例えばピアスのことでも
思いがけず、打ち解けた雰囲気になってしまった。
ロータリーを出ていく白いSUVを見送りながら、真希は少し落ち着かない気分になった。
男ばかり三人兄弟の真ん中、とか。
そんな、普段ならば話題にしないようなことをついつい口にしてしまうくらい、朝倉は動揺していたということなのかもしれないけれど。
真ん中の悲哀、とか言っていたっけ。
兄ほど関心を持たれず、弟ほど甘やかされない――
成程そうやって、我が道を往く彼が出来上がったわけだ。
真希はくすっと笑い、車中でのやり取りを思い出しながら駅のホームに足を向けた。
『広田さんは一人っ子だろう』
そんな風に確信されるような行動を、日頃していたのだろうか。
『何ていうか、いい意味でマイペースだよね』
『そうですか? 若干浮世離れした父と二人ですから、自分としては、しっかりものの長女気質だと思っているんですけど』
『その辺りの割とエゴイスティックな自己分析の仕方とか、まさしく一人っ子だな』
『……そういう結構容赦ない物言いは 三人兄弟で鍛えられたからですか』
『性格なんじゃないか』
即答だし。
口許をヒクつかせる真希を気にするでもなく、朝倉は続けた。
『ところで、その若干浮世離れした君の親父さんに、今日の一件をどう話すんだ?』
『“修さんから手を引けと言われた”なんて、言えませんしね』
『押し掛けてきたことを言わない?』
『まさか。“わざわざ気に掛けてくれたみたいで研究所まで足を運んでいただいたから、お父さんからもお礼を言っておいて”って言うんですよ』
『なるほど。その如才なさは確かに長女かもしれないな』
口許を可笑しそうに歪める朝倉に、真希はどうも、と軽く会釈を返した。
『で?』
『プライベートな案件で、職場に突然アポなしで来られても困るって言っておいてって、ちょっとオブラートに包んで言います』
『どんな風に』
『……面白がってます?』
『全然』
『“折角来ていただいても突然だと席を外せないこともあるし、今後はゆっくり話せる自宅へどうぞって伝えて”ですかね』
『研究者は、大抵の文系の人間より言葉の扱い方が巧みだったりするんだよな』
朝倉の低い笑い声が耳に甦る。
真希は電車の窓に映る自分に向かって眉を顰めた。
その解釈を正しく出来る人ばかりではないんですけどね。
同じく研究者である“修さん”はきっと、こころもち困ったような表情をして言うだろう――……
「わざわざあんな遠い所まで真希の様子を見に行ってくれるなんて、律子君は本当に義理堅い人だなぁ」
ほらやっぱり。
斎藤の行動も、言葉も、いつだって正しく父には伝わらない。
真希はテーブルの向かい側を、苦笑混じりに眺めた。
先に帰宅してキッチンに立っていた父を手伝い、二人で手早く仕上げた少し遅めの夕飯を囲んでいる。
それを口にしながら、今日の出来事を朝倉に語った通りの言葉で伝えたところ、返ってきたセリフは想定の通り。
そして今、口に運びかけていた箸を止め、父は少し視線を遠くしている。
「僕も――」
「来なくていいからね」
「え?」
危ない危ない。
娘が働いてるところを僕も見てみたい、とかいう妄想に一歩踏み込みかけているし。
「職場参観なんて、有り得ないから」
「……わかってるよ」
ちょっぴり残念そうな表情を浮かべた父は、次の瞬間、“閃いた!”とでもいうような笑みを浮かべた。
「でも、仕事のついでに偶然目にするとかだったらどうかな」
「何言っちゃってるの」
「柳瀬さんに、産学協同プロジェクトの話をもらっていたんだよね、そういえば」
「ちょっと待った!」
柳瀬さんとは、もしかしなくてもテクニカの代表取締役社長のことである。
そしてまた真希の父は、私立大学理工学部の教授である。
彼らは大学の先輩後輩の関係にあたるらしいのだ。
「確か、彼の息子も先端技術研究所にいるとか聞いたな……会議の場所、そこに設定してもらおう」
「お父さん!」
「何かな」
「何かな、じゃなくてね。律子さんも、ちょっと心配してた」
「心配?」
真希はきょとんとする父に、今日の斎藤のセリフを若干アレンジして口にした。
「“親離れ、子離れ、ちゃんと出来てるのかしら”って」
まあ、ニュアンスとしては間違っていまい。
どうなのよ、と真っ向から見つめると、ぐ、と父が怯んだ。
「真希は、お父さんにとって特別だ。有希さんの――お母さんの分も、お父さんが大事にするって約束したんだ」
「でもお母さんは、お父さんに私の職場参観をしてほしいとは思わないんじゃない? 寧ろ、真希が自立できるように育てたんじゃなかったのって、膝詰めで説教すると思う」
父は徐に立ち上がると、リビングに置かれた仏壇まで行って、ちりん、とお輪を鳴らした。
「有希さん。真希は何だか有希さんそっくりに育ったよ。僕は、それを嬉しく思ってるけど、ちょっぴり困ってもいるんだ」
そう言って、母の遺影に手を合わせる。
「お父さん、ご飯冷めちゃう」
「……もしかしたら、有希さんより厳しいかもしれない」
「お父さんっ!」
テーブルに戻った父は、再び箸を取り味噌汁に口を付けた。
それから、ふっとまた箸を止める。
「そうだな。偶然に頼るなんて、研究者としては有り得ないアプローチだった」
「偶然から生まれた世紀の大発明もあったと思うけど」
「いや、その偶然は必然を積み重ねた末の偶然だ」
どうやら変なスイッチが入ってしまったらしい。
「決めた。真希と一緒に仕事が出来るようにお父さんは頑張る」
職場参観からまた随分と目標設定が上がったような。
「……研究分野が違うのに?」
「開発には色々な研究分野の人の協力が必要なんだよ。うん。何だか、俄然やる気が出てきた」
「私、開発部隊じゃないし。そもそもキャリア的にも厳しいでしょ」
それが、何年か先のことであれ。
父はその道では既にトップレベルの研究者であるし、新人研究員にはおいそれと手が届かない存在でもある。
「真希が、真希の専門分野できちんと頑張っていれば、いずれそんな機会が巡って来るはずだよ。開発にキャリアは関係ない。何ができるかが重要なんだから」
父は機嫌よさそうにそう言うと、「娘と共同開発かぁ……」と薔薇色の妄想に突入したようだった。
子離れの話は、どこぞに忘れ去られてしまったらしい。
斎藤の尖った視線を思い出して、真希は小さくため息を吐く。
親離れはちゃんと出来ていると思う、たぶん。
* * *
――一週間後。
「いい? あそこにいる人たちはキミの敵ではなくて、ちょっと意地悪かもしれにけど基本的にキミを育ててあげようという善意が前提にある人たちだから。そこんとこ、よく心して応答するように」
「わかってますよ、安西さん。僕だって喧嘩を売っていい場所と人くらい選べますから」
「……それは何かな。私は“喧嘩を売っていい人”カテということかしら」
研究テーマ企画の所内発表当日。
発表者の控室、真希の横では樋川と安西の愉快なやり取りが続いている。
「隣は全然緊張感がないようだが」
朝倉がぼそりと呟く。
「そうですか? 何だか樋川君じゃなくて安西さんが緊張しているように見えますけど」
真希が答えると、それを耳にした安西が手を差し出した。
「わかる? 私、自分のことでは滅多に緊張しないの。でも、ほら見て。掌に汗かいてるのよ」
「何で安西さんが緊張しているのか、僕には全く理解できません」
「それはキミの言動を、今ひとつ私が信用しきれないからじゃないかなっ」
しれっと口を挟む樋川を、安西は腰に手を当てて軽く睨む。
「やだな。そんなに心配されると、張り切りたくなっちゃうじゃないですか」
樋川が邪気なくにっこりと微笑んだ。
「張り切んなくてもいいから。普通に! この前練習した通りに! でもって、この緊張感は、既に心配っていうレベルを超えているの……胃が痛い」
「はいはい、僕はその気になれば天使のように振る舞えるんですから。でもって、今はその気になってます」
「あのね。天使じゃなくて、熱意ある新人研究員のように振る舞ってほしいの……ああ違う、熱意ある新人研究員としてよ、のように、じゃなくて」
「大丈夫です、僕の熱意は誰の目にも今や明らかですから安心して席で見ていてください。あ、ほら、僕、呼ばれました」
「じゃ、行ってきます」と軽く手を上げて立ち去る樋川を、真希と朝倉は「頑張れ」と声を掛けて見送る。
安西も「私、席でちゃんと監視してなきゃ」と言って慌てて立ち去った。
まだ何人も控室にはいるというのに、二人がいなくなると急に静けさが迫ってくるように感じられる。
真希は何となく深呼吸をした。
遠くから、発表会場の騒めきが漏れ聞こえてくる。
そろそろ準備が終わって、樋川の発表が始まるのだろう。
そして、その次が真希の番だ――
「大丈夫だ」
朝倉が真希を見て、ふっと微笑んだ。
「――え?」
「俺がチェックして、服部さんがOKを出した。内容的には、新人研究員として胸を張っていいものに仕上がっている。それに、会場では岡戸さんみたいに意地悪な質問をする人はいない」
少しずつ高まっていた緊張感が、不意にはらりと解けてゆく。
「岡戸さんみたいに?」
「そう。今日は何でピアスをしていないの、とか」
椅子に思いきり仰け反り、組んだ手をぐんと伸ばした朝倉が、ちらりと真希の耳元に視線を流した。
「誰も手を上げてそんなことを聞かない。今日、広田さんが聞かれるのは、せいぜいこの間の練習で想定した質問くらいだ。全然簡単だろう?」
真希はゆっくりと目を瞬かせた。
「簡単、な気がしてきました」
朝倉は軽く頷くと、真希の手許の資料を指差す。
「じゃあ、最終確認」
「了解です」
発表の手順と想定問答に没頭していると、いつの間にかかなりの時間が経っていたらしい。
「広田さん、準備お願いします」
名が呼ばれ、真希はハッとして顔を上げた。
「はい」
PCと資料を慌てて抱え持つ。
すると、目の前にぬっと手が差し出された。
「頑張ってこい」
真希がその手を握ろうとすると、「おっと」と小さく呟いた朝倉がすっと引っ込め、ズボンで擦る。
安西と同じように、朝倉も緊張している……?
目が合うと、朝倉は露骨に「何も言うな」という表情を浮かべた。
「頑張ってきます」
再び差し出された手をくっと握ると、真希はクスッと笑う。
「何だ」
「さっきの樋川君の気持ちがちょっとわかった気がして。代わりに緊張してくれる人がいると、自分はあんまり緊張しないで済むのかもしれません」
「……ほら、さっさと行って来い。とっとと終わらせて、俺をこの妙な緊張感から解放してくれ」
「はいっ」
真希はよしっと気合を入れた。
今だったら、何を聞かれても、どんなことでも答えられるような気がした。
例えばピアスのことでも。