1 例のアレ
私にその指令が通達されたのは、昨日の深夜、自室で研究資料を眺めていた時だった。
「例のアレが逃げた」
それだけだ。
たったそれだけの話が伝わってきた。
そしてそれはそのまま指令となっている。
銃を持て――そんな簡単な指令だ。
例のアレ。
それは国が作った世界を救う兵器のことだった。
二十年後にやってくる氷河期。それを科学燃料なしに生きていくための手段――人間が進化するための手段――言うならば人間の未来だ。
私は軍の中でも異質な、科学班に専属していた。
大した訓練もなく、ひたすら研究に没頭する毎日――それは有意義だったけれど、研究をするということに関してだけは有意義だったけれど――やっていることに関して言えば――。
「わかっているな?」
いいえとは言えない。
私は返事をする。
「どうして、例のアレは……逃げたのですか?」
「そんなこと、お前が知る必要はない」
「しかし」
「上官の言うことを聞けないのか」
「いえ」
頭を下げる。
私は大人しく身を引いて、上官が去るのを待つ。
見えなくなるまで待ち、やっとのことで頭を上げる。
格差というものは面倒くさいものだ。
どうしてこうも従わなくてはいけないのか。
そもそも、例のアレ――あれは成功するようにはどうしても思えなかった。
口をだそうにも、新参者の私にはそんな権利も度胸もなく、なにもできずその結果
「逃げられた、ですか」
というよりは――。
私は外に出る前に研究所に向かった。
例のアレが管理されていた、重要機密区域の最奥にそれはある。
「やはり、こちらでしたか」
パネルがいくつも並び、ドーナツ状の部屋の中心に水槽がある。
その水槽はひび割れ、中にいた例のアレはすでにいない。
なにかに逃げられたにしてはやけに綺麗な研究室に、やはり、と目を這わせる。
拭き取られたあとがある――
「実験は失敗している。例のアレはただの――生物兵器になっているというわけですか」
水色の液体。
これは研究資料にあった例のアレの重要成分だろう。
そして、赤い染み。
だれかが襲われたのだろう――血だ。
つまり、というよりそもそも、操るために作っていたはずのものが逃げたという時点で、実験は大きく失敗しているということになるのだ。
「はやくここをでなければ」
変に疑われても困る。私は外に飛び出した。




