延長戦が待っている、とか
「では、広田さんが無事テーマ企画を終えたことを祝して。乾杯!」
岡戸の音頭でビールジョッキが一斉に掲げられる。
「乾杯!」「お疲れさん!」の声があちこちから掛かり、真希は両手で持ったジョッキを次々と打ち合わせた。
駅前の居酒屋の座敷には、グループ総勢十八名が集っている。
そして真希は上座、服部の隣に席を与えられ、周囲をオジサマ方に固められていた。
「いや、今年の新人の発表はなかなか粒揃いだった。とはいえ、広田さんがピカイチだったけどね」
「ありがとうございます。皆さんと朝倉さんの丁寧なご指導があったからこそです」
満足気な服部に、真希はぺこりと頭を下げる。
身贔屓とはいえ、頑張りを認めてもらえるのは素直に嬉しい。
「広田さんもかなり良かったけど、隣のグループの樋川君、テーマ設定が秀逸だったなぁ。あれ、安西さんが面倒見てる子でしょ?」
課長の向かいに座ったオジサマが、お通しのきんぴらに箸を伸ばしながら尋ねた。
「そうそう。あの着眼点は新人離れしているよね」
「そういうセンスは、新人とか関係ないでしょ」
「いやいや、新人だからこその柔軟性じゃないの? 我々くらいになると硬直した思考に陥りがちだし」
「まあ、もうちょっとデータの補強が欲しいとこだったけどねぇ」
実験やシミュレーションを行う目的は主に二つ。
“こうしたらどうなるのか”を試みるため。
あるいは、“こうしたらこうなるはずだ”を検証するため。
研究の場では後者が重要だ。
まずは仮説を立て、それに沿ったデータを示しその検証をする。
今回樋川が用いたデータだけでは、論拠とするには少しばかり弱かったということなのだろう。
そういえば少し前、むっつり不機嫌そうに歩く樋川の後を、『今出てるデータをしっかり分析する方が先! 慌てて変なデータくっつけるより、今後検証を重ねる予定ですって言った方が、いいんだって! オイコラ、聞いてんのか!』と追いかける安西を見掛けたことがあった。
「その辺をきっちり詰めて、二ヶ月? 三ヶ月?」
「どうかな。二ヶ月ってとこ? 多分。どこに出すかによるけど」
いくつか学会名が上がり、ああじゃないこうじゃない、俺の時はこうだった、と話が白熱してゆく。
「そりゃあ、まあ、修業だもんね、広田さん?」
真希の周りで真希を置き去りにしたまま盛り上がっていたオジサマ方に、突然話を振られてごふっとビールに咽せた。
「――えっと?」
何の同意を求められたのか不明だ。
しかしそんな戸惑いを他所に、会話はまたするりと真希から離れていく。
をいっ!
「発表が終わったのに、息つく間もないなぁ。可哀想に」
全然可哀想に思っていない顔で、オジサマのひとりが首を振る。
「結構いいセンいってるんだから、中途半端なとこに出したらもったいないだろう。ここはひとつ踏ん張ってきっちり詰めて、出すとこ出す」
どうやら樋川には過酷な延長戦が待っているらしい。
「他人事のような顔をしているけど」
真希の横に座ったオジサマがニンマリ笑って顔を覗き込んできた。
「テーマ企画としては所内発表で終わりだけど、最終着地点は論文出すとこまでだからね」
「はい、それは承知してます」
すると、服部がふっとこちらに視線を向け、米国に本部にを置く国際的な学会名を口にする。
「――は?」
「広田さん、そこに投稿」
「え゛っ」
「多分、樋川君にも狙わせるんじゃないかな」
学術誌にも所謂ランクというものがあって、服部が上げたのはそのトップクラスのものだ。
受理のハードルも高く、たとえ受理されたとしても、査読のプロセスで半年くらいかかるとも聞く。
「修士の時、論文投稿は経験済みだったよね?」
「それはそうですけど」
国内の学会誌だったし、英語論文でもなかったし、全く違うと思う!
「いきなりそこですか?」
「いきなりそこですよ、修業ですから。色々経験して下さい」
服部がジョッキを掲げる。
過酷な延長戦が待っているのは、樋川だけではなかったらしい。
真希が眉を下げつつも自らのそれを打ち合わせると、周りのオジサマ方も再びジョッキを寄せてきた。
「はい、広田さんの今後の健闘を祈って」
「祈って」
「ほい、頑張って」
ガチャガチャと鳴るジョッキの向こうで、朝倉と岡戸がニヤッと笑いながらジョッキを掲げるのが見える。
どうやらその学会に投稿することになるのは、暗黙の了解だったらしい。
真希はそちらにもジョッキを小さく掲げ、目でどうも、と挨拶した。
まだまだ当分の間、朝倉の手を煩わせることになりそうだ。
そうこうしている内に、次々と料理が並び始める。
「――それで?」
振り返ると服部が、目の前の刺身を口にしながら身を寄せ、こそっと囁いた。
「朝倉君とはどうなの?」
ごふっ。
今度は冷奴に咽せて、真希は慌てて胸を叩く。
「ど、どう、とは?」
「言葉の通り。チューターとして、ちゃんと指導してもらってるかなって」
ああ、そういう。
誤解を招くような言い方に、真希は顔を引き攣らせつつもどうにか笑みを浮かべた。
「ここぞという時に的確なアドバイスを頂いていると思います」
「そう。それはよかった」
通りかかった店員にジョッキのお代わりを頼みながら、服部はふっふと笑う。
「このところ、らしくない朝倉君を目にする機会が増えたから、ちょっと気になっていてね。ピアスに反応してみたり、昼時の人目のある中、女の子引き摺って歩いてみたり」
どうにか浮かべた笑みが、ピキッと音を立てて固まった。
悪酔いしそう……
「とはいえ、万事順調なようで安心したよ。論文受理目指して、まずは励んで下さい」
「……も、もちろん、です」
それ以外に、何と答えられると?
「ところで広田さんはさ――」
真希は服部の何やら面白がるような視線から逃れるように、向いのオジサマの話に耳を傾けた。
宴が進むと、次第に席もばらけてくる。
オジサマ方の研究にまつわるあるある談などに相槌を打っていると、離れた場所に座る若手一団の中から岡戸が手招きするのが見えた。
真希は周囲に軽く会釈すると、ジョッキを手にして席を移動する。
「来た来た。はい、お勤めご苦労さん」
岡戸が笑いながら自分の隣の座布団をぽんぽんと叩いた。
真希はそこに座ると、はふ、と息を吐き、それから目の前に座る朝倉にぺこりと頭を下げる。
「論文投稿も、よろしくお願いします」
朝倉がすっと眉を上げ、皮肉っぽく口にした。
「そんなに身構えるほどのことじゃない。こいつらだって、こなしてきたんだから」
「ひどいっすよ、朝倉さん、こいつら呼ばわりは! 俺、結構必死で、泣きそうでした。岡戸さん、笑いながらすげぇシビアなこと言うんですよ」
岡戸にチューターをしてもらった、真希より二年ほど先輩の研究員が言う。
「“君には理解できるかもしれないけど、専門をちょっと外れた人が読んだらどうなのさ”とか“そんな駄文は査読して下さる方に失礼だろう”とかのどこがシビアなのか俺にはわからないねぇ、事実なだけに」
はっは、と笑う岡戸に、「それそれ、そんな感じでしたよ、終始」と文句を言っていた先輩も苦笑する。
「ハードルが高めの所に投稿するのが、服部さんの方針だからね。でも、終わってみると力になったと思うだろう?」
「ええ、まあ」
「そういえば、“修業ですから”って服部さんに言われました」
真希が言うと、朝倉が頷く。
「鍛えてやろうと思ってくれる人がいるっていうのは、恵まれてるんだよ。結局、鍛えるには手が掛かるわけだから。そういうの、面倒臭がって適当な所でお茶を濁すってグループもないわけじゃないからな」
「そうそう、それに服部さんは“失敗してもいい”って言ってくれますよね。そんなリーダーはなかなかいないですよ」
先程の先輩が口を挟む。
と、岡戸の手がぺち、とその頭を叩いた。
「お前は。いいように解釈するな。服部さんが言ってるのは“失敗という形でもいいから、きちんとした結果を出せ”ってことだ。何だかわからないけど失敗しちゃいましたーって持ってってみろ。あの人、あんなハチミツ好きの黄熊みたいな風貌だけど、滅茶苦茶こえぇんだぞ」
激怒する黄熊を不意に連想してしまい、真希は思わずぷっと噴き出す。
「そこ、笑うとこじゃないんだけど」
周囲から一斉に突っ込まれて、真希は小さくなった。
打ち上げという名ではあっても、実際はちっとも打ち上がってない――既に次の、それも結構ヘビィな課題がそこに見えているという状態では――という事実をヒシヒシと感じながら、研究発表の夜は暮れてゆく。