられる。
水を蓄えたタンクである。
中身をひっくり返して水を被った彼女は、マフラーを撫でて汚れを落とそうとしていた。
外してしまった方が、汚れは落としやすいはずだが、彼女はどうやら、マフラーを体から離すこと自体を、嫌がっているようである。
ナナカは、一歩足を力強く踏み込んだ。
それは、彼女の覚悟の現れである。
助けなくてはならないと思う感情は、ナナカの体を流れる毒がそうさせているのだろうか――彼女は、生きていてはいけない存在なのだ。
白銀の皮を引き剥がしたところで、女王が死ぬとは限らないのだから。
そもそも、皮を剥がすくらいなら、殺してしまった方が手っ取り早いと考えてしまうのだが。
何にせよ、いずれ目の前に立ちはだかる脅威が、目の前に現れたことは幸福だった。
知らないまま、意図しないタイミングで襲撃を受けてしまえば、つまり、守らなければならない誰かがいる状況で遭遇すれば、ただただ不利な状況が続くだけだっただろう。
いま守るべきはナナカの体のみ。
形態が少しばかり違うとはいえ、エッジはエッジだ。
一匹二匹なら問題なく破壊できるはずである。
目の前にいる数百匹であったとしても、その体の大きさのせいで、同時に襲ってこられるとしても五匹が限界だろう。
三匹からの攻撃を躱しながら、確実に二匹を破壊する。
いや、彼らのことなんてどうでもよい。
ナナカは自分の体が壊れても構わないのだ。
ただ、目の前の女王という存在だけを破壊できれば、きっと全てが終わるのだから。
ナイフを抜き、振りかぶったナナカは、向かってくる殺気を全て無視して、そのたった一つの体にのみ集中する。
一撃だ。
たった一撃ぶつけてやれば、致命傷は与えられるに違いない。
「……」
首に向けての一撃は、躱されることもなく直撃した。
切ったという感覚はナナカに伝わってこない。
握っていたはずのナイフが無くなっていたのだ。
消えたのではない。ただ、衝撃に耐え切れず砕けてしまったのである。
殺気はナナカに向かってはこなかった。
ナナカのすぐ側に女王がいるということもあるだろうが、その女王自身にも、鋭利な針があるからである。
人を殺すことができる凶器が、腹の辺りから突出――そこに針があることを、すでにナナカは見ていた。
目の前で戦いから降りた人間を、それで突き刺したのだから。
ナナカは避けることを諦め、その艶やかな横顔に、足を叩きつけた。




