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境界線の所在

すかさず「にゃん?」と鳴いて揶揄(からか)った安西に、朝倉は冷たく「去れ」と告げ、むっつりとデスクに向き直った。

不機嫌にさせた張本人は「怒らせちゃった」と悪びれずに言い、性懲りもなく「にゃんにゃん」と口ずさみながら去っていく。

それを半眼で見送る真希の向かいでは、余計な話を引っ張り出した張本人が「じゃ、俺、帰るから。広田さん、今日はお疲れ」と言って席を立つ。


「いや岡戸さん、それはないでしょうっ!」


この空気をどうしてくれる。

真希はぐい、とデスクに身を乗り出した。

すると岡戸もこちらに身を乗り出して、マジマジと真希を眺めてくる。


「……な、何ですか」


ここで身を引いたら負けのような気がして、真希はそのまま岡戸の視線を受け止めた。

ええ、“勇者”ですからね!


「葉っぱ、最近つけてこないよね」

「――は?」

「葉っぱだよ。よくつけてたじゃない」


岡戸は自分の耳を指差して見せた。

何でまたそこに話を持っていくんですか……

真希は口許を引き攣らせつつ、「ええ、まあ」と答える。

繊細なシルバー細工の小さな葉のピアスは、耳元で揺れるタイプであった。

お気に入りだったそれは、キラキラと光を反射するというわけではなかったが、例のやり取り以来目に煩いのかもしれないとつけていない。


「別に、ピアスの問題じゃなかったんだと思うよ」

「へ?」

「チラチラしたのは。ね? 朝倉クン。というわけで――」


岡戸は徐に身体を起こし、鞄を手にしてにっこりと微笑む。


「――お先に」

「ええっ!?」


“というわけ”とは、どういうわけよ! 

岡戸の背中に向かって密かに毒づくと、真希はちらっと隣を窺った。

“ね?”と明らかに話を振られた人は、まるで何も耳にしなかったかのように、益々むっつりと手元の資料に没頭している。

何だかもうよくわからないけど、取り敢えずやらなきゃいけないことを片付けてしまおう。

真希はため息を吐いて、スライドの直しを仕上げにかかった。


概ねの修正を終えたところで、手を組んで伸びをしながら時計に目をやる。

この時間なら、ちょうどバスに間に合いそうだ。

郊外にあるが故、通勤時間帯を少し外れると、バスの運行は二、三十分に一本の割合である。

服部には明日チェックしてもらうことにして、PCをシャットダウンし、真希はデスクの上を片付け始めた。

と、隣の朝倉が席を立つ。


「――帰るぞ」

「お疲れ様でした」


鞄に荷物を詰め込みつつ挨拶すると、思いがけないセリフが続いた。


「駅まで乗せていってやる」


真希は手を止め朝倉を見上げる。


「……え゛」


研究所(ここ)は場所柄広大な駐車場を備えており、車通勤の社員も多い。

朝倉もまたそのうちのひとりであるが、真希がこの手の申し出を受けたことは、今まで一度として、ない。

それなのに。

二人のデスクの間。

確かにそこに在ったはずの“立ち入るべからず”の一線は、いつの間にか曖昧にぼやけてしまったようで。


「帰るんだろう?」

「ええ、まあ。でもバスが……」


ありますから。

真希のささやかな抵抗は、あっさりと退けられた。


「遠慮するな」

「……ありがとう、ございます」



人気のないエントランスロビーを抜け、星の瞬く五月の夜に足を進める。

強引に誘ったくせに無言のまま歩く朝倉の背中を眺めながら、真希は眉を顰めた。

突然の申し出には、当然、それなりの理由があるはずで。

研究発表に関することならば、あの場で指摘すれば済んだこと。

であれば、やっぱり、アレか……


「アレは――」


ほら来た。

今日はとんでもない誤解をさせてしまってすみません、と謝るべき?

それとも、衆人環視の中あんな恥ずかしいことをさせてしまってすみません、とか。

勝手に想像力を暴走させたのは朝倉自身だけど。


「――理不尽だった」

「はいっ?」


キーを解錠する音がして、前方の白いSUVのハザードが点滅する。


「乗って」


無造作にそう言って、朝倉は運転席に乗り込む。

理不尽?

誰が?

真希が困惑していると、助手席側に身を乗り出した朝倉がドアを押し開いた。


「ほら」

「……すみません」


ブルン、とエンジンがかかり、真希は慌ててシートベルトを締める。

それから、膝の上のビジネスバッグを何となく力を込めて抱え、真っ直ぐ前を見つめた。

アイドリングの低い音が車内に響く。


「……」


しかし、一向にギアが入る気配がない。

真希は、ちらっと一瞬運転席に目を向けた。

朝倉はハンドルの上部で手を組み、難しい顔をしている。

沈黙が痛い……

やっぱり、今日の昼間のこと、先に謝っちゃおう。

考えてみたら、バタバタしていて、あの場で取り敢えずのお礼は言ったけれど、きちんとした謝罪をしていないし。


「あの」


意を決して切り出そうとしたセリフは宙に浮いた。


「音符もだ」

「音符?」


面食らって思わず振り向くと、朝倉と視線が重なる。


「葉っぱだけじゃない。音符もしていないだろう」

「ええと?」


ピアスのことだ。

どうやら今日の昼時のことではなく、岡戸が引っ張り出した例の一件のことを言いたいのだと理解して、真希は目を瞬かせた。


「アレは、理不尽な言いがかりだった。悪かった」

「へ? いや、でも」

「もっと早くに言うべきだったんだが」


悪かった、だなんて。

もちろん、朝倉は決して自分の非を認められないような人ではない。

でもあの程度のこと。

軽く流してなかったことにすることだって、出来ないわけじゃない。

尤も、岡戸が面白がってしつこく持ち出すものだから、これ以上の対応が面倒になっただけかもしれないけれど。


「岡戸さんの言う通り、ピアスの問題じゃなかった。あの時目についたのは確かだが、気が散ったのは別にそれのせいじゃない」

「……じゃあ、何のせいだったんでしょう?」


はて、と思わず呟いて、しまった、と口を覆った。

朝倉の眉間に皺が刻まれる。


「何のせいだったかはともかく、自分が落ち着かない原因を、わかり易くモノのせいにしたかったんだろう、多分」


他人事のようにそう言うと、朝倉は大きくため息を吐いて、ギアをぐいと入れた。

ぎこちない空気のまま、車は郊外の道を進む。

暫くして、朝倉がぼそりと呟いた。


「――あれ以来、例のピアスも葉っぱも音符も、全然つけてこない」


真希は目を見開く。


「気にして下さってたんですか?」

「そういうわけじゃない」


即答だし。


「ですよね」


ふふっと笑い、真希は頷いた。

一応そういうことにしておこう。

先程のセリフからして、きっと気が咎めていたのだろうけれど。

窓の外を流れる街灯を目で追いながら、真希は答える。


「私、“気が散る”と指摘されたものをまたつけて来るほど、神経太くありませんから。それに、予防的措置というか」

「予防的措置?」

「光るものに反応したのか、揺れるものに反応したのかわからなかったので――」

「“反応”って言うな」


朝倉が苦笑する。


「――取り敢えず、視覚に煩いと思われるものは、控えることにしました」


車が赤信号で停まると、朝倉はシフトノブから手を放し、髪をがしがしと掻き上げて何やら唸った。


「葉っぱは」

「はい」

「前から岡戸さんが気に入っていたみたいだから、つけてきてやってくれ」


――ぷ。


真希は思わず噴き出した。

面白すぎる。

このユカイな詫びの入れようは、どうだろう。

声を出して笑わないように耐える真希の横で、ガチャガチャとシフトチェンジをしながら朝倉がやけくそ気味に言う。


「音符は確か服部さんが、いいねぇ、と言っていた」


車がぐんと加速して、身体がシートに押し付けられた。

とうとう真希は声を出して笑い出す。

朝倉の口許も緩んでいる。


「朝倉さんはどうなんですか」


笑いを含んだ声で真希が尋ねると。


「あのチラチラとするヤツは、気を散らす感じが気に入ってる」


車はさらに加速して――

まるで、曖昧になった境界線をはるか後方に置き去りにしてきたようだ、と真希は思った。


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