2 希望の蜂
服はかなり着込んでいるが、それでも外の寒さは耐え難いものだ。
むき出しの頬がまるでなにかに切られたようにひりひりと痛む。
軍人だからそれなりにいい物資は支給されているはずなのに、氷河期前のこの時期ですでに耐え難いとなれば――やはり二十年後の死の時代を人間が生きていくことは不可能ということなのだろう。
背負っているナップサックには、例のアレの研究資料と、食物庫から拝借した保存食。
腰のベルトには拳銃がぶら下げてあるが、きっと使うことはないだろう。
そもそも例のアレには、銃なんていうものはまったく効かないのだから。
この銃は例のアレを仕留めるためのものではないから当たり前なんだけれど。
『聞こえるか』
「はい、聞こえています」
胸元にある無線機から聞きなれた上官の声が聞こえる。
『わかっていると思うが、例のアレはおろか、例のアレに襲われた人間には銃は効かない』
「わかっています」
『ならよい。銃はしかるべき時に使うのだ』
「はい」
ぶつり、と乱暴に通信が切れ、ひとつため息をつく。
この銃は元々、国民を守るためのものだったはずなのに
「あ――」
遠くで銃声が聞こえた。
一人殺されたのだろう――一般人が。
例のアレは毒を持っている。
その毒に襲われた人間は驚異的な進化を見せ、氷河期であったとしても、栄養源なしでも生きていくことができる――と言われている。
あくまで研究資料にはそう書いてあっただけだから、真実かどうかはわからないのだけれど。
「KAKAKAkAkAKAKAKAKAKAKA」
いろいろ考えて、目の前の現状を無視――見なかったことにしようとしてはみるけれど、実際そんなことは不可能だった。
目の前に飛ぶその奇怪な、機械なそれは、現実のものとは思えないほどに浮いている――。
体は鈍い鋼色をしているが、尾の部分から垂れている水色の液体は見るだけでも気がおかしくなってしまいそうだ。
鼻をつく刺激臭はきっとその液体から発せられているのだろう。
銃を握ろうとして――銃がまったく効かないことを思い出す。
体が鋼色なのは、言うまでもなく、体が金属でできているからだった。
銃さえも弾くその体に有効な攻撃方法はない。
そもそも、人間が例のアレ――今、目の前にいるそれに勝ててはいけないのだ。
例のアレの毒――その毒は人間を著しく変容させるという。
手元にある研究資料には、失敗したという結果も残っていた。
その失敗を修繕している間に逃げられてしまったらしい。
失敗とは、人間が毒に耐え切れず自我を失ってしまうということだった。
自我を失ってしまうのでは、例え氷河期を生き抜いたとしても、意味がなくなってしまう。
生きていく意味がなくなってしまう。
毒の量にもよるが、平均して毒が体内に入ってから約一時間から二時間の間に毒が血液と混じり合い結晶化を始め、その後結晶が体内に広がり、脳に到達――その結果自我が崩壊する。
さらに時間が立つと体外にも結晶化が進み、最終的に体全体を包むという。
正直に言えば、自我を失う――ということ以外の結果については大成功なのだった。
結晶体になる過程で、人間は体温を急激に失い、結晶から生み出されるエネルギーによって、氷河期であってもまともに生きていくことができるようになるというわけだ。
実験はいい失敗をしていたのだ。続けていればきっと成功していただろう。
ただ、
「まともな頭をしているとは思えませんけどね」
姿を変えてまで人間は生きていたいのだろうか。
体を結晶に包まれ、化け物となったあとでさえ、人間は生きていたいのだろうか。
例のアレと出会ってしまった場合、人間にとれる手段はふたつ。
進化を受け入れるか、逃げ出すか――。
もちろん人間として生きたいのであれば、後者を選ばずをえないのだけれど。
例のアレは実のところ、蜂を元にした化学兵器だった。
それはあまりにも忠実にコピーされたもので、つまりそれは、蜂が苦手とするものは例のアレも同じように苦手だということだった。
習性としてもそれは言えることであり、ナップサックにぶら下がっていた発煙筒――僅かに光りを発しながら、ゆらゆらと黒い煙を発するそれは、逃げる上でこの上ない武器となっていた。
明るいものに近づく習性。
黒いもの、動くものに敏感な蜂にとって、これほどの物はない。
「あとは――」
身を低くして、静かに動く。
元々相手が蜂だとわかっていた以上、私が身につけていた服の色は白。
雪が降る中では十分な迷彩効果が得られるだろう。
と、十分な距離が取れたところで、
「かかかかかかかかか」
困難はひたすらに連鎖する。