没頭してみたものの
「――というわけで、一年後には試作版をあげます」
新規プロジェクトの顔合わせでひと通りの説明をした後、プロジェクトリーダーとなった服部が柔和な顔でさらりと宣言すると会議室がザワついた。
「まだ何にも見えてないのにいきなりゴール設定かと思うかもしれませんが、そこから逆算ししていくと、各々のリミットも見えてくると思います。ま、こういうのは下から積み上げていくと、ひたすら時間だけを喰うことになってプロジェクト自体が陳腐化してしまったりするのでね。勢いでやっつけてしまいましょう。では、そういうことで」
ロの字型に長机が設営された会議室、右隣に座る朝倉が「そういうことでって……」と呻いて天を仰ぐ。
「試作ってどこまでの状態を言っているんですか?」
ガタガタと音をさせて席を立つ人たちを眺めながら、真希は左隣に座る先輩社員の市野に尋ねた。
「そりゃ、ちゃんとチップにするとこまででしょ」
「仕様書はもうあるんですか?」
「いやいやいや。こういうもの作るからねっていう完成予定と期限があるだけ」
配られたA4数枚のアジェンダを、市野がトントンと指先で叩く。
「つまり、ものすごーく大雑把な仕様はある」
それは仕様とは言わないのでは。
「ってことは、そこから詰めて?」
「そ。論理設計、レイアウト設計、アナログ回路設計、ソフトウェア設計までフルコース」
設計して、検証して、修正して検証――それぞれの段階で、ただひたすらそれを繰り返す。研究とはそういった地道な作業の積み上げである。
「でもって、各担当がちゃんと仕上げた後からが、実は本番」
市野はそう言って眼鏡のブリッジを押し上げた。
「それぞれの設計をすり合わせるだろう? で、シミュレーションで動作の確認をする。最初からちゃんと動くなんて期待しちゃいけない。エラー箇所の特定と修正が何度か入る。それが正常に動いたところで、既定の性能を担保させるためのあれやらこれやらがあってだな。つまり――」
「つまり?」
「控えめに言って、怒涛の一年を覚悟しろということかな」
真希は目を瞬かせる。
「随分具体的ですね」
すると腕を組んで椅子の背に身体を預け、市野は遠い目をした。
「服部さんが前回開発に引っ張られた時、お供させられたからさ」
「……させられた」
「今回は逃げおおせようとしたのに、『まあまあ、そこをなんとか』ってなし崩しにドナドナされたんだよ。俺はね、こういうそのまま開発お持ち込み案件とは、関わり合いたくないんですって言ったんだ」
「開発お持ち込み?」
「そこに書いてある完成形、もの凄くスペックが具体的だろう? 将来的にどういった形で使うのか、その辺りをきちんと想定しているんだ」
「こういうのって、そもそもそういうものなんじゃないんですか?」
「研究ってのは、こういうのが出来ました! って感じ。開発ってのは、こういうのを作りました! って感じ。わかる?」
「わかったようなわからないような」
ふっふっふと不気味に笑いながら、市野はこちらに身を乗り出す。
「このプロジェクトで、その辺りの違いを身をもって体験できると思うよ」
「脅してどうするんですか」
朝倉が資料をトントンとまとめながら口を挟む。
「おや。朝倉君は余裕だね」
「そんなことないですよ。戦々恐々です」
「またまたぁ」
そう言って市野も席を立つ準備を始めた。
「ま、冗談はさておき」
どこまでの何が冗談だったんだ、と混乱する真希を他所に市野は言葉を継ぐ。
「服部さんの人選は、毎度のことながら流石だよ。補完と相乗を見越しているっていうかさ」
市野には見えているものが真希には見えていないようで、つまり、何を言っているのかさっぱりである。
「あっちは、補完関係」
顔を寄せ合って話している安西と樋川の方をペンで指し示し、それからそれを真希に向けた。
「で、こっちは相乗関係、かな。で、この塊がまた別の塊とは補完の関係になる、とかね」
「よくわからないです」
「ある意味、回路設計と同じなんだなぁ。力の流れを作ってあげるというか」
朝倉が皮肉っぽく尋ねた。
「そういう市野さんは、誰に対してどういう位置づけなんですか?」
「俺? 俺は自己完結タイプ。周囲から影響を受けないし、周囲に影響を与えない。一種のメルクマールかな」
「じゃ、お先」と言って歩み去る市野を見送りながら、真希は眉を寄せる。
「自己完結タイプ? 市野さんて、実は触媒なんじゃありません? 無自覚に真ん中で渦を作っていたり」
クックと笑いながら朝倉も席を立つ。
「言い得て妙だな。広田さんも、巻き込まれないように注意しないといけないんじゃないか」
色んな意味で、真希を巻き込んでいる朝倉が何を言う。
というか。
ここ最近我が身に起きていることを、つらつらと考えてみるに――もしかして、自分は巻き込まれ体質なのでは?
いやいや、そんなことないって。
真希は慌てて首を振り、資料を片付け席を立った。
成果発表を英語論文に完成させ、ようやく投稿を済ませた頃、そのプロジェクトは本格的に始動した。
グループ内で作業の割り当てが決まり、それと共に段階的な期限が設定される。
忙しいのはいいことだ。
論文を検索し、回路設計ソフトに試行錯誤していると、余計なことを考える時間などない。
ついこの間まで心を煩わせていたことだって、いつの間にか――
「広田さん、それはどうしても今日?」
「――え?」
朝倉の声に我に返り、腕時計を覗くと、時刻は既に七時を回っていた。
真希の職位では、八時を超えて残業するならば服部にその旨申請しなければならないし、管理者たる服部も当然それに付き合わせることになる。
もう少し続けてしまいたい気持ちもあるが、それが今日、今でなければならない理由はない。
真希はふぅっと息を吐くと、指先で目頭を押さえた。
「いえ。切り上げます」
データを保存して、システムをシャットダウンする。
じんわりとした疲れを引き摺ったまま、真希は帰り支度を済ませ席を立った。
「帰るぞ」
「は?」
振り返ると、朝倉が鞄を手に立っている。
「初っ端から全力疾走するマラソンランナーには、まずペース配分ということを教えてやらないことには」
「……個人的には、息継ぎ無しで二十五メートル泳いでいるくらいのつもりだったんですけど」
「自覚があるなら、尚更悪い」
まだそれぞれの仕事に没頭する面々に「お先に失礼します」と声を掛け、真希は朝倉と肩を並べてフロアを後にした。
「何でそんな無駄に自分を追い込んでいる?」
それは。
こうやって、“仕事”という殻に籠っていると、色々なことを考えなくて済むからであるのだけれど、もちろんそんなことを言えるわけもなく。
「成果発表にしろ、その後の論文投稿にしろ、余裕綽々でこなしていたように見えたが」
「そこは、自己完結的な研究との違いというか」
少々苦しい言い訳を口にする。
「……まあ、そういう体を取るのならば、こちらとしても正論でいくしかないわけだが」
全てお見通し、といったように、朝倉はニヤリと笑う。
「その手の話を聞きたいのか?」
いえ、全く。
真希は少し反抗的な気分になって切り返す。
「その手の話をしたいんですか?」
「全然」
エントランスを通り抜けると、日中の熱気をいまだ残した空気に包まれた。
この瞬間いつも、真希は自分がゆっくりと有機化されるような気分になる。
1と0の世界から、曖昧な、不確実な世界へ。
意識しないようしまい込んだ思いまでが、ゆらゆらと目覚めるような。
朝倉が、手にした車のキーをちゃらりと鳴らした。
「送る。バスを待つなんて言うなよ」
一旦解けてしまった緊張を、再びまとうのはなかなか難しい。
流れに任せてみれば、と思う真希がいて、かろうじて保たれている距離を失いたくない、と思う真希がいる。
「じゃあ、あの、駅まで……」
「夕飯付き合ってもらいがてら、自宅まで」
迷う余裕を与えず、朝倉が言葉を継ぐ。
「仕事にどっぷり浸かって俺をやり過ごすつもりでいたなら残念だったな」
「そんなつもりは」
「なかったわけがない」
「……わかっているなら聞かないで下さいよ」
ぼそっと呟く真希に向かって、朝倉は鼻をふん、と鳴らした。
「そろそろ気付いてくれてもいい頃だと思うんだが、俺はそうそう簡単には引き下がらない。なかったことにするつもりはないと、言っただろう?」
「そんな言葉を聞いたような、聞かなかったような……」
「なんなら、忘れないようにしてやってもいいんだぞ」
どんなふうに?
とは、とても聞くことができない。




