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招かれざる客

その内線は、十二時少し前にかかってきた。


先端技術研究所(ここ)では、研究者ひとりにひとつ電話番号が与えられている。

基本的に外部からかかってくる電話は個人宛であるし、本人以外が出ても対応が出来ない専門性の高いものが大半だ。

とはいっても、新人研究員の真希にその手の電話がかかってくることはなく、せいぜいバックオフィスからの確認連絡事項が入るくらいで。

今日もまた、その手のものだと思ったのだ。


ため息とともに通話を切って、真希は唇を噛みしめる。


――昨日でも明日でもなく、よりによって今日。


一時からは、真希の研究企画の発表練習のため、グループ全員にわざわざ時間を割いてもらう。

その準備もあって、少し早めに売店に買い出しに行き、昼食は席で簡単に済ませるつもりだった。


「――どうした」


隣の席の朝倉が、PCに目を向けたまま尋ねてくる。

通常モードの無愛想な口調。

でも、目下育成中の新人研究員の動揺を、こんな風に敏感に察知したりするのだ、この人は。

真希は手元の時計をちらりと確認して、シミュレートする。

今までの経験上、そうそう簡単に追い払えるような相手ではないとわかっている。

出来るだけ早く切り上げるつもりで十二時半。手こずって四十五分。

昼食を抜いたとしても、ギリギリだ。

――であれば。


「お願いがあります、朝倉さん」


もしかしたら少し差し迫った声になっていたかもしれないが、真希に向けられたのは何の感情も浮かばない瞳であった。


「十二時半に、私のスマホに連絡を入れていただけますか?」

「――構わないが」


何故、とも、どうして、とも問われぬことに安堵して、図々しくももうひとつ。


「それに出ないようでしたら、お手数ですが、受付に私を呼び出すよう言ってほしいんです」

「受付?」


朝倉の眉が、片方跳ねあがった。


「はい。エントランスロビーにいると思いますので」

「――わかった」


対外的な活動をまだしていない新人研究員に、業務に絡んだ来客などない。

しかも、ランチタイム直前。

プライベートな用件――しかも、こんなことを依頼するくらいだから厄介な類だと判断したのであろう、朝倉は頷くと言葉を継いだ。


「午後からの準備は出来ているのか」

「後は運び込んでプロジェクターの準備と会議室の設営をするだけです」

「了解」


「お願いします」と頭を下げると、真希はエントランスロビーへと急いだ。


 * * *


全面ガラス張りのエントランスロビーは、緑豊かな景観と一体感があり、開放的で明るい。


「お久しぶりです、律子さん。お待たせしました」


あちこちに設えられたソファセットのひとつに、上品な淡いグレーのスーツを身に纏ったその人はいた。

父の幼馴染で同級生だという斎藤律子は、まだ三十代だと言っても通りそうな、すらりとした美しい容姿をしている。

若い頃に一度結婚したことがあるということだが子供はなく、社会保険労務士事務所を経営しているキャリアウーマンだ。


「いいのよ。突然呼び出したのは私なのだし」


ボブに整えられた艶やかな髪をするりと耳に掛け、彼女は薄らと笑みを浮かべる。


「お昼でも一緒にと思ったのだけれど、この周辺には何もないのね」

「ええ。外界とは隔絶した環境でビックリでしょう? 食事ができるのは社員食堂しかないんですけど、中に入るための許可証は簡単には出なくて」

「仕方がないわよね、研究所という特性上」

「飲み物くらいしかここでは用意できなくて」


真希は一旦席を立ち、受付にコーヒーを頼むと再び斎藤に向かい合った。


「今日は、どうしてこちらに?」

「……そうね、近くまで来たものだから」


最寄りの私鉄の駅からバスを乗り継いで十五分かかるここは、ついで(・・・)に立ち寄れるような場所ではない。

明らかに、わざわざ(・・・・)足を運んできたのだろう。

母が亡くなってからこちら、彼女はこうやって時々、突然真希の前に現れる。


「仕事はどう?」

「研究者として、ようやく独り立ちできそうかな、というところです」

「あら。もう一年経つというのに」

「今月末にある成果発表を終えて、やっと“新人”というタグが外れるんです。ですから、今は追い込みで少しバタバタしていて」

「一人前になるには、まだまだ時間がかかる、とうことかしら」


運ばれてきたコーヒーに口を付けながら、斎藤は首を傾けた。


「何をもってして一人前とするかによりますけど……。そうですね、今回発表する内容をきちんと英語論文にして、専門誌に投稿するなり学会発表するなりが求められますから、そこまで終えてようやく一人前といったところでしょうか」

「……まあ」

「その段階でも、ようやく研究者としての体裁が整った、くらいの意味合いですけど」

「随分と悠長な話ね」

「求められているのは、標準化された定型のものをこなす能力ではないので」


研究者として何が悩ましく難しいかといえば、オリジナリティのある目標の設定――それに尽きるのではないかと思う。

何のために。

あるいは、何を目指して。

学生であった頃には、単なる好奇心で研究課題もその方向性も選ぶことが出来た。

しかし営利団体に属する研究者としては、そこに益する研究であることが当然求められるし、常にそれを意識することが必要だ。

真希の思考が少し逸れたことを感じたのか、斎藤の声が微かに苛立つ。


「――それはそうと真希さん。社会人として、その格好はどうなのかしら」


今日は、スキニージーンズに裾がレースになった白いコットンのチュニックブラウスを合わせ、ネイビーのカーディガンを羽織っている。

ワードロープは、学生時代と大して変わらない。


「私たちはデスクでずっと仕事をしているばかりではなくて、実際に身体を動かして作業することも多いんです。大掛かりな装置を使うような時には上下作業服ですけど、簡単なものでしたら、上だけ作業服を羽織ったりで。だから皆、どちらかというと動きやすいカジュアルな服装をしているんです。うちの主幹も、普段はジーンズだったりチノパンだったり、後ろから見たら大学生みたいですよ」

「そうは言っても……」


不満そうな視線に、真希は肩を竦めて見せる。


「基本的に、外部の方の目に触れるような職場ではないですから。もちろんTPOに応じて、相応しい格好はしていますけど」


その辺りは、各自の良識に任されている――とはいえ。

真希の同期の男がスウェットで出社した際には、上司が「お前、いくらなんでもそれはないだろう」と言ったそうだから、暗黙の了解というものも歴然とあったりするわけで。

スウェット姿で悄気ていた同期の姿を思い出して、真希は口許が少し緩んだ。


「実用的なのはわかったけれど、もう少し装ってみたら……あなたも二十五なのだし、そろそろ周囲に目を向けて、自分の将来を真剣に考える時期なのではない?」

「将来、ですか?」

「そう。誰かいい人はいないの?」

「ああ、そういった意味の」


真希は苦笑した。


「律子さん。私は就職したばかりで、自分の仕事もまだ満足に出来ていないような状態なんです。今は、そういう方向に気持ちが向かないというか」


テーブルに置いたスマートフォンがブルル、と振動する。

朝倉だ。

スマートフォンを手に、真希は席を立とうとした。


「研究者としてのキャリアを考えたりはしますけど。ごめんなさい、律子さん、午後いちで――」

「いい加減、修さんを解放してあげたらどうなの?」


斎藤は低い声で、そんな真希を制する。


「あなたが側にいるから、修さんはいつまでたっても前に進めないんじゃないかしら」


はっと息を呑むと、キン、と耳鳴りがした。

それでも、どこか他人事のように冷静な自分が、驚くほど平坦な声で答える。


「解放も何も。私たちは同じ喪失感を抱えて、お互い寄り添っているだけです。それに、無理に前に進む必要があるんでしょうか? いずれ時が来れば、私が側にいようといなかろうと――」

「――広田さん」


突然、ここには現れないはずの、でも、聞き慣れた声が聞こえて、真希は我に返った。

勢いよく振り返ると、険しい表情の男が立っている。


「朝倉さん!?」


――え? 

確かにスマートフォンに入った電話はとれなかった。

でも、そういった場合に備えて、受付経由で呼び出しをお願いしていたはずなのに。

目を瞬かせる真希に向かって、朝倉は固い声で告げる。


「時間だ。行くぞ」

「ちょっとあなた、何なのっ?」


些か強引に真希の腕を引き上げて立たせた朝倉は、気色ばむ斎藤に向かって素っ気なく言い放った。


「折角こちらまで足を運んでいただいたようですが、申し訳ありません。彼女は一時からの会議の準備をしなければなりませんので、これで失礼させていただきます」


――いや、その通りなんだけど! 


「あのっ、朝倉さんっ」

「煩い、黙ってろ」


真希は混乱したまま、朝倉に引き摺られるようにして、その場を後にした。


――何で、怒ってるんですか。


主幹:職階の名称ですが、大体部長クラス

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