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持て余すもの

「――やっぱり何かあったんだ」


そう言って、樋川が向かいの席にトレーを置く。

と同時に社員食堂の騒めきが一気に耳に入ってきて、真希は目を瞬かせた。


「へ?」

「落としたの、気付いてないし」


手元に視線を向けると、何も掴んでいない箸が中空で止まっている。


「……おっと唐揚げめ、逃亡するとは」

「勝手に意思を持たせるなって唐揚げが言うよ」


ひょいと肩を竦め、真希は皿の上から逃亡犯を拾い上げた。


「じゃあ、箸が職務放棄した」

「箸を持つその手は、詰責(きっせき)されないんデスカ」

「はいはい。ちょっとね、考え事をしてました」


そう言って口に運ぶと、樋川がニヤリと笑う。


「顔がどうとか?」

「……それは忘れて」


真希はつっと視線を逸らせた。

朝はどんな表情(かお)で朝倉と向き合ったらいいのか、結構真剣に悩んでいたのだ。


「目も鼻も口も、定位置についていることを確認したから」

「ふぅん。――で? 実際のとこ何があったのさ」


鯖の塩焼きに箸をつけながら、樋口は片眉を跳ね上げる。


「うーん………データの収集が、だね」


安西は『データをただただひたすらに集めるしかないんじゃない?』と言ったけれど。


「いや違うな。仮説が上手く立てられない、のか……」

「そりゃ、仮説を立てるに十分なデータが揃ってないってことなんじゃないの?」


真希は、ひょいと肩を竦めた。


「まあね。っていうかさ、これだ(・・・)って時はほら、ある程度データが積み上がった所で、スコーンとこう抜ける感じがするじゃない」

「ああ、道筋が見えるっていうか何ていうか?」

「そうそう。それが、見えてこないんだよねぇ……」


今に至るまで、自分の感情から敢えて目を逸らしてきた真希である。

例えるならば。

整理も精査もせずに、諸々全部まとめて突っ込んできた箱を、思い切って引っくり返してみたのだけれど……という状態だ。

まるで、自分の気持ちの向かう先が見えない。

ひとつひとつの出来事にまつわる感情の揺らぎは、案外鮮明に思い出せたりする。

それなのに、それらを積み上げた途端、急に焦点がぼやけてしまうというか。


「でなければ条件の与え方が悪いのかな。ベクトルを変えると案外すっきり道筋が見えてくるのかもよ」


ご飯を頬張りながら無造作に口にされた樋川の言葉に、真希は思わず箸を止めた。


「――条件?」

「だからほら、縦軸と横軸にとるものを入れ替えてみるだけでグラフがばっちり決まることとかあるでしょ? 囚われていると、そういった単純なことに気付けないじゃない」


分析や解析に執着するあまり、個々のデータが持つ意味を捉え損ねてしまう、とか?

そもそも。

何故自分はそれらを隠すようにしまい込んでいたのだろう――大切な物みたいに。

いやいや、しまい込んでいたというのは正しくないような気がする。

感情を変に波立たされたから、記憶に残っていたというだけで。

そう、決して隠していたわけでも、大切にしていたわけでも――……


「もしもーし」

「ん?」

「いっそひと思いにヤッてくれって言ってる」


樋川の視線を追うと、唐揚げが皿の上で半ば解体されていた。


「あら」


何となく惰性で定食を頼んでしまったが、どうにも箸が進まない。


「ご馳走様。ごめん、先行くね」


そう言って席を立つ。


「え? 殆ど箸を付けてないのに」


当惑する樋川を残して、真希は社員食堂を後にした。

エントランスを抜け、初夏の緑にあふれた中庭へふらりと足を向ける。

大きな木の下には、持参した弁当を食べたりちょっとした休憩が出来るようにベンチが置かれているのだ。

その内のひとつに腰を下ろし、背を凭れて目を閉じる。

感情を波立たされるのは苦手だ――

揺れる木漏れ日を瞼越しに感じ、木々の騒めきに耳を澄ませていると、徐々に気持ちが凪いでゆく。

と同時に、じんわりと眠気が忍び寄って来た。

大丈夫、眠らない――だけど、ほんの少しだけこのまま。

昨夜は朝倉のセリフや表情が幾度となく甦ってきて、なかなか寝付けなかったのだ。

俺を好きなことに気付け、だなんて。

全く、何て傲慢なセリフなんだろう――……




もぞ、と頭を動かして、真希は身体を預けているそれにしっくりと納まろうとした。

もう少しこう……っていうか……何だかやけに安定感があるような。

ハッとして目を見開くと、馴染みのある声が耳元でした。


「お目覚めか」


お目覚めですとも!

思いっきり寄り掛かっていた肩からカバッと身を起こすと、目の前にゼリー飲料が差し出される。


「樋川が心配して俺の所に来た」


隣で肩を貸してくれていたのは、朝倉だ。


「朝からぼんやりしていて、昼も殆ど食べていない。体調でも悪いんじゃないかってな」


差し出されたゼリー飲料を、アリガトウゴザイマス、と受け取りながらも真希は朝倉と目が合わせられなかった。

迂闊にも眠り込んでしまうとは。


「所内を捜したがどこにも見当たらないし、ようやく見つけてみればこんな所で眠りこけているし」

「すみません、体調が悪いとかではないです」


ちらりと手元の時計を確認すると、それなりに時間が経っていて真希は小さく呻いた。

その時。


「ちょっといいか」


不意に横から伸びてきた手が、額を覆う。

う、わ。

一拍置いて、身体が急に熱を帯びた。


「何となく熱っぽいんじゃないのか」


こんなことをしておいて何を言う。


「そんなこと、ないです」


真希は慌ててその手から逃れ、意に反して赤くなった顔を背けた。

心臓が不意打ちに抗議している。

すると、朝倉がしれっと口にした。


「結構露骨に迫ったのに、完全スルーかと気を揉んだぞ」


朝からまるっきり通常営業だったヒトが何を言うんだか。

思わず振り向くと、ベンチの背に肘を掛けこちらを見つめる朝倉と視線が絡む。


「あの、アレはなかったことに」

「は、しない」


言葉尻を攫って、朝倉は片眉を跳ね上げた。


「そうしたいのか?」


引っくり返した箱の中身を、真希はどう扱ったらいいのか決めかねている。

もう一度箱の中に詰め込んでしまえるのであれば――


「出来るんですか?」

「出来ないだろうな、少なくとも俺は」


「つまり」と徐に腰を上げて、朝倉は真希を見下ろした。


「なかったことにはさせないってことか」

「……何ですか、その他人事な感じ」

「まあ、俺自身が“何言ってんだお前”って思っているからだろうな」


朝倉が苦笑する。


「取り敢えず、体調が悪くないのであればいい。三時から例のプロジェクトの全体会議、ぼんやり参加して情報を取りこぼすなよ」


そう言い残して去っていく後ろ姿を、真希はため息を吐いて見送った。

一応心配して様子を見に来たけれど、ついでに念押しも忘れずにしていくとか。

くいと蓋を捻ってゼリー飲料をひと口飲み込む。

またひとつ、扱いを持て余す出来事が増えてしまった。

いや、持て余しているのは単に出来事そのものではなくて、それによって引き起こされる諸々の感情なのだけれど――




「お。眠り姫はお目覚めか」


デスクに戻った真希に、岡戸が声を掛けてきた。

朝倉はまだ戻っていないようなのに、何故それを。


「調子はどうなの?」

「え? ええ、大丈夫です」

「広田さん、もしかしたら体調が悪いのかもって樋川君が言いに来てさ。朝倉君が心配して探しに出たんだけど、実は俺がキミの第一発見者。廊下の窓から見かけてびっくりだよ」


こんな風になってた、と岡戸は椅子に寄り掛かり首を斜めに傾けて実演する。

真希は片手で顔を覆った。

他にもその醜態を目にした者がいるのだろうか。

あるいはその後に続く醜態を。


「あんなとこで寝てたら風邪ひくし。ってか、調子悪いからあそこで寝てた?」

「第一発見者って……起こして下さいよ、岡戸さん。寝不足でちょっとウトウトしていただけなんですから」

「え? 眠り姫を起こすのは王子の役目でしょ。俺、そういう柄じゃないし」


ニヤリと岡戸が笑う。

それから、真希に向かってスマホを掲げて見せる。


「驚くなかれ。昨今はコレで王子を宅配(デリバリー)できるんだぞ。SNSでちゃっちゃっと“眠り姫発見、王子急行せよ”ってな具合」


そんな手間をかける前に、その眠り姫(・・・)とやらに直接連絡を入れるって手もあったんだと思いますけどね。

スマホぐらい持ち歩いてるんですけど。

真希は頬杖をついて、この状況を面白がっている岡戸を軽く睨んだ。





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